イエスよ、わたしを思い出してください

2008年1月13日(日)日本キリスト教団岡山教会・伝道礼拝説教

説教時間:約25分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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■聖書:ルカによる福音書23章39〜43節(新共同訳・新約)

  十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

四苦八苦

  仏教の開祖である、ゴータマ・シッダールタ、いわゆる釈尊と呼ばれる方は、生老病死を四苦と呼んだそうです。生まれることも苦しいし、老いることも苦しい、病むことも苦しいし、死ぬことはもっと苦しい、という人生の苦しみに釈尊は注目し、そこからの解脱の道を探りました。
  この4つの苦しみ:四苦に加えて、さらに4つの苦しみ、すなわち、愛する者と死別したり、あるいは生き別れたりしなければならない「愛別離苦(あいべつりく)」、嫌な人とも会わなければならない「怨憎会苦(おんぞうえく)」、欲しいものを求めても与えられない「求不得苦(ぐふとくく)」、さらには、食べたり寝たり性的な対象を求めずにはいられない、とにかく生きているかぎり五感(五官)を満たさずにはおられない、そういう欲望が苦しみであるという「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」、この4つとさきほどの「生老病死」をあわせて、「四苦八苦」というわけですが、釈尊はこの苦から解放されることを求めて、悟りを始めたと言われています。
  人間にはどのような苦しみがあるのか、について、きちんと整理して考えた仏教の考えは、わたしたちクリスチャンも学ぶべきところがあると思います。
  私たちの主イエスにとっても、人間が苦しみから解放されることは大切な課題でした。
  たとえば、イエスはこう語ったと聖書に伝えられています。
  
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章28節)
  あるいは、
「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書6章34節)。そんな言葉をイエスは残してくださっています。

苦しみを知る人にわかる言葉

  私は普段教えている学校で、聖書を読んで、自由に感じること考えることをレポートに書いてみなさいという課題を生徒にやってもらったりしているのですが、この「明日のことまで思い悩むな」という言葉については、面白いほど反応が2つに分かれます。
  一方は、「明日のことを全く考えないで生きていたら、実際上の生活が成り立たない。明日のことを悩んでこそ人間は進歩し、成長するものである。だから、こういう『明日のことを考えるな』といったような、イエスのような無責任なことを言う男は信用できない」……とまぁこんな感じです。宗教のことはとにかく胡散臭い、聖書に書いてあることなんか、どれをとってもインチキだらけだと思っている子は、そういう口調でレポートを書いてきます。
  その一方で、こんな感じのレポートもあります。「私もよく先々のことを考えては気に病んでしまい、今のことさえ手につかなくなることがよくある。そんなとき、誰かが『明日のことは明日考えればいいさ。今日の苦労は今日の一日ぶんでじゅうぶんだよ』と言ってくれたら、どんなに助かるだろうと思う」。
  あるいは、こんなレポートもありました。ある慢性病にかかり、毎日に生きづらさをかかえている生徒です。「病気にかかってから、私は本当に毎日を生きるのがやっとという思いでいる。今日一日を生き延びれば、という気持ちでいっぱいで、明日もまたしんどい一日があるなんてことは考えたくもない。だから、このイエスの言葉にこめられた気持ちがよくわかるような気がする」。
  
(これらのレポートの文章は、いくらか読みやすくするために、手を加えてあります)
  このように、元気に未来のことを考えていける人よりも、苦労をかかえている人、生きづらさをかかえている人のほうが、イエスの言葉を素直に受け止めています。イエスは誰のために言葉を語ったのだろうということを思わずにはおれません。
  そして、これは苦しみからの解脱を図ろうとした釈尊とは少し違う形になるのでしょうけれど、イエスはいつも、苦しみを抱えている人と同じ目線で、同じ苦労を知っている者の言葉で語りかけたのだなぁと思わされます。「イエスなら、私がかかえているつらさをわかってくれるだろう」という感覚が、イエスの言葉を読んでいるとわいてくるんですね。

共に楽園にいる

  今日お読みした聖書の箇所は、十字架にかけられたイエスと、イエスの両側に同じように十字架にかけられた犯罪人たちの場面です。
  十字架というのは、これ以上残酷な刑はないといわれた古代ローマの処刑方法です。両手両足を木の柱に釘づけにされるという痛み。少しずつ流れていく血液によって、やがて出血多量で死に至るまで、何時間も手足の痛みと呼吸困難に苦しみ抜かねばならない。そうして、苦しみぬいた果てには、何もありません。死が待っているだけです。
  イエスの横で、イエスと同じように十字架にかけられていた犯罪人は、自分の人生がこうして恥と痛みと絶望の中で終わってゆくことを思ったとき、心底から恐ろしいと思ったのかもしれません。
  今まであった人生の良いことも悪いことも、すべてが死の闇のなかに消えていってしまう。自分にはこの苦痛を逃れるすべもなく、このまま自分は痛みぬいて、苦しみぬいて、それで終わってしまう。そして全てが無の中に消えていく。その虚無の恐ろしさ、悲しさに、震え上がったのかもしれません。
  一人の受刑者は、目の前で自分と同じ痛みを苦しんでいるイエスに、
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカによる福音書23章42節)と言いました。私という人間は、こうして死んで消えてゆく。しかし、私という人間がこうして生きていたことを、どうかおぼえていてほしい。
  彼はこの世で生きている自分の知人や友人に、自分をおぼえていてくれと頼むことはしませんでした。彼にはもはやこの世では頼る人はいなかったのかも知れません。この世では孤独であったこの人が、「自分のことを覚えていてください。思い出して下さい」と頼むことができたのは、自分と共に死のうとしているこのイエスだけだったということです。
もし、イエスが神の子で、死んだあともよみがえり、天の王座につくような方であったなら、「ただ思い出してくれるだけでいいから」とこの受刑者はイエスに頼みました。「ただ思い出してくれるという約束を今してくれるだけで、自分は浮かばれるから」と頼んだわけです。
  しかし、イエスの答はこの受刑者の想像を超えるところから来ました。イエスはこう答えます。
  
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(同43節)
  「あなたが死んだあと、わたしはあなたを思い出してあげよう」というのではありません。そうではなく「いま、あなたとわたしは一緒に神のもとで喜びに入ることができるのだ」とイエスは言うわけです。

苦しみのない人生はない

  これはたいへん理解するのが難しい場面です。
  肉体的な痛みであれ、精神的な苦しみであれ、苦痛を味わいながら、喜ぶということが私たちにはできるでしょうか。
  私たちは肉体的な痛みと精神的な重荷を完全に切り分けることができません。肉体的に病んだり傷ついたりしているときには、精神的にもダメージを受けますし、精神的に傷ついたり病んでいるときには、肉体的にも症状が現れることが多くあります。
  そして、いつもいつも喜んでいられる人生というのもありません。生きているかぎり、私たちは何らかの苦しみを味わいます。もちろん個々人によって程度の違いはありますが、苦しみの全くない人生、重荷のない人生というものはありえないのではないでしょうか。そして、時にその苦しみが自分ひとりで負いきることができないと感じたとき、人は「死にたい」とさえ思うのではないでしょうか。
  この日本では、1年間に3万人を超える人が自殺してしまうといいます。いま日本では、1年間に交通事故で亡くなる方のおよそ5倍もの人びとが、自分で命を絶っています。
  理由はさまざまにあります。病気のために自分の将来に何の希望も見いだせなくなった。事業に失敗し、経済的に立ち行かなくなって、生きているだけでも人様に迷惑だとしか思えなくなった。イジメと孤立のために、自分が生きている場所を失ってしまった。あるいは、さまざまに襲いかかるストレスのため、最後の安らぎの場所として「死」を思う気持ちに悩まされるなど……冒頭に釈尊の言葉を引き合いに出しましたように、この世はさまざまな「苦」に満ち満ちています。
  このような「苦」を「楽」に変えてくれるものはないのでしょうか。私たちの信じている信仰は、このような苦しみに満ちた社会を救う力を持っていないのでしょうか……。

共苦する

  ところで、私たちが苦しんでいるとき、いつもそばで同じ苦しみを苦しんでいる人がいるとしたら、どうでしょうか。
  たった一人で苦しんでいるとき、私たちはその苦しみに押しつぶされそうになります。しかし、いつも同じ苦しみを味わってくれている人がそばにいるとしたら、私たちの苦しみは和らぐのではないでしょうか。
  「そんな人は現実にはいないさ」と言ってしまえば元も子もありませんが、私たちが信じようとしているイエスという人は、それを実際にやろうとした方ではないかと思うのです。
  十字架につけられて死ぬという死に方は、この世の苦しみのなかでも、最も苦しいもののひとつです。この刑罰で人は必ず死にます。この苦痛に耐えられる人はいません。この人間として受ける最大限の苦痛を味わいながら、「わたしはあなたと共にいる」というメッセージを発したのがイエスという人です。どんな人でも、生きているかぎり、イエスと同じ苦しみを味わうことはあっても、イエスよりも苦しむということはありません。ですから、私たちは「イエスなら、私の苦しみをわかってくれるだろう」と信じることができるのです。イエスは、いちばん苦しんだ人だから、私たちはイエスのことを信頼できるのです。
  イエスの受けた苦しみ:受難のことを
「パッション(passion)」といいます。映画の題名にもなりました。この言葉につながる単語で、英語では「コンパッション(compassion)」という言葉があります。
辞書を引くと、「思いやり、深い同情、憐れみ、共感」といった意味が出てきます。しかし、この「コンパッション」という言葉は、「パッション」の前に「コム」がついた言葉です。「コム」というのは「いっしょに」/「共に」という意味を持ちます。つまり、「コンパッション」というのは、「いっしょに受難する/いっしょに苦難を受ける」という意味になります。通常「思いやり」や「同情」、「共感」と訳される言葉は、実は
「共に苦しむ」という意味を持つ言葉なんですね。
  ドイツ語にも似た言葉があります。「思いやりを持つ、同情する」と訳されるのは、
「ミットライデン(mitleiden)」という言葉です。これも、「苦しむ」という意味の「ライデン」の前に、「いっしょに」という意味の「ミット」という言葉がくっついて、「ミットライデン」となります。やはり「共に苦しむ」という意味になります。
  このような言葉の意味を踏まえてみると、「人に憐れみを持つということは、本来同じ痛みを知るということ以外にはありえないのではないだろうか」と思わされます。
  そして、私たちと同じ痛みを痛もうとした方、共に苦しもうとした人がイエスだったのではないでしょうか。
  私たちが人生の苦しみ、すなわちパッションを味わっているとき、「その苦しみはすでにイエスが苦しんだものだ」と思うことができるのではないでしょうか。
  自分の苦しみは、自分ひとりのものではない、と心から知るとき、私たちは癒されるのではないでしょうか。

ひとりの人と共苦する

  これは、たいへん地道な人の愛し方であるということができます。
  じっさい、自分以外の一人の人と共に痛みを分かち合うということさえ、私たち人間にとっては、せいいっぱいなことなのではないでしょうか。
  イエスは大群衆に向かって、まるで魔法使いのように、たくさんの人びとの苦しみを一気に取り去るということをしたわけではありません。
  そうではなく、イエスは一人ひとりを順番に癒すという地道な活動を行なったのであり、その生涯の最後には、
「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)という言葉を、たったひとりの人に告げただけです。
  聖書が証ししているのは、一人の人が、一人ずつ愛してゆくという愛し方であり、神の子と呼ばれるイエスでさえ、そうされたのだということです。
  これは、あまりに多くの人が苦しんでいる現在、あまりにも地道で、気が遠くなるほど遠回りな、人の救い方ではないかと思います。しかし、聖書が証ししている救いというのは、「ひとり、またひとり」という愛し方によって実現されていくものです。
  ですから私たちも、ひとりの人の痛みを分かち合うということを大切にしながら、互いに愛し合うようにつとめるべきではないかと思います。
  それでも、人と同じ痛みをいっしょに痛むということは、なかなかできることではありません。私たちにできることは、イエスは私たちの苦しみ、悩みを知っておられることを信じ、それを支えにしながら、私たちも互いに寄り添いあって生きていこうとすることではないでしょうか。
  苦しむ一人の人間が、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったとき、「いや、すでにあなたはわたしと一緒にいるのだ」とイエスは答えてくださる。
  あるいは私たちが、「苦しいです」、「痛いです」と訴えるとき、「わたしも苦しい」、「わたしも痛い」、「同じ苦しみを私も味わっているよ」と応えてくださる。「わたしもあなたの苦しみを取り去ることはできない。しかし、少なくとも、私はあなたを見捨てない。共にいる」、そうやって応えてくださる。
  そこに、「私は見捨てられてはいない」という喜びが隠れているのではないでしょうか。
  そのことを伝えるのがイエスの畢生の願いだったということをしっかりと受け止め、私たち人間同士も、お互いに一人ひとりの痛みを受けとめあいながら、お互いに思いやり合い、生きてゆきたい。
  そして、「私たちは互いに一人ではないではないか」、「イエスが共にいてくださるではないか」と声をかけあいつつ、生きてゆきたいものです。
  お祈りいたしましょう。

祈り

  神さま。
  この聖日、こうして岡山教会において、共々に礼拝をささげることができます恵みを心から感謝いたします。
  ここには、あえて口には出さなくても、悩みを持つ者、苦しみを抱える者がいるかもしれません。どうか、そんな私たちひとりひとりに、あなたの御子イエス・キリストがそばについてくださるということを、信じさせてください。
  そして私たちが、少しでも共に苦しみを分け合うような愛を実践できるように、導いて下さい。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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