わたしを思い出してください

2004年4月7日(水)日本キリスト教団香里ケ丘教会・受難週早天祈祷会奨励

説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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■聖書:詩編22編2〜9節(新共同訳・旧約・p.852)

  わたしの神よ、わたしの神よ
  なぜわたしをお見捨てになるのか。
  なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
  呻(うめ)きも言葉も聞いてくださらないのか。
  わたしの神よ
  昼は、呼び求めても答えてくださらない。
  夜も、黙ることをお許しにならない。

  だがあなたは、聖所にいまし
  イスラエルの賛美を受ける方。
  わたしたちの先祖はあなたに依り頼み
  依り頼んで救われて来た。
  助けを求めてあなたに叫び、救い出され
  あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。

  わたしは虫けら、とても人とはいえない。
  人間の屑、民の恥。
  わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑(あざわら)い
  唇を突き出し、頭を振る。
  「主に頼んで救ってもらうがよい。
  主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。」

■聖書:ルカによる福音書23章32〜43節(新共同訳・新約・p.158−159)

  ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。「父よ、かれらをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
  十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

「わたしを思い出してください」

  二人の犯罪人が、イエスと共に、イエスの左右両側に、イエスと同じように十字架にかけられたといいます。
  彼らはイエスと同じように、何年どのように生きてきたかは知らないけれど、その人生の終わりを、一糸まとわぬ素っ裸で見世物にされながら恥をさらし、人々にからかわれ、ののしられ、手と足を釘で打ちぬかれて木の杭に打ちつけられてつるされるという想像を絶する痛みにもがきながら、しかもその状態で両手をつるし上げられながら自分の体重がかかっているために肺を広げて息を吸うことができないが故の呼吸困難に陥りつつ、ゆっくりと時間をかけて次第に出血多量で意識を失い、絶命するまで何時間もうめき苦しみながら、死に近づいてゆくという、そういう恥と孤独と絶望と痛みの奈落をこれからさまよおうという、そういう人生の最期の迎え方をしていたわけです。
  犯罪人の一人はイエスに、
「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(ルカによる福音書23章39節)と言いました。まだ体力のある彼は、やけくそになって当り散らしていたのかも知れません。このような絶望のさなかでは、誰でもこんな風に悪態をつきたくなっても仕方がありません。
  しかし、もう一人の犯罪人は、最初の犯罪人をたしなめた上でこう言います。
  
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(同42節)
  この犯罪人は「わたしを思い出してください」と言いました。それが彼にとって最後にすがった綱であったように感じます。衣服もはがれ、仲間にも逃げられ、もう何も失うものがないほどすべてを奪われて、その上で時間をかけていたぶられながら命まで奪われようとしている。その状況で、この犯罪人が望んだことは「わたしのことを思い出してほしい」ということ。自分がここに生きていたということを、誰かに認めてほしいということだったのであります。
  この犯罪人にとって、すべてを奪われたときに、最後にうしないたくなかったもの、それは、「自分がここに生きている」あるいは「生きていた」という事実そのものでした。
それは、わたしたちにとってもやはり、最後に残る一番大切なものかもしれません。

「わたしは虫けら、人間のくず」

  人にとっていちばんつらいこと、苦しいこと、それは「わたしが生きていることには、何の意味もなかった」と感じることではないでしょうか。「わたしはどうせこの世にいてもいなくてもいいような存在なのだ」「わたしは人間のクズなのだ」と。
  他ならぬイエス自身が、そのような絶望の言葉を吐いたと、マルコとマタイの両福音書は伝えています。
  
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコによる福音書15章34節/マタイによる福音書27章46節)
  これはイエスが、救いのない追い詰められた状況の中で、朦朧とした意識のまま、詩編の22編を口にしていたのだ、と見ている人もいます。
  
詩編22編は「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(2節)という言葉から始まります。
  
7節には「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑(くず)、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑(あざわら)い、唇(くちびる)をつきだし、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう。』」とあります。
  イエスは活動の半ばで逮捕され、「あなたのために命を捨ててもかまいません」とまで言った愛する弟子たち全てに逃げ去られ、完全なる孤独のなかにいて、さらには神に対してさえ「なぜわたしを見捨てたのですか」と嘆きの声を上げました。このような死に方が、もともとは彼にとって不本意な死に方であったことは、オリーブ山で
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(ルカによる福音書22章42節ほか)と彼が祈ったことから明らかです。
  彼は誰からも守られていない、誰からも見放され、全てを奪われた上に、自分の存在さえも跡形もなく末梢・消去されようとしている惨めな存在でした。
  そして十字架刑というのは、まさにそういう絶望を味わわせるためにあるような刑罰でした。受刑者に「おまえは生きていなくてもいい存在なのだ」ということを、徹底的に時間をかけて味わわせながら殺してゆく刑罰なのです。
  イエスの横にいた犯罪人:受刑者はそれに耐えられなくなったのでしょう。そして、「わたしをおぼえていてくれ!」「わたしを思い出してくれ!」「わたしをいなかったことにしないでくれ!」と、イエスに訴えたのではないでしょうか。「たとえ、この世で自分の存在が最初からなかったかのように削除されてしまったとしても、おまえがもし本当にメシアだというのなら、やがて来る未来の神の国で、わたしのことを思い出してくれ(思い出してくれるだけでいいから)」と。

「いま、あなたをおぼえている」

  イエスは答えました。
  
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカによる福音書43節)
  未来でなく、今、いっしょに楽園にいるんだよ。
  未来に思い出すのではなく、今、あなたのことを、しっかりとおぼえている。
  理由も根拠もなく、何が立派だからというわけでもなく、何ができるからというわけでもなく、むしろ状況は痛く、醜く、情けなく、絶望的である。しかしそれでも、ただそこにあな  たが生きているから、わたしはあなたをおぼえている。
  わたしはあなたを思っている。
  わたしはあなたを忘れない。
  わたしはあなたを心に留めている。
  あなたは大切な人だ。
  あなたは大事だ。
  あなたはかけがえのない人だ。
  あなたは、あなただ。
  だからわたしはあなたを愛している。
  ……そのような神の思いが、このイエスの言葉にあふれています。
  しかも、あなたは一人ではない。
  わたしがいっしょに苦しんでいる。
  わたしたちはいっしょだ。
  あなたは一人で苦しんではいない。
  同じ苦しみを今、わたしが今味わっている。
  わたしたちは同じ苦しみを共有している。
  あなたは一人ではない。
  あなたとわたしはいっしょに同じ神の世界の中に、既に入っている。
  ……そのような呼びかけが、イエスの言葉から染み出しています。
  自分自身がその存在を消去されようとしている人間が、隣にいる人に「おまえの存在は決して消去されないのだ」という愛の言葉をかけることができたという奇跡が、ここに起こっています。

十字架にかけられた人びと

  わたしたちはふだん、人生の意味とか、命の重みとかいったことを、さほど意識しないでも生きてゆけるようにできております。しかし、ふだんとりたてて意識してはいないと言っても、それでもなんとなく日々の生活のなかで、自分の存在の確かさというものを確認しながら生きているものです。
  知り合いと「おはようさん」と挨拶をするという、そんな何気ない小さなことを通しても、人は自分という人間が正当にこの世に存在しているという実はとても大切なことを確認することができます。
  これはお手軽なようで、実はとても大切なことです。たとえば、こちらが挨拶をしているのに、知り合いが挨拶しないで無視したとする。ひどく心が傷つけられます。なぜ傷つくのかというと、自分の存在を無視された。自分が存在していないかのように扱われるからです。
  人間は、自分が生きている、という事実を認めてもらう、というのが最低の根本的な生きる条件です。
  しかし、わたしたちはじっさい、時折、「ほんとうに自分の今までの人生は何だったんだろう?!」と思わずにはおれない事態に陥ることがあります。
  「今までの苦労は、ぜんぶ無駄になってしまった!」
  「今までの人生のすべては無意味だった!」
  「いったいこれからどんな希望を抱けるっていうの?!」
  そう言いたくなるような時が、生きているうちには必ず何度か、あるいは何度もあるのではないでしょうか。
  あるいは、何度もそんな人生の無意味さを味わううちに、すっかり絶望になれてしまって、無味乾燥な渇ききった心を抱えながら、魂の抜け殻のように生きている、「自分なんかいなくてもいい。死んでしまえばいい」という思いを、心の片隅のどこかに抱えながら生きている人もたくさんいるのではないでしょうか。
  その人は、すでに自分の心を十字架にかけられてしまっているのです。「おまえの人生には意味はなかった」「おまえは生きていてもいなくてもいい存在だ」という呪いをかけられているのです。

絶望のときにこそ求めよ

  しかし、わたしたちは、勇気を出して、「いや、わたしの名前を覚えていてくれ!」「わたしのことを思い出してくれ!」と、声を振り絞らなくてはいけません。
  イエスに「わたしを思い出してください」と訴えた犯罪人のように、わたしたちは勇気を出して、自分の存在に意味を与えてくれ、と神に祈らなくてはいけません。
  
「求めよ、さらば與(あた)えられん」(マタイによる福音書7章7節:文語訳)です。もし、この犯罪人がイエスに声をかけなければ、イエスの答は返って来なかったでしょう。
  わたしたちはイエスに、そして神に、「わたしを覚えていてください!」と呼びかける祈りをささげるべきです。
  苦しいとき、絶望のとき、孤独のときにこそ、「わたしの人生には、それでも意味があるはずです。そうでしょう、神さま!」と求めなければなりません。「意味がある存在だからこそ、わたしを創ったんでしょう、神さま!」「意味のある人生だからこそ、わたしを生まれさせてくださったんでしょう?」と、神に自分の人生の意味を、そして存在の意味を求めなければなりません。
  わたしたちにはその権利があります。そのことを、今日お読みした聖書の箇所が証言してくれているのだと思います。聖書は、イエスご自身が、誰からも見捨てられ、二度と安らぎへと引き返すことのできない苦しみへの一方通行を味わいながら死にゆくような、絶望的な状況に人が陥っていたとしても、それに付き合っていこうとされた方であるということを証言しています。
  そして、そうやっていっしょに苦しむことで、自らの身を痛めながら苦しむ人を孤独から救い、しかも、その人の人生を覚えてくださる方だ、ということを証言しています。
  こういう愛があるのだ、ということをおぼえて、生きていきたいと思います。
  こういう愛を描く本、すなわち聖書がここにあるのだ、ということを支えに、生きてゆきたいと思います。
  祈りましょう。

祈り

  愛する天の御神さま。
  イエス・キリストの受難をおぼえる週の、この一日、こうして朝の静かなひとときを、御言葉と祈りをもって始めることができることを感謝いたします。
  神さま、わたしたちが味わいうる最大の苦しみを、あなたの御子イエスが受けてくださったことを感謝いたします。
  わたしたちが苦しいとき、あなたはその苦しみをしっていてくださいます。
  わたしたちが誰からも守られていないとき、あなたはわたしたちのことをおぼえていてくださいます。
  神さま、どうかわたしたちのそばにいつもいてください。
  あなたがいつもそばにいてくださいますから、わたしたちが生きてゆけることを思い、心から感謝いたします。
  この祈りを、十字架にて苦しみつつもわたしたちを愛してくださったキリスト・イエスの御名において、お聴きください。
  アーメン。


  ※挿入画像:ブロイ(父)『十字架を立てる』1524、油彩、ブダペスト国立美術館所蔵(部分)(写真は日本聖書協会編『アートバイブル』2003、p.174より複写)


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