希望への責任(希望は子どもの姿でやってくる:改題)

2006年12月24日(日) 日本キリスト教団香里ケ丘教会 クリスマス・イブ音楽礼拝説教

説教時間:約15分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:ルカによる福音書2章1〜7節 (新共同訳・新約)

  そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおのじぶんの町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるまって飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

居場所がなかった夫婦

  クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う喜びの日です。しかし、イエスを産んだマリアと、その夫ヨセフにとっては、イエスが生まれるまでの状況は、決して明るい希望に包まれたとは言えないものでした。
  その当時、ユダヤ地方は、世界最強の軍事力を誇るローマ帝国に占領されていました。マリアとヨセフの夫婦は、住民登録をするために、ベツレヘムに旅をしたと聖書に伝えられていますが、要するにいわば夫の本籍地に戻って、税金を取り立てられるための戸籍の登録をさせられたというわけです。
  そのベツレヘムという土地で、彼ら夫婦は
「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」(ルカによる福音書2章7節)といいます。
  これはおかしなことで、もしベツレヘムが夫ヨセフの本籍地であり、ヨセフの親戚筋の人間もいくらかは住んでいたであろうことを考えると、彼ら夫婦、しかも今にも子どもが生まれそうになっている切迫した状況であったにもかかわらず、彼らを泊めようとする親戚ひとりもいなかった、というのは不思議なことです。
  あるいはおそらく、マリアがヨセフとまだ結婚もしていないのに妊娠したということにも関係があったのかも知れませんが、どうも彼ら夫婦はヨセフの親戚たちから遠ざけられていたようです。
  ですから、ただ単に宿屋が客でいっぱいだったから泊まれなかったということ以上に、彼らはベツレヘムという夫の故郷の町から拒絶されている。彼らを歓迎する人は一人もいない。つまり、本来居場所であるはずの場所に居場所がなかった、とても寂しい状況に置かれており、しかも妻の出産間近であったにもかかわらず、誰も頼る人もいない惨めな境遇に捨て置かれていたということなのですね。

希望の幼な子

  しかし、ともすれば失望し、絶望してしまってもおかしくないこの夫婦のところに、ひとりの赤ん坊が与えられました。
  赤ん坊が泣いているのを見ると、大人はいてもたってもいられなくなります。なんとかしなければ、と思います。放っておくわけにはいかないと気づきます。おなかがすいているのか、うんちが出たのか、あるいはだっこしてほしいのか。なんとかして子どもの要求を聞き取り、それに応えようとします。
  「子どもが生まれることによって、親は初めて親になり、大人になる」とはよく言われることですが、幼い子どもは、大人に大人としてしっかりすることを要求します。
  マリアとヨセフの夫婦も、イエスという赤ん坊が生まれることによって、大人としてしっかりせざるを得なくなりました。大人といっても、この当時、結婚したての夫婦というのは、15−16歳の若さでありました。けれども、それでも彼ら夫婦は親としてしっかりすることを要求されてしまったのですね。
  絶望的な状況にあった若い夫婦のもとに与えられた命は、二人の希望となるべき子どもでした。しかしその希望は、二人に「もっとしっかりしなさい」ということを要求する存在でした。「あなたたちがしっかりしてくれないと、わたしは死んでしまうよ」と泣き続ける、そんな赤ん坊が、この二人の希望の光だったわけです。意気消沈していた二人は、赤ん坊の姿を見ることで、「もう一息がんばろう」と気持ちを立て直して生きることができたわけです。

希望への責任

  このイエスの誕生の場面を思い浮かべるたび、私たちは、「希望をもって生きる」ということは、「目の前の課題に対して責任を持って生きる」ということと分けることができないことに気づかされます。
  赤ん坊はたしかに未来への希望そのものですが、放っておくと死んでしまいます。私たちは赤ん坊への責任を果たさないと、その小さな希望を育てることもできない。希望がやがて実ってゆくことを見届けることもできないのです。
  希望というのは、黙っていれば幸せな方向へ引っ張っていってくれるというようなものではないんですね。希望というのは、目の前の可能性を地道に育てようとする努力の中からしか生まれてきません。
  もちろん、その努力をたった一人で負う事はたいへん難しいことです。希望を育てる責任が私たちにあることは事実ですが、それは一人一人の責任を追及するような形であってはならないはずです。そうでないと、本来は希望であるはずの存在が、重荷にしか感じられなくなってしまい、喜びどころか孤独感と怒りに心が乗っ取られてしまい、そこに暴力が生まれます。
  幼子イエスの誕生を迎えた若いマリアとヨセフの夫婦が、互いに支え合ってこの失望に陥りそうな夜を乗り越えたのと同じように、私たちも互いに支え合い、助け合って、希望を育ててゆくようにしなければなりません。マリアはヨセフなしには過ごすことはできなかったし、ヨセフもマリアなしには過ごすことができなかったはずです。二人が支えあうことで強さが生まれ、赤ん坊の誕生を希望の出来事として喜ぶことができ、その希望に対して責任を果たしてゆこう、と奮い立つことができたのであります。

自らのためでなく

  しかも、ここで大切なことは、その赤ん坊は正確にはこの夫婦の子どもではなかったということです。ヨセフは自分の子どもだからイエスを愛して育てたのではありませんでした。彼は自分のあとつぎだから、その子を大事にしようとしたのではありません。彼は自分の子どもではない子どもを引き受けて育てる責任を負ったのです。自分の子どもではなくても、その子は未来への希望なのだ、だから育てる。そこに、夫婦や血縁といったしがらみとは関係なく、希望を育ててゆこうとするヨセフの愛が表れています。
  ここに私たちは、自分自身の利益にはならないことでも、未来のために力を注ぐことのできる人はいる、そのような愛もあるのだ、ということを学ぶことができます。
  赤ん坊のイエス・キリストは、私たち一人ひとりに、「希望への責任」を果たしなさい、と教えてくれています。クリスマスを喜び、楽しむことは誰にでもできます。そして、多くの人は祭が終わると去ってゆき、お祝いの意味も忘れてしまいます。しかし、イエスの誕生の意味を本当に受けとめた人は、赤ん坊を育てるマリアとヨセフのように、希望を守り、育ててゆく責任を負います。
  その希望への責任を、私たちは一人ぼっちではなく、また自分ひとりの損得勘定からでもなく、互いに支えあい、助け合って、果たしてゆくことで、明るい未来を作っていける、と信じたいのであります。
  祈りましょう。

祈り

  愛する天の御神さま。
  今年も私たちにクリスマスのお祝いをする場を与えてくださり、心から感謝いたします。
  今年も希望の光として、主イエス・キリストのご誕生を心の中に迎え入れることができますことを感謝いたします。
  希望の見えにくい時代にあって、私たちひとりひとりが、それぞれの生きる場において、目の前のことに真摯にかかわってゆくことができますように、どうか私たちをお支えください。
  私たちに希望に対する責任を果たす力をお与えください。
  この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお聴きください。
  アーメン。

 ※参考文献
    本田哲郎『釜ケ崎と福音』岩波書店、2006
    越川弘英『キリストの生まれるところ −アドヴェントとクリスマスのメッセージ−』キリスト新聞社、2004

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