救いなき者に救いを

2005年12月24日(土)日本キリスト教団香里ケ丘教会 クリスマス・イブ音楽礼拝説教

説教時間:約15分……パソコンに取り込むかプリントアウトしてゆっくりお読みください。

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聖書:ルカによる福音書2章1−7節(新共同訳)

  そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフのダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

不思議な宗教

  キリスト教というのは不思議な宗教です。
  この世を救う救い主と呼ばれる方が、この世で一番弱い姿でやってこられます。
  「赤子の手をひねるように」とは申しますが、まさに手をひねるだけで痛めつけられてしまうようなか弱い姿で、救い主がこの世に現れたわけです。逆に救い主のことを、われわれ人間のほうが守ってあげなければなりません。
  ひょっとすると、これは神さまのユーモアなのかも知れません。
  「どうか私たちを救ってください」とすぐに神さまに甘えたくなる私たちに対して、「いやいやお前たち自身がしっかりしないといけないのだよ」と、神さまは救い主を赤ん坊の姿でお送りなさったのではないかと思うのです。
  またキリスト教は、この救い主の生涯の閉じ方においても、不思議なことを伝える宗教であると言えます。
  それは、この世を救うといわれる方が、この世でいちばん惨めな死に様をさらして死んでしまうからであります。
  イエスは十字架にかけられて亡くなられました。十字架刑というのは実に残酷な処刑法です。裸にむかれた最も恥ずかしい姿で、手足を釘付けにされて苦痛に身もだえしながら、時間をかけてじわじわとなぶり殺しにされてゆく。十字架の上で死にゆく囚人には苦痛と孤独、その他ありとあらゆる絶望的な救いのなさが襲います。
  どうして神さまは、救い主にそのような惨めな死を与えたのでしょうか? 栄光に満ちた神の子であるならば、どうして奇蹟的な力で十字架から降りてこなかったのでしょうか。
  それは、そのような超人的な力で、救い主一人が栄光に輝いていたところで、この世のあちこちの片隅で本当に苦しみを抱えている人は少しも救われない、ということを、神さまもイエスさまもよく知っておられたからではないでしょうか。
  そんなことよりも、イエスご自身は、この世のもっとも弱い存在、もっとも貧しい存在、もっとも痛めつけられている存在に、自ら寄り添い、同じ苦しみ、あるいはそれ以上の苦しみを自分の身に与えることが、この世で苦しんでいる人に対する唯一の救いなのだということを、よくご存知であったからです。

「始まり」に示された「終わり」

  生まれたばかりの赤ん坊のイエスは、飼い葉桶に寝かされた、とルカによる福音書は伝えています。
  飼い葉桶というのは、牛やロバなどを飼うために、エサの干草を入れておく桶ですから、イエスは馬小屋で生まれたのだ、という伝説が生まれました。
  しかし実は聖書には、イエスが馬小屋に生まれたとまでは書いてありません。当時、ユダヤでは家畜を岩山の斜面の洞窟で飼っていたといいますから、もしこのお話が事実に基づいていたとすれば、イエスが生まれたのは洞窟のなかであった可能性が高いとは言えるでしょう。
  また、飼い葉桶というのは、石を彫って上の部分をくりぬいた、四角い石臼とでも言えるような形をしています。つまり、洞穴のなかの四角い石のベッドに、赤ん坊のイエスは寝かされた、というわけです。そして、その傍らには、母マリアと父ヨセフの姿があります。その様子は清らかで和やかな情景として想像されます。
  しかし、その温かい情景の中に、すでにイエスの死が予告されていることを、みなさんはご存知でしょうか。
  イエスの生涯の終わり。十字架につけられて息絶えたイエスは、洞窟のように岩にくりぬかれた横穴式の墓のなかに入れられ、石の寝台の上に寝かされます。たったいま息絶えたばかりのイエスを見守るのは、マグダラのマリアとアリマタヤのヨセフ……。
  つまり、洞穴の中で石の上に寝かされて、マリアという名前の女性と、ヨセフという名前の男性に見守られる、という点で、イエスの誕生の情景と死の情景は二重写しになっているわけです。
  誕生がすでに、来るべき死を予見しています。
  「洞穴の中にある石の台に寝かされる。そういう死に方をするために、この子は生まれたのだ」ということを、ルカによる福音書のイエス誕生の物語は暗示しているのであります。

救いのなさを味わいつくすために

  私たちにとって、悲しみや苦しみといったことは、自分以外の誰のものでもありません。
  私たちは、自分以外の人の悲しみや苦しみを、引き取ったり、身代わりになったりすることはできませんし、自分の悲しみや苦しみを、誰か別の人に負ってもらうということができません。
  私たちは自分の悲しみを悲しみ、自分の苦しみを苦しむ以外にありません。私の悲しみ、苦しみは、私のものでしかないのです。
  しかしそれでも、わたしたちは、自分と似た悲しみや苦しみを味わっている人と出会うと、自分の苦しみが自分だけのものではないことを知って、すこし痛みがやわらぐような気持ちがするときがあります。
  同じような、あるいは似た苦しみを体験した人が、たがいに理解し合おうとするならば、自分のことがわかってもらえる喜びによって、その悲しみ、苦しみは、少しやわらげられたものになります。
  「わたしは独りではない」ということを知ることは、私たちに癒しを与えてくれます。
  救い主ひとりが栄光に包まれて輝いていても、そんな救い主は、この世の現実のなかで苦しみ、悲しみ、悩む人間には全く関係のない縁遠い存在です。
  イエス・キリストは、この世で救いを見いだすことのできない苦しみに陥っている人と同じ苦しみを味わうために、あるいはそれ以上の救いのなさを味わうために、そしてそのことによって、この世の苦しむ者がひとりぼっちではないということを知らせるために、この世に来られたのであります。
  私たちは「神さま、なぜ私たちをこんな目にあわせるのですか?!」と嘆きたくなるような体験を、1回の人生のなかで何度も味わいます。
  全能の神であるならば、私たちが苦しみにあえいでいるときに、そこから助け出してくださってほしいものです。あるいは、せめてこの苦しみ・悲しみに何の意味があるのかを教えてほしいと思うこともあります。
  しかし、救いはない。答もない。それが人生の現実です。
  神さまは助け出してくださらないし、答をくださるわけでもない。いったい神さまは何をしておられるのか?!
  神は、「いっしょに苦しむ」という仕方でわたしたちを愛してくださっています。
  他になすすべもなく、自分自身を最大の苦しみを味わう方向へとかりたてる。それが神のやり方であり、イエスのやり方でした。イエスご自身がこの世の人生の救いのなさを味わい尽くすことで、私たちの救いのなさに並ぼうとされたのでした。
  それはとても不器用で愚かな愛だと言えるかもしれません。
  しかし、不器用で愚かなやり方ではあっても、間違いなく私たちは愛されているのであります。
  私たちは神さまから愛されています。
  私たちがどんな苦しみに陥ったとしても、その苦しみ以上の苦しみをイエス・キリストがすでに負ってくださっています。
  そのような方がこの世に贈られたことを、深い感謝をもって心に刻みたいと思います。
  お祈りをしましょう。

祈り

  私たちに豊かな愛を与えてくださる神さま。
  この静かな夕べ、あなたの御子イエス・キリストのご誕生を、敬愛する教友の方々と共にお祝いすることができます恵みを、心から感謝いたします。
  どうか、私たちに耐えられないような試練を与えないで下さい。また、私たちが負うべき試練がありましたら、それを耐え抜く力をお与え下さい。
  私たちが窮地に陥ったとき、キリストが私たちのぶんまで苦しみを負って下さったことを思い起こさせてください。
  そして、私たちが互いに出会う相手の苦しみを想像し、互いに大切にし合いながら生きてゆくことができますように、柔らかく強い心を与えてください。
  イエス・キリストの御名によって祈ります。
  アーメン。

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