「身代わりを見棄てることなかれ」

2001年4月10日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・受難週祈祷会奨励

説教時間:約25分……ダウンロードしてゆっくりお読みください。

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の玄関に戻る

聖書:マタイによる福音書 18章12−14節(「迷い出た羊」のたとえ)(新共同訳・新約・p.35)

 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。

人間をダメにする教理

 イエスが十字架にかかられ、私たちの罪は贖われた……。
 イエスの死は、神に献げられたなだめの供え物、いけにえの小羊であり、または悪魔に支払われた身代金でもある。かくして、人間は悪魔の罪の力から解放され、神のものとなり、その罪は赦されて神と和解させられた……。
 この教理は「贖罪論」と呼ばれています。キリスト教の中心的理念です。
 しかし昨今、この「贖罪論」は見直しがなされ始めています。「贖罪論」には問題点がある。「贖罪論」というのは、実は人間にあまりよい生き方をさせないのではないだろうか。と言いますのも、「贖罪論」を使えば、人間はいくらでも自分を正当化したり現状肯定したりする事ができるからです。
 たとえば、「贖罪論」は、「すべての人は生まれながらにして罪人である」ということを前提にしていますが、これを持ち出して、たとえば私たちが知らず知らずのうちに人を傷つけたり、苦しめたりしている現実に対しても、「人間は罪人だから仕方が無い」と言ってしまう人がたくさんおられます。人権侵害に関する学習会などを教会でやっている時に、そういう発言をされるクリスチャンの方が案外多いのは残念なことです。それに加えて、「それでも神さまはすべての罪を赦してくださっていますから」と、これまた簡単に言ってしまう方もおられます。「贖罪論」が、罪を犯すことを正当化する「居直りの論理」に堕してしまっているわけです。
 時には、「キリスト者はすでに十字架の尊い犠牲によって神のものとされているのだから、罪を犯すはずがない」と言い切る人もいます。これもまた差別問題に関する学習会でよく聞かれる話ですが、「わたしたちはクリスチャンだから差別しない」と言う人がおられます。罪というものはたいてい自分では気づかないうちに犯しているものです。また、クリスチャンがより信仰的であろうとするあまり、神さまや教会や礼拝、あるいは聖職者の権威を重んじようとするあまりに、この世の小さな者、弱い者の存在を踏みにじってしまったりするということは、往々にしてあるものです。
 「贖罪論」は、「私たちの罪は贖われている」と言い切ってしまう事で、私たちが普段、どんな風にして自覚のないままに人を無視したり、踏みにじったり、排除しているかを気付かないようにさせます。そして次第次第に、自分の中の本当の「悪」というもの、あるいはエゴイズムやずるがしこさといったものに気付く感性を鈍くさせてしまうのであります。

私がイエスを殺している

 「贖罪論」は、他ならぬイエスが十字架につけられ、人間の罪を贖われて、人間を神と和解させてくださった、というキリスト教にとって根幹の部分と言ってもいい論理であるだけに、これを批判するのは勇気のいる事です。
 あるいは「贖罪論」が悪いのではなく、それは誤解されているのだ、とも言えます。いやきっと誤解されているのでしょう。
しかし、誤解されているとは言え、現実に「贖罪論」を自己弁護、自己正当化の道具に用いているクリスチャンは多いのであり、そういうことが起こるということ自体、「贖罪論」という論理が完璧ではないことを示しています。
 私たちは、イエスの十字架の死を無駄にしないためにも、その死の意義を、伝統的な考え方を踏まえながらも、常に新しい視点で見直してゆかなければなりません。
 私自身に関していえば、イエスの十字架の意義を捉えなおす上で、頭の中に雑然と広がっていた「贖罪論」への疑問を、整理する形で方向づけてくれたのは、台湾の神学者、C.S.ソンの『イエス:十字架につけられた民衆』という本、および同志社神学部で行なわれた、この方の特別講義でした。
C.S.ソンによれば、十字架とは人間の罪の結果に他なりません。
 少し長くなりますが、本から引用します。

 「十字架は人間を拒否する人間を示している。それは人間を見捨てる人間である。〔中略〕十字架は、自らの権力と正統主義によって正しく見ることができなくなってしまった組織優先主義的宗教の陰謀に他ならない。この宗教は愛と悲しみの神への信仰をとりもどすことを切に求めている深く真実に宗教的な人々を許容することができないのである。それ故十字架が明白していることは、何を犠牲にしても自己の利益を追求しようとする社会的・政治的権力の犯罪参与であり、法律でさえも犠牲にし、神に励まされて真理に忠実に生きようとし他者への愛に献身した人々の生命でさえ犠牲にする、権力の犯罪なのである。
 これこそ、イエスの十字架の意味であり、象徴するところである。それは決してアッバなる神によってではなく、人間によって計画されたものである」(C.S.ソン/梶原寿監訳『イエス:十字架につけられた民衆』新教出版社、1995、p.174)……と。

 十字架とは、権力によって一人の男が殺され、大衆はそれを見殺しにしたという事件であり、神は十字架によって、これが人間の罪なのだ、と人間を告発しているのだ、という見方がここでなされています。
 確かに、イエスを死に追いやったのは、変化を恐れた当時の権力者たちでした。硬直しきった宗教生活に新しい息吹を吹き込み、愛と寛容に満ちた神を説いてまわり、虐げられた人や弱っている人、病んでいる人の友となって、食事と触れ合いと笑いを分かち合い、真理によって自由にされた人々の交わりを広げていったこの若い宗教者の行動を、ユダヤ教の指導部は「冒涜罪」として告発します。
 最近観て印象に残った映画で『ペイ・フォワード』というのがありますが、その中でこんなセリフがあります。
 
「人はよくないことだと分かってはいても、それに慣れてしまうと変えることができなくなってしまうものなんだ」
 当時のユダヤ教の指導部は、ユダヤ人としての民族的自立や宗教的な純粋さよりも、ローマ帝国の総督との癒着の中で政治的に安定する道を選んでいました。ですから、イエスのように変化を起こす男は、たいへん目障りで危険な存在だったことでしょう。ですから、イエスを抹殺する事で、変化を止めるだけでなく、イエスと共に変化を起こそうとする者たち全員の意識をも叩き潰そうとしたと思われます。
 本来、夜間に開くことを禁じられていた最高法院を、規則を破って、夜開廷し、しかも最初から有罪にするために不利な証言を求める、証言が食い違っていると自白を強要し、その自白のみで強引に有罪を立証し、しかも最高法院では本来、有罪判決を下す場合は一日おいて改めて判決に臨むという手続きを取るはずであったのに、これまた規則を破って即刻刑を確定する。しかも、彼らは自分たちの手を汚さないだけでなく、ローマ当局に民衆扇動者として突き出して媚びを売る一方で、ユダヤ民衆には民族運動のリーダーの釈放を要求するよう扇動し、そのような民族的な要求に応えきれなかった失敗者として民衆のうっぷんを発散させる材料としてイエスを売るという巧妙な作戦に出ました。
 イエスを押し付けられたローマの総督ピラトも、この男が何も悪事を働いていないとは知りながらも、ユダヤ人社会の指導部と民衆の騒ぎを回避し、当面の安定を維持するためには、一人の男を政治犯として処刑するなどの命など軽いものだったでしょう。
 そして、ローマの軍人たちにとっても、ユダヤ人市民にとっても、イエスの処刑は、閉塞した日常を破るいい見世物だったことでしょう。
 しかし、そうやって、閉塞した日常を変えようとする存在を、硬直してしまった社会を変えて、愛と自由を広げようとする存在を、最初は歓迎しながらも、やがては裏切り、最後は遠巻きにながめながら見殺しにする、などということは、実は私たち自身が、日常の暮らしの中で、また仕事の中で、会社で、学校で、地域で、何気なく行なってきてしまっていることであり、また政治家たちにそうすることを許してきていることではないでしょうか。
 イエスを殺した社会の暴力は、私たちの社会の暴力と何ら変わるところがありません。すなわち、イエスを殺したのは私たち自身ではないのか。また現在においても私たちは、私たちの社会、国家、世界が暴力を容認している事で、何人、何百人、何万人ものイエスを見殺しにしてきているのではないか。私たちはイエスの十字架を通して、そのように自問しなければならないのではないでしょうか。
 したがって、十字架とは人間の犯罪の結果殺された犠牲者の姿に他ならず、イエスの死は人間の罪に対する告発です。
 しかし……、それと同時に、やはりイエスの死は、癒しであり生きる力でもあります。それは、イエスと同じようにこの世において抑えつけられ、弱くさせられ、孤独に陥らされ、あるいは命まで奪われかねない全ての人たちにとっては、癒しです。
 自分の苦しみがイエスの苦しみと同じ根でつながっていると感じること。そのことが、苦しみの中にある不思議な喜びの種となり、そして生き続ける希望となってゆくのであります。

見殺しにした一匹は誰か?

 最近になって、さらに私に新しい視点を提供してくれた説教を聞く機会がありました。これも神学部でお世話になった方のお話です。テキストは、今日お読みしました、99匹と1匹の羊のたとえでした。
 このお話には、皆様もご存知のとおり、1匹の迷い出た羊を、目の前にいる99匹の集団よりも大切にする神の姿勢、そしてその1匹の羊を見つけた時の神の喜びが描かれています。
 その先生は、それをもう一つ別の角度から考えておきたい、とおっしゃいました。すなわち「ここにいないものを想像し仮想する価値観」、目の前にいない1匹の羊を想像できる感性、イメージする力があれば、99匹の集団は変わってゆけるのではないか。
 そこから少し考えを進めると、たとえば私たちはキリストの名において、すでに集って(つどって)います。いわば99匹の羊です。しかし、ここに集いえない1匹の羊がいることをイメージすることが、私たちにどのような変化をもたらすでしょうか?
 あるいは教会に限らず、私たちの暮らしで、職場で、地域で、私たちが自分たちの99匹の輪に入れていない人たちというのは、どういう人たちなのでしょうか。
 それはひょっとしたら、私たちの社会が存在を無視し、知らず知らずのうちに排除し、見殺しにしてしまっている人かも知れない。
 つまり、その1匹はイエスご自身であるかも知れない。
 マタイによる福音書のイエスは、迷い出ていた1匹の羊を見つけた時の羊飼いの喜びを語ったあとで、
「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの店の父の御心ではない」(マタイ18章14節)とつけ加えます。
 そして別の場面で
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)と話す、そこに私たち99匹が見ていない、見ようともしていない小さな1匹とイエスが重なり合っているのではないでしょうか。
 その一匹の見失われた羊をイエスは生涯探し求め、その一匹の羊の苦しみを味わって死んだ。にもかかわらず、今私たちは、そのイエスについて「私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました」と言いながら、この世で小さくされた者を見棄てることによって、自分の身代わりとなったはずのイエスを今日も見棄て、見失い続けているのかも知れません。
 教会とは、キリスト者とは、実は今は教会の空席となっている、そこにおられる方のために、本来遣わされている者の群れなのではないでしょうか。

祈り

 神さま。
 イエスのこの世の生涯に於ける最大の苦しみを思い起こす1週間を迎えております。この時期に、こうして信仰を同じくする方々と祈りを合わせる時を持てます恵みを、心から感謝いたします。
 わたしたちのこの世が、もうこれ以上イエスと同じ苦しみを味わわなくても済むように、そんな世を迎えるために、どうかわたしたちにできることをなす勇気を与えてください。
 ひとりの小さな勇気が、ひとりの小さな者を助ける、そのことを恥じず、恐れない信仰をひとりひとりに与えてください。
 この祈りを、イエス・キリストの名において、お聞きください。
 アーメン。

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール