求めなさい。正しく求めなさい。

2005年6月6日(月)同志社香里中学校高等学校 春の宗教週間 早天祈祷礼拝奨励

説教時間:約10分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:ヤコブの手紙4章3節(新共同訳)

  願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。

求めなさい

  同志社香里の礼拝でよく読まれる聖書の言葉、香里の人がわりに好きな聖句というのがあるのではないかと思います。
  たとえば「求めなさい。そうすれば、与えられる」という言葉があります。聞いたことがある人が多いんじゃないかと思います。
  そこをちゃんと読んでみましょうか。この言葉は、マタイによる福音書の7章7節から始まります。「マタイの7の7」おぼえやすい箇所ですね。読んでみましょう……。
    「求めなさい。そうすれば、与えられる。
    探しなさい。そうすれば、見つかる。
    門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
    誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイによる福音書7章7−8節)

  これは、いい言葉ですね。ぼくもこの言葉は好きです。
  「求めなさい。そうすれば、与えられる」というのは、ひっくり返すと、「求めなければ、与えられることもないよ」という意味でもあります。じーっとただ待っていて、なにかラッキーなことがやってくるということはないんで、幸運が向こうから勝手にやってきてくれるということはまずありません。
  チャンスが向こうから来てくれるのをただ待っているだけでは、努力している人にどんどん追い越されて、結局自分自身はなにも得られないまま、取り残されてしまう。
  また、何かを真剣に求めていない人は、たとえチャンスが目の前を通り過ぎても、それがチャンスであることがわからないで見逃してしまうのですね。
  それとは逆に、何かを真剣に求めていれば、多少時間はかかっても、あるいは最初に求めていたものと違った形であったとしても、なにかと出会えるはずだと思います。
  また、他の人ならチャンスだと思わないような小さなことでも、チャンスに変えてゆく人というのは、ふだんから自分の目的や夢の実現を求めている人なのですね。

誰のために、何のために

  ところで、自分では必死に何かを求めているつもりではあっても、いっこうに思い通りの結果が得られないことがあったりすることがあります。
  あるいは、求めていた結果が得られたようでも、どこかうれしくない。なぜか満足感が足りないということが、ときどきあります。
  そんな時にぼくが思い出すのが、もうひとつの聖書の言葉。今日読んでもらったところです。こちらのほうも、もう一度ちゃんと読んでみたいと思いますので、よく聴いていてください。
    「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコブの手紙4章3節)
  つまり、「求めても与えられないのは、自分のエゴのために求めているからだ」と言いかえることができます。
  ここの聖書の言葉と、最初に言った「求めなさい。そうすれば、与えられる」という言葉の両方を合わせて考えると、聖書がわたしたちに教えてくれる「求めなさい」とい言葉は、ただ自分の得になることをガツガツと求めなさいという意味ではないことに気づきます。
  実はこれは世の中、この社会の仕組みとマッチしているように、ぼくは思います。
  よく、「あなたの将来の夢はなんですか」とか「どんな仕事がしたいですか」と聞かれると、「自分の好きなことをやりたい」とだけ答えて、それで終わってしまう人が多いような気がしています。
  好きなことをやるのはいいのだけれど、それがどれだけ他の人にも必要とされていることなのか、どれだけ世の中に対して意味があることなのか、と考えるのも大事なことなのではないでしょうか。
  生々しい話になりますが、世の中には、誰の役にも立たないような自分の趣味だけをやって暮らしていきたいと思っている人にお金を払ってくれる人はいません。自分の好きなことしかしたくない人は、生活してゆくことさえもできないわけです。
  ぼくが話しているのは、なにもお金もうけが大事だということではなく、人が働いて、そしてその対価としてふつうにもらう、生活に必要な賃金の話です。そういう賃金をもらうためには人は働かないといけないのですが、その仕事は、なんらかの形で、人に奉仕するもの、人の喜びや満足につながるものでなければ、仕事として成立しないのだ、ということが言いたいのです。

正しく求めなさい

  ぼくたちが描くべき夢は、ただどんなことをして自分が楽しみたいのか、だけではなく、自分のしたいことで、どんな人が喜んでくれるだろうか、どんな人のために自分は役立ちたいんだろうか、あるいは、どんなことが本当にみんなにとって必要なのか、ということを考えた上での夢でないと何の意味もありません。
  つまり、結局どうやって「自分以外の人への愛をかたちにしてゆけるか」ということが、将来の夢を描く場合の大切なポイントになるんじゃないか、と思います。
  みんな、自分の生きてゆく道をしっかりと求めて欲しいです。
  しかし、自分の利益や欲望のためだけに求める「間違った求め方」ではなく、どんな人のために、どんな風に役に立つことができるのか、ということを考えながら、「正しい求め方」で道を求めてください。
  自分の喜びや得になることだけのために何かを求めている人は、結局、他の人と喜びを分かち合うことができません。そこにはさみしく、むなしい人生が待っているだけです。
  自分以外の誰かの喜びをも考えながら、自分以外の誰かのためにも意味のあることを、求めつづけてゆけば、きっと、大きな喜びを手に入れることができるはずです。
  どうか、自分だけにおさまらない、人と分け合える夢を追いかけて、自らの進むべき道を求めてください。
  お祈りをいたしましょう。

祈り

  愛する天の御神さま。
  この朝のひととき、静かにあなたに礼拝をささげることができますことを感謝いたします。
  どうか、わたしたちのひとりひとりの人生を顧み、あなたの手によって導いてください。
  あなたに与えられた大切な命を、自分のためだけではなく、互いのために用いるように。そしてそのことによって与えられる大きな喜びに、わたしたちが生きるようにさせてくださいませ。
  この小さな祈りを、わたしたちの主、イエス・キリストの名によってお聴きください。
  アーメン。

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