カンタンではないけど単純なこと

2005年1月20日(木)梅花高等学校創立記念礼拝奨励

説教時間:約30分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マタイによる福音書 7章7−12節(新共同訳)

  求めなさい。そうすれば、与えられる。
  探しなさい。そうすれば、見つかる。
  門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
  だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
  あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
  魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
  このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
  だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

「人が」ではなく「あなたが」

  こんにちは。同志社香里から来ました富田といいます。今日は、同志社の先生でありながら、梅花の創立者の好きだった聖書の言葉についてお話するという、変わった役割をおおせつかって、ここにやってきました。
  梅花のスクールモットーになっている、創立者の澤山保羅(さわやま・ぽーろ)が愛した聖書の言葉
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイによる福音書7章12節)。いま司会者の方に読んでいただきました。
  これ、なかなかうまいこと言うたもんやな、なかなか工夫してるな、考えてあるなぁ、とぼくは思ってます。
  もしもここで、「
『人が』してほしいと思うことは何でも、あなたもしてあげなさい」というのだったら、これは人の言いなりになれ、と言ってるようなもんですよね。
  人が「あれほしい」「これほしい」、あるいは「あれしてくれ」「これしてくれ」と言うてることにできるだけ応えてあげなさいよ、ということなら、たとえば、子どもが「おもちゃ買って〜!」とダダこねたら、なんでも買ってあげなさいということになる。
  ぼくなんか、自分の学校でよく試験前になったら言われますよ、「せんせー試験問題教えてくださいよ〜」。それでいちいち教えてたら、試験が崩壊しますよねぇ。そこで、「あかん! 教えたらへん」なんてキツイ言い方をすると、「ケッ! なんや、キリスト教は愛なんとちゃうんか。全然、愛、無いやんけ、偽善者!」って言われてしまいます。ですからぼくなんかは、「ああ、ええで、教えたるけど、その代わり去年の問題でもええか?」とか、「大丈夫、大丈夫。そんなん教えてもらわんでも、君やったらカンタンにできるよ。俺でもできるような問題やし」とか言ってかわしております。
  「試験問題教えてください」とかだったらまだいいですけど、じゃあたとえば、友だちが「麻薬をくれ」とか「買うてくれ」とか言うてたら、じゃあそれに答えてあげるのが友だちかと言うたら、やっぱりそれはマズイですよね。「本人が望んでいることが、本人のためにならない」ということがあるわけですよ。
  だから「
『人が』してほしいと思うことを、人にしなさい」ではない。
  人が望んでいる事を、なんでもかなえてあげようなんていうのは、本当の愛情ではないわけです。
  そうではなくて、「
『あなたが』人にしてもらいたいことを、人にしなさい」と言われている。
  「あなたが本当に望んでいる事はなんなのか」。本当に自分にとって何が大事なことで、何がいいことなのか、あなたはわかっていますか?
  ここでは、「あなた自身」の価値観が問われているわけです。

「おごってー」

  みなさんは、何を人に望んでいるんでしょうか? 何をしてもらいたいと思うことが多いですか?
  またぼくの学校の話になりますが、最近の高校生はみんなよく「おごってー」「おごってー」と言いますね。ぼくもよく「先生、おごってー」と言われます。クラブの顧問なんかやってるとね。「先生、今日はしんどかったからおごってくださいよー」とか。
  それでねぇ、「おごってー」というタイミングが悪いことも多いんですよ。たとえば文化祭のシーズン、準備でどんどん忙しくなってきて、しんどくなるともう3日前くらいから「おごってー」と来る。「明日、あさって、そして本番のほうがよっぽど大変なんやで、おまえらー」なんて言うと、「はぁ……○○部の顧問は、みんなにジュースおごってくれたのに、うちの顧問と来たら……」なんてグチをこぼされたことがあります。
  どうなんかな、聖書的に言い換えると、「人におごってもらいたいと思うなら、あなたがたも人におごりなさい」ということになりますかね。
  とにかく、人はよくおごってくれる人のところに集まりますね。
  でもぼくは、個人的にはあんまり軽々しくおごるのは、いいことではないと思っています。何か特別のときにご馳走してあげてもいいかな、とか、差し入れしてもいいかな、と思ったりするけれど、あんまり普段から顔を見たら「おごってー」なんて言われて、周りを取り囲まれたりなんかすると、「オレは絡まれてるんじゃないか、これは恐喝じゃないか」と思うときがあります。
  ぼくは、大学生時代に入っていたクラブで、よくおごってくれる先輩がいて、これにずいぶん苦しめられたことがあるんですね。
  大学というのは、大学の1年生から4年生だけじゃなくて、大学院生がいたりするんですよね。すると、たとえばクラブで3回生、4回生が本来、責任者/トップになっていくわけじゃないですか。まぁ最近は4回生は就職活動で、実質引退なのかも知れないけど、まぁとにかく大学に在学している4年間のなかで、クラブのキャプテンなどが引き継がれていくわけでしょう。ところが、そこに引退したはずの大学院生なんかが、引き続きそのクラブに顔を出したりなんかして、またそれがあれこれ口を出したりすると、4大生としてはかなりうっとうしいわけですよね。
  ぼくがいたクラブでもそういうパターンになってしまっていまして、その大学院生がまたよくメシを後輩におごる人やったんやね。しかも、ぼくらが4回生の責任者になったときにも、クラブの運営について意見が合わなくって、よく衝突してたんですよ。
  それで、その先輩はやたらと、ぼくらよりも後輩の1回生、2回生などを誘って晩御飯とかおごったりする人でね。やっぱりメシおごってもらうと、人は言うこと聞くのね。それで、ぼくら4回生の言うことよりも、みんなその大学院生の言うことを聞くようになって、クラブの運営ができなくなってしまいそうになって……、ぼくらはその先輩に抗議しに行ったけど、その先輩は「ぼくは、経済的に苦しい下宿生の人たちも含めて、人助けのつもりでやってるんだよ。ぼくが何か悪いことでもしてるんだろうか」とトボケるわけですよ。あれは腹立ったね。ぼくなんか、一応自宅生だったけど、食費と学費のために泊り込みのアルバイトずっとやってて家にも帰ってませんでしたから。「親に学費も下宿代も出してもらってる人とどっちが大変なんだよ」「俺なんかおごる金もないし、おごってもらってメシにつきあう時間もねぇんだよ」と思いましたね。
  まぁとにかく、おごられると人は弱いです。そしておごってくれない人からは、人は離れていきがちなものです。

「おいしい」関係は「おいしくない」

  「おいしい」という言葉が最近使われます。「おいしい話」、「おいしい状況」にめぐり合わせることがラッキーだと思われています。食べ物や飲み物をおごる場合だけに限らず、くっついてると「おいしい」人に、みんな群がります。でも、「おいしさ」がなくなってくると、離れていってしまいます。
  また、そういう「おいしい」もので人を釣る人は、自分が「おいしい」ものなしに本当に愛されることよりも、「おいしい」もので人を釣って、自分になつかせて利用しようとしているわけです。
  こういう人は、おごっても自分の言うことを聞かない人には、おごらなくなります。つまり結局この人も、他人を自分の損得勘定で利用しているだけなわけです。
  「おいしい」ことを求める、「人が得をしていたい」だけで終わっている人は、人を自分のために利用することしかできませんし、また、そういう人は逆に、自分も人から利用されやすいということです。
  恋愛だってそうです。
  新しい恋が始まったころは、一生懸命相手のために尽くすけど、少し時間がたって、冷静になって考えてみると、自分が相手に「もっとああしてくれたらいいのに」「こうしてくれたらいいのに」とか思うようになります。これは女も男もそうです。
  結局、最初のころ一生懸命尽くしていたのは、そうしたらもっと自分のことを好いてくれるようになるだろう、という見返りを求めて尽くしているわけです。ところが、いくら愛情表現を派手にしていったって、やはりいつか限度というものにブチあたりますよ。
  そうすると、「もっと」「もっと」という要求が満たせなくなってくると、欲求不満のほうが大きくなってくる。そして「ホントにあいつは、わたしが何を望んでいるのか、わかってない」とか。「わたしはそんなことしてほしいわけじゃないのに」とか、グチばかり言うようになるわけです。
  こういう人は、最初から見返りがなくても、自分から人を愛そうという気持ちがありませんから、たとえば相手に「これこれこういうことをしてほしい」と要求されると、今度は「じゃあ、変わりにあなたは、これこれこういうことをやってちょうだいね」という風に見返りを求めてしまいます。交換条件付きの愛情です。
  で、そういうことばっかりやってると、自分がいつも相手に見返りを求めている人間だから、人もどうせそうだろう、と思うようになってしまうんですよね。「見返りのいらない無償の愛なんて、この世にはないよ」ってね。「みんな見返りを求めてるだけ。純粋な愛なんてない」って思ってしまう。自分が純粋になれないだけなのにね。
  でも、こういう人は可愛そうですよ。人の愛情というものが、結局ギブ・アンド・テイクの取引関係のようにしか感じられないから、誰からの愛情も信じられなくなっていって、余計に孤独の地獄の中に落ちていってしまうんですよ。
  「人が何かしてくれること」ばかり求めていたり、「自分が愛されること」ばかりを求めているような人間は、逆に孤独になっていきます……。

だめになった発端

  さて、ガラリと話が変わります。
  今日は創立記念礼拝です。でも、「澤山保羅」とか「学校の創立」とか言ったって、「そんなんあたしと関係ない。どうせキリスト教の話やろ?」とか思ってる人はいませんか?
  けれども、梅花を建てた澤山保羅にしても、うちんとこの同志社を建てた新島襄にしても、明治の初めにこういう学校を創っていった人たちというのは、別にキリスト教の伝道をやって信者の数がどんどん増えていって教会が栄えるということを第一の目的にしていたわけではないんです。
  この人たちの夢は、新しい日本を作ることだったんですね。
  なんで新しい日本を作りたかったかと言ったら、それはその当時、今日はこれ127周年の礼拝ですけど、120〜130年ほど前の人たちから見て、このままじゃ日本はダメやな、と感じたからです。日本を変えたかったんです。
  今から130年ほど前というと、明治維新があってすぐの頃です。
  明治維新というのは、幕府につく人びとと、天皇につく人びとと、日本人どうしが真っ二つに割れて戦争して、勝ったほうの天皇につく人たちだけで政府を作ってしまい、もう片方の負けたほうの人たちは、その政府に対する「反逆者だ」「国賊だ」とまで言われて、追いやられた事件です。たとえ日本人であっても、天皇に逆らったら、「おまえは日本の敵だ」とまで言われてしまう。
  ひどい話ですよ。クラスで真っ二つに割れてケンカして、勝ったもんのグループが、学級委員全部独占して、負けたグループの子らに「われわれが正統派3年B組であり、おまえたちは3年B組の敵だ」とか言ったら、それはアカンでしょう? でも、まぁ明治維新というのはそういう感じだったわけです。
  国民が、権力者や指導者にとって利用価値があるかどうかだけで、引き揚げられたり、あるいは切り捨てられたり、という時代です。
  国民ひとりひとりが、「オマエは得になる人間なのか、どうなのか」ということで選別されてしまうような時代が既に明治維新から始まっていたわけです。
  そんな雰囲気が世の中に広がっていくと、人間一人ひとりも、自分以外の人間が自分にとって「おいしい」人間かそうでないかで判断するようになります。自分にとって得になる人間や役に立つ人間とは付き合うけど、損になりそうな人とは付き合わない、という価値観や人の見方が当たり前という感じになっていくわけです。
  そんな損得勘定で人のことを見ているような人間どうしが、本当に仲良くなることはないし、本当の信頼が生まれるはずもない。だから日本人と言うのは、損得や利害関係抜きで、しっかりとお互いの個性を尊重しあいながら仲良くすることがヘタで、誰かと仲良くなろうとしたら、「利害が一致してるか」「どこがおんなじか」「どこが似てるか」ということぐらいでしか、人とつながることができないのかも知れませんよ。
  で、「おんなじ」になれる人や損得利害が一致する人としか仲良くできない人たちばかりいるから、「おんなじ」になれない人が、はじき出されたり、いじめられたりしやすい世の中になってしまうのかも知れません。
  いまも相変わらずそんな世の中のような気がするけれども、でも、その発端はもう既に130年ほど前にしっかり現れてたということですね。

日本を変えるために

  そんな日本の世の中を変えようと思ったら、人間が変わらんといけません。世の中を造っているのは人間の集まりなんだから、人間を変えないと世の中が変わらない。そして、人間が変わるというのは、心が変わるということです。心を変えようと思ったら、何か信じる理想がないといけません。
  そして、その理想は、何か特別に宗教に入らないとわからないものだったらダメです。誰にでもわかるような、誰にでもできそうな、単純なものでないといけません。
  「誰でもわかるような言葉で、人間にとって一番大事な生き方を一言で言うてみぃ」と言われたら、じゃあたとえば澤山保羅さんの場合、「それは、
『人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい』だろう」と答えたということだったんですね。
  「人にしてもらいたいことがあるんやったら、それをまず自分から人にしてあげなさい」ということです。
  そしてそれは、クリスチャンにとって、だけじゃなくて、日本に住んでるみんなにとって、「このことは大事やで」と言うたわけです。
  だから学校が必要だったんですね。
  なんやかんや言うて、もとはキリスト教の教えですから、キリスト教の教えをきちんとわかって、信じていく人が社会の中心の核を作っていってほしいと思う。だから教会を作ります。だから澤山は、神戸、大阪、三田……とあっちこっちの教会を建てるために努力してます。
  けれども、それと同時に、キリスト教と言う宗教を信じるにしろ、信じないにしろ、人間にとって共通の大事なものの考え方というのはある。それを教会よりももっともっと広く伝えていかなあかん。それが学校の役割なわけです。
  だから、われわれは、大きな声で「人にしてもらいたいことがあったら、まず自分が人にせい」と君らに言います。

自分が変わる

  さっき、「人に何かしてもらうこと」ばかり求めていたり、「自分が愛されること」ばかりを求めているような人間は、逆に孤独になっていく、ということを言いました。
  では、孤独にならない方法はなんなのか。本当の愛情や友情や信頼を手に入れるためにはどうしたらいいのか。
  それは、カンタンなことです。
  「自分から人を愛するようにする」ことです。本当は、自分から人を愛することができたら、そのときのうれしい気持ちは、ただ愛されるよりも大きいんです。
  カンタンに言うけれど、じっさいにはムズカシイと思うかもしれません。
  けれども、そんなに大げさなことを考えないで、「自分が人に、『こうしてくれたらうれしいな』と思うことを、その場面その場面で自分からやってみる」ということ。それだけでじゅうぶんじゃないでしょうか。
  「ここはなんかフンイキが暗いな」と思ったら、自分からスマイルしてみる。「おなかがすいたな」と思ったら、自分から人を誘ってご飯をごちそうしてみる。
  そんなちょっとしたことでも、自分は人をちょっとだけ幸福にできる、しようとすることができる。それだけでも、自分の値打ちはグッとあがります。
  もし自分のやったことで、誰かの笑顔を引き出すことができたら、もっとうれしくなり、喜びは倍です。
  ムズカシイように考えないで、カンタンなことから、このタンジュンなこと「人にしてもらいたいと思うことは何でも、自分から人にする」ということを、実際にできる人になってくれたら、と願います。
  お祈りします。

祈り

  愛する天の御神さま。
  今日ここで、梅花学園のみんなといっしょに、あなたに礼拝をささげることができますことを、心から感謝します。
  ここに集うひとりひとりが。これからの人生を、自分もまわりの人も、幸せにしてゆく力を持って生きてゆくことができますように。
  また、ここに集うひとりひとりのために、この学園で思いと力を尽くしている教員、職員の努力を、どうか神さま顧みてください。
  このつたない感謝と願いの祈りを、主イエス・キリストの名によって、おささげいたします。
  アーメン。

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