睡魔

2006年4月12日(水)日本キリスト教団香里ケ丘教会 受難週早天祈祷会奨励

説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マルコによる福音書14章32−42節(新共同訳)

  一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
  それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
  更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
  イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

爆睡

  私は自分が奨励や説教の役に当たっているときには、一人でも居眠りしている人がいると、耐え難いような屈辱感をおぼえますが、そのわりには人のお話の時にはよく眠ります。ずいぶん勝手な、勝手過ぎるほどの人間です。
  つい先日も、自分が運営しているホームページを通じて知り合った仲間と互いに実際に会ってみる「オフ会」というイベントを行い、ネットの上で言葉は親しく交わしていたけれども、顔を見るのは初めて、という仲間と東京で会い、実に楽しく和気あいあいとした交わりを楽しんできました。インターネットに開設している教会が、じっさいの人の集まりとなって実を結び始めているわけですね。これはすごいことなのかも知れないと思い、とてもうれしかったのです。
  ところが、東京の新宿でそれを行うということになって、新宿にある私の知り合いの教会で日曜日の朝の礼拝をいたしてから、ゆっくり昼食を取りながら、お交わりをしましょうということになったのですが、実はわたくし、この朝の礼拝で爆睡してしまいました。
  言いわけをいたしますと、私は実は座って黙ってじっとしていると、ほとんどの場合起きている事ができません。いま飲んでいる薬が、すべて効能書きに「車の運転または危険な作業をさけてください」と書いてある、要は眠くなる薬ばかりを9種類だということもあるのだろうと思うのですが、座って自分が話す必要なく黙る状況になると、もうだめです。
というのは言いわけですが、新宿のある教会で、わたしは一番前の牧師の正面で爆睡してしまいました。後日、おわびのメールを送ったのですが、その牧師さんはとてもやさしい方で、「むしろ安眠を妨害しない礼拝であったことがうれしいです」とまでおっしゃるお返事をくださいました。
  
使徒言行録20章7−12節に、トロアスという街で、パウロが夜中まで人びとに話をしている最中、エウティコという青年が眠気を催して、3階のその部屋から下に落ちてしまったという出来事が書いてあります。3階から落ちて死んだと思われたその青年は、パウロによってよみがえらされ、ふたたびパウロは話し始め、その話は夜明けまで及んだと言います。
  ここでは、パウロは眠ってしまった青年に対して、それをたしなめるような言葉は発してはいません。ただよみがえらせて、再び話し始めただけでした。
  このエウティコという青年は窓に腰をかけていたから落ちたのであって、他にもパウロの話が長くて眠ってしまった人はいたに違いありませんが、それをいちいち起こして回るのでなく、たんたんとパウロは話し続けたのでしょうか。
  あまりに眠る人が多く、注意して回ることのほうがよほど時間の無駄であるということを、私も自分が学校で授業をしているときに経験したことが何度かありますが、パウロもそれと同じような心境だったのかもしれません。

ゲツセマネで眠る弟子たち

  さて、今日お読みしましたテキストにも、眠る人々のことが出てまいります。
  イエスに伴い、ペトロ、ヤコブ、ヨハネがゲツセマネの園にやってまいります。オリーブの木々が並び、もたれて座るにはちょうどよい場所がたくさんありました。イエスに
「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」(マルコによる福音書14章32節)と言われて、座って、黙っていると、眠気が催してしまった……この気持ちを、私はとてもよくわかる気がします。
  イエス自身は、自らの受難を悟り、もだえ苦しみながら父なる神に呼びかけています。眠るどころではありません。
「この杯をわたしから取りのけてください」と命乞いをしながらも、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節)と、必死に運命に従う言葉を、自分に言い聞かせるように祈り続けています。
  いったん祈り終えられると、弟子たちのもとに戻れば、弟子たちは眠っている。イエスは
「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(37節)と命じます。
  私はこの時、この弟子たちが祈るだけの落ち着きも失っていたのではないかと思います。
  阪神淡路大震災のとき、地震に関することが原因になって離婚した夫婦がたくさんいたそうです。曰く、「こんな一大事の時に、あの人はグースカピースカ眠ってばかりで役に立たなかった」、「家族が『なんとかして!』と叫んでる中で、何もできずにうずくまるばかりだった」、そんな情けないお父さんがたくさん、愛想をつかされて離婚届に判を押さされたケースがよくあったそうです。
  これを教えてくださったのは、ある精神科のお医者さんでして、人間には「交感神経優先型」と「副交感神経優先型」の二種類あるのだとおっしゃっていました。
  「交感神経優先型」というのは、恐怖や緊張など、大きなストレスがかかってきたときには、目がさえてしまうタイプです。自らの受難を前にして身もだえせんばかりに恐怖におののいていたイエスは交感神経型だったのかも知れません。
  しかし、「副交感神経優先型」というのは、大きなストレスがかかったとき、眠ることで自分の精神を守る方向に神経が働きます。
  わたしは、イエスの弟子たちは副交感神経型だったのかもしれない、と思っています。イエスの祈りを待っている間、先生とも離れて、しかし、いつ先生を捕らえに来る人々が襲ってきて、自分たちも先生ともども逮捕されてしまうのではないという恐怖でいっぱいで、祈りの言葉さえも浮かんでこないようなストレスが最高潮に高まった状態で、彼らは眠さに耐えられなかったのではないかと思います。
  そして、いざ、本当に追っ手が彼らを逮捕しに来たとき、彼らは怖くて怖くて、イエスを見捨てて逃げてしまったのであります。
  なぜ彼らは眠かったのか。それは極度の恐怖と緊張にさらされていたからだ、ということは、交感神経型のイエスには理解できなかったのだろうと思われます。

買収された弟子

  それから、ほどなくして、イスカリオテのユダが、剣や棒を持ってイエスを捕らえにやってきた人びとの先頭に立ってやってきます。そして、イエスに挨拶の接吻をすることを合図にして、追っ手の者たちに、イエスが誰であるかを指し示し、イエスを襲わせます。
  このイスカリオテのユダという人も哀れです。
  「裏切り者」と福音書では何度も書かれていますが、彼の本意がどこにあったのか、いまもってはっきりと特定されているわけではありません。彼がイエスに対して、地上の権威になるように期待していたのに、イエスはそういう地上の王ではなく、天に宝を積むことを人に勧めるような人間であったために、期待はずれからイエスを当局に売った、とはよく言われる仮説ですが、あくまで推測ではっきりしたことはわからず、すべては推測の域にとどまっています。
  最近では『ユダの福音書』という外典文書が発見され、ユダは最も忠実なイエスの弟子であり、イエスが前もって自分が受難を受けるために、最も重要な役割を彼に割り振ったのではないかということも可能性として考えざるを得なくなっていました。
  マタイによる福音書は、27章3節以降で、イエスを当局に売ってしまったあと、ユダが自分のもらった銀貨30枚を神殿に投げ込んで、自殺してしまったことを記しています。
使徒言行録1章によれば、彼は転落死したことになっています。
  伝えられている記述は矛盾しますが、とにかく彼がろくな死に方をしなかったことは確かだということです。イエスを当局に売る、ということで彼の人生は狂わされています。

裏切り者たちの教会

  よく「裏切り者のユダ」と決まり文句のように言われますが、『ユダの福音書』が発見される前から、ユダをとりわけ「裏切り者」として仕立て上げた背景に、初代教会で実力者となっていったペトロらの自己弁護もあったのではないかという仮説も提示されていました。
  「裏切った」という行為から言えば、ペトロがイエスのことを3度も「知らない」と答えたのも立派な裏切り行為です。イエス御自身も、最後の晩餐のあと、
「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(マルコによる福音書14章30節)と、ペトロの裏切りを予言しています。
  そして、最終的には、全ての男性の弟子たちは、イエスを見捨てて逃亡しています。
  それらいったんは逃亡した弟子たちが、再び集まって、(図々しくも)イエスの教えを宣べ伝えようとしたとき……、そのときイエスの教えをもう一度宣べ伝えようとした初代教会のメンバーは、ひとり残らず一度はイエスを見捨て裏切った者たちだったということになるのです。
  初代教会の最初の使徒たちは、全員裏切り者です。全てのメンバーが一度はイエスを捨てた人間なのです。
  そんな後ろめたさのはけ口として、スケープゴートとして、もうすでにこの世にはいなくなったユダに、ひとり「裏切り者」のレッテルを貼っておとしめたというのが事の真相ではなかったのか、という仮説があるわけです。「死人に口なし」であります。

裏切り者たちの変節

  そのような暗い集団のたくらみも含みながら、よくも図々しくもイエスを捨てた者たちが集まって、イエスの教えを宣べ伝えるようになったのか。それがイエスの復活という事件によるものなのですが、復活については来るべきイースターの日に語られることでしょうから、ここでは触れないで起きます。
  ただ、裏切り者たちが、そうであるにもかかわらず、それでもなお、イエスのことを宣べ伝えようとしたのなら、それは、「イエスは自分を赦してくださっている」「自分は生きていてよいのだ」という確信がもたらされた事件が起こったのだということは言えると思います。
  ユダひとりを悪人に仕立て上げたというのが本当ならば、それは初代の教会の行いの中でも汚点のひとつでしょうけれど、それにしても、彼らは「イエスの赦し」というものを実感しているからこそ、再び戻ってくることができた。ユダはその赦しを得る前に、命を絶ってしまった。残念な人というほかありません。
  本日はイエスの受難をめぐって、弱く愚かな弟子たちの方向から少しばかり考えることをお話させていただきました。
愚かで裏切り者の弟子たちが赦されたと同じように、私たちも、イエスの赦しの奇跡にあやかりたいものだと思います。自らの愚かさ、醜さ、弱さをよくかみしめて思い起こす受難週としたいと思います。
  祈りましょう。

祈り

  愛する天の神さま。
  受難週の早天祈祷会をこうして守ることができます恵みを感謝いたします。
  私たちには人には言えないような弱み、愚かさ、惨めさ、醜さ、どうしようもなさが、それぞれ個人に抱え込んでおります。
  どうか、その私たちの欠けたる部分を忘れないで、しっかりと思い起こさせてください。
  来るべき復活祭の日には、それらが赦されるということの恵みを、当たり前の恒例の行事のようにではなく、心よりの感謝を持って、受け止めることができますように。
  イエスの地上での生涯が一度きりであり、イエスの死も、復活も一度きりの出来事であったことを厳粛に受け止めることができますように、私たちの精神を導き、整えてくださいませ。
  この祈りを、主イエス・キリストの御名によって、お聴き下さい。
  アーメン。

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