兵士と奴隷
 〜汝のため立てられし人柱〜

2004年8月22日(日) 日本キリスト教団月寒教会 主日礼拝説教「汝のため立てられし人柱」改訂版

説教時間:約30分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:ヨハネによる福音書10章17〜18節

  わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。
  だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。
  わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である

10年の右傾化

  世の中がこうも右寄りになってくると、私の働いている学校の生徒たちも次第に、「日本が国際社会で生きてゆくためには、軍隊をさらに拡大し、海外で活躍して、日本の存在意義を示していくことが必要だと考える生徒が必要だ」と考える子どもが増えてきました。
  10年前の高校3年生は、まだ、聖書の言葉でもたとえば、
「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイによる福音書26章52節)という御言葉は、武力行使の禁止をイエスが教えている言葉だと受け取ってくれる子が多かったように思います。
  しかし、合州国がイラクに大量破壊兵器の保持を建前上の理由に攻め込んだ昨年の春あたりから、しだいにこの御言葉を最初に聞いたときに、「武器を持っている怪しい国は、別の国に武力で滅ぼされることになるだろう」という読み方をする生徒が現れ始めました。
  イラクの武力は問題視しながら、米軍の武力を問題視することができない生徒が増えてきました。そして、ここ2〜3年で、米軍の強すぎる武力は容認せざるを得ないので、これとどう付き合ってゆくのか、「戦闘行為をするしないは別にして、アメリカに守ってもらわなくてはならないのであるから、お付き合いするしか現実問題としては仕方が無いではないか」という意見も出れば、「アメリカに追随するのは日本の自立性が危うい、いつ裏切られるかわからないから、日本は日本を自力で守らなくてはならない」という意見まで、いろいろありますが、日本の軍備、国際紛争への参加を疑問視する声は、現在は全くというほど聞かれなくなってしまいました。

扶養家族型エゴイスト

  私は、生徒たちとそういう話をしていると、いつも彼ら――「彼ら」というのは、そういう武力容認の話をするのはたいてい男子生徒だからですが――彼らが「日本も軍隊を派遣すべきだ……」などと話す時、あるいは誰かの意見に反論して「じゃあ、日本は何もせずに黙っていたらいいって言うんですか?」といきり立つ時でさえ、いつも他人事のような調子で言っていることが、妙に気になります。
  「軍隊を派遣する」「黙っていずに貢献する」という時、「貢献するのは誰か?」、「軍隊とは誰のことか?」という想像力が欠如している。
  「国際貢献」という名目で派遣される「軍隊」が、自分と同じ人間で、国民ではないかという感覚が欠如している。
  誰か自分たちとは直接関係のない他の人が、自分たちの毎日が平和で豊かにすごせるために危険なことをやってくれて当然という感覚でものを見ているわけです。
  わたしはそういう感覚を、「扶養家族型エゴイズム」と勝手に呼んでいます。自分のために周りの大人が手を尽くしてサービスしてくれて当たり前と思っているのですね。その延長線上で彼らが「日本も軍隊を出さなくてはいけない」と言う。少なくとも自分が苦労して危険を冒す可能性など微塵も考えていないわけです。
  そこで私は生徒に言います。「君が自分でイラクに行ったらどうや?」「日本のために大事なんやったら、自分がその日本のために犠牲になったらどうや?」
  「えー、いやです〜」という生徒が増えてきました。しかし、まだこの2004年の時点では、「人に命張らせておいて、自分だけ安全やったらええやないか」という話をすると、多少は具体的に考え始める人のほうがまだ多いようです。
  これは危険な問いであることは承知しています。同じような理屈で、「日本のために」命を張りなさいということを要求できるからです。
  しかし、私はこれを、「自分の死」をどうとらえるか、という文脈で考えさせます。人は「自分の死」しか経験できません。他人の死は自分の経験ではありません。自分の死、自分の身体がどのように銃弾で貫かれ、爆風で吹き飛ばされ、爆弾の破片で引きちぎられ、どのように痛みを感じて、あるいは死ぬ間際には脳が自分を守るために失神したり恍惚状態になったりするかもしれませんが、その後、無がやってくる……という死をイメージしてもらうよう、会話の中で勧めます。
  そして、自分がそういう死に方をしたいか。そのような戦場での死が、人の死に方としてふさわしいものか。そのような死の可能性を他人にさせておいて、それによって自分が安穏とした暮らしを送ることが、正しいことなのか、ということを考えてもらいます。
  今の子は扶養家族的エゴイストが増えているから、「国のために」「家族のために」あるいは特に「あなたのために」誰かが犠牲にならなければならないのです、という理屈にだまされやすい。けれども、「その命を落とす役割があなた自身であったら」と考えてごらん、と言うと、少しは立ち止まって考えてくれる子がいます。もし自分が死んでしまえば、その恩恵を味わう家族の姿を見たり、恩恵を家族だんらんで共有したりすることはできないわけですから。そしてその上で「危険地域に送られる人も、あなたと同じ家族を持つ国民なのだ」ということをわかってもらおうと努めています。
  もっとも、「そんなん自分が今そうでもないのに考えても仕方ないです。人はどうせみなエゴイストですから、自分がいま兵隊でもないのに、そこまで考える必要ないです」という子もいますが……。

現代の「人柱」

  平和について語ろうとするとき、私たちは今未来を見据えながら、何を希望を持って語ることができるでしょうか。
  完全に戦争を避けよ、というのなら、私たちは現在の暮らしを放棄せねばなりません。日常消費する電気にしろ、日用品にしろ、衣服にいたるまで、私たちの生活はあまりに石油に依存しすぎています。その石油の確保のために、アメリカに追随する。だから求められると軍隊を出す。それが戦争をするためではなく、我々の生活のためである、という論理。
  「石油のために血を流すな」というスローガンが説得力を持って世間に浸透してゆかないのは、みんな自分の今の暮らしのレベルダウンさせたいとは思っていないからでしょう。「平和が大事だ」と言う人の多くは、それは自分の暮らしの安定が大事だと言っているのに過ぎないわけで、暮らしが脅かされたら武器を取って戦わなければ仕方が無いと思っている人も多い。ただし、オレは戦場には行きたくないけれど、というホンネが多数をしめているのでしょう。
  今年1月に同志社大学に川口順子外務大臣がやってきて講演を行いました。私服警官を導入し、ものものしい雰囲気で「同志社も地に落ちた」と言われた講演会です。わたしはその時の講演の要約を読みましたが、あまりにはっきりと彼女が今回のイラク派兵の目的を大学生に語った、その包み隠さないわかりやすさに、逆に唖然としました。
  その要約には、「石油のためだ」と書いてありました。「みなさん石油が止まったらどうしますか? 石油が来なくなったら日本は大変なことになるのです。だから仕方がない」という超ホンネがそこにまとめられていました。いまの扶養家族型エゴイスト大学生の共感をとりつけるには充分であります。
  その講演会で、学生がイラクにおける劣化ウラン弾について質問したのに対し、川口外相は「劣化ウラン弾は健康に悪影響を及ぼすものではなく、非常に危険だというようには国際的に理解されていない」という100%のウソを回答しました。
  ということは、今イラクに派遣されている自衛隊員が、実際にはたいへん懸念されている劣化ウラン弾の残留放射能で身体を害してしまったとしても、それが劣化ウラン弾のせいだと国は認めないとあらかじめ言っているわけで、つまり、そうなった場合は、国の命令でイラクに出向いた自衛隊員でさえも「自分の病気は『自己責任』」と言われかねないのであります。
  こういう風に人の身体や思いや命を使い捨てにする社会の中に私たちは生きていて、それを平和な暮らしと言っている。わたしたちの経済生活は、このような「人柱」の存在を前提としています。

石油と電気:兵士と奴隷

  「人柱」は戦場に派遣される兵士だけではありません。つい最近、8月9日には福井県の美浜原子力発電所で爆発事故が起こりました。
  わたしは自分の学校でボランティアのクラブを顧問していて、年に何回か生徒たちといっしょに大阪市西成区の「釜ケ崎」と呼ばれている寄せ場/日雇い労働者の街に行き、炊き出しのお手伝いに行きます。炊き出しをやっている施設「いこい食堂」の壁に、以前よく、「原発に行くな。殺されるぞ!」と書いたポスターが貼ってありました。
  寄せ場に来る日雇い労働の求人は、ほとんどが土木や建築現場の現場作業ですが、時折、妙に歯振りのいい仕事が舞い込んできたと思ったら原発の仕事。しかし「やめておけ、殺されるぞ」というわけです。通っているうちに放射線で身体が長期的にボロボロになってゆく。また一旦事故が起これば命はない。今回の福井原発での犠牲はそのポスターの言葉が現実になった事件なわけです。
  石油のために、自衛隊員ひとりひとりの命を犠牲にする。電気のために原発で労働者ひとりひとりの命を犠牲にする。
  私たちは、こういう人たちを人柱にしながら生きている巨大な構造の中に生きていながらも、ここから逃げ出して暮らすわけにはいきません。この日本で普通に社会生活をするということは、すなわち誰かを人柱にしながら生きざるを得ないという構造の中に、私たちはすでに取り込まれてしまっているわけです。
今日ここにこうして礼拝堂に電灯を灯して礼拝をしている、その電気のスイッチを入れるだけで、私たちは原発の電気を使い、生命を賭けて危険を請け負う下請け業者の存在に支えられて礼拝をしていると言えるわけです。
  「平和は大事だ」「戦争はするべきではない」ということは誰でも言えるわけです。しかし、大多数の国民の生活を守るために、誰かが犠牲にならないといけない。自国民だろうが、他国民だろうが、誰かが死の危険にさらされなければ、今の暮らしは守ってゆけない。
  「人類はみな愛し合いましょう」とか、「みんな仲良く」とか、「殺しあうのはやめましょう」ということも大事だけれども、たとえ武力によってどこかの武装集団や軍隊と交戦状態に入っていない、戦争はしていないということであったとしても、誰か自分以外の人が死んでくれることを前提に保たれている生活、死んでもかまわないような扱いを受けている存在、すなわち「現代における奴隷」とでも言わざるを得ないような人びとがいることを前提に保たれる社会というものが、本当に平和だと言えるのか。
兵隊と奴隷という人柱なしには生きざるを得ない社会に、すでに生きさせられている私たちは、これからどうすればいいのか? 
私たちの毎日の暮らしそのものが、兵士と奴隷の犠牲を必要としているからこそ、「国のため」「社会のため」「みんなのための」「尊い犠牲」「尊い死」などということを大きな声を唱える人びとは、自信たっぷりそれを言えるわけです。
  こんな状況で私たちは、どうすればよいのでしょうか? 本当にそれを悩んでしまうわけです。

汝自身の十字架を背負え

  外で命を捨てる兵士、内で命を捨てる奴隷、そういうものを必要とする社会構造は、今に始まったことではありません。軍隊があり、奴隷がある社会は、たとえば2000年前、イエスが生きていた時代もそうでした。そして、イエス自身も、出家する前の若い頃は、誰かを人柱にしながら生きているひとりのユダヤ人に過ぎなかったのだろう、と私は思います。
  幼い頃からイエスは幼い頃より、父親のヨセフから大工仕事を教わって働いていたのでしょう。大工と言っても、木工業者のようなもので、時には新婚家庭のために新しく家具を作ったりすることもあったでしょうが、おおかたは家具や調度品の修理のような細々とした作業が毎日の仕事だったことでしょう。あるいは仕事は毎日はなかったかもしれない。
  ヨセフやイエスのような仕事は、貧農階級すなわち最底辺の貧困層に属し、少年時代以降父を失ったイエスが、母親や多くの弟、妹を食べさせてゆくために、収入は充分であったとは言えない可能性が高かったと思われます。
  その一方で、イエスが育ったガリラヤという土地は、実は反ローマの闘士が多く出た地域であり、ローマ帝国に対する反乱活動、テロ活動が活発に計画され、実行されてはローマ軍に鎮圧されていた場所であったと言われています。
  反ローマの闘士、すなわちローマ帝国側から見ればテロリストが逮捕された場合、その見せしめの処刑はローマ式の処刑方法で行われたのでしょう。つまり十字架刑によって処刑が行われたわけです。
  本当にこれは私の想像ですけれども、イエスとその家族は、食べてゆくために、「十字架を切り出す」という仕事を、ローマの下請け木工業者として請け負っていたのではないか。彼は、同じユダヤ人同胞が、軍事大国の侵略に抵抗し、民族独立の悲願をかけて命を散らしてゆくのを横目で見つつ、その同胞を処刑にかけるための道具を、生活のために作っていたのではないか。まるで基地の町で米軍に依存しながら生計を立てざるを得ない日本人業者のようにです。
  わたしはいつも聖書を読むとき気になっていたのですが、どうしてイエスは大工出身なのに、羊飼いや農夫の仕事は頻繁にたとえに使うけれども、大工/木工業者という仕事を少しも引き合いに出さないのか。それはイエスが大工/木工業者という仕事に激しい負い目を感じていたのではないのかな、と。
  ですから彼は、弟や妹たちが育って一人前になり、家族を養わなければない大きな役割を終えた後、大工の仕事も故郷も家族も放り出して、家を出てしまったのではないかと思うのですね。
  彼の
「自分の十字架を背負え」という言葉は、ひょっとしたら、自分が木材から切り出した十字架にかけられた、同胞ユダヤ人から浴びせられた罵倒の言葉ではなかったか。ひょっとしたら幼いときの友達もその中に含まれていたかもしれない反ローマの闘士が、自分が作った十字架に打ちつけられてさらし者にされる。十字架の上から同胞に見下ろされ、「自分の十字架を背負ったらどうなんだ!」という言葉を投げつけられる、その心の痛みをイエスは抱きながら生き続けていたのではないか。
  そしてイエスが、その最後の日々、自らの十字架刑を逃げようの無い運命として受け入れ立ち向かっていった姿に、「同胞たちの死によって食いつないでいた」という罪悪感、また「いよいよ自分の時が来た」というイエスの悲壮な宿命観のようなものが、私には感じられるのであります。

究極の悔い改め

  「自分を十字架につける」ということ、それがイエスの結論でした。それはある意味、究極の答であり、究極の正解であるように思えます。誰かを犠牲にして生きるのをやめて、清い存在であろうとすれば、私たちはこの世界で生きることをやめなければならない。この社会の構造の中で生きるとは、他者から奪うことであり、他者を倒し、戦う兵士と奴隷の死の上に、はじめて私たちのくらしは成り立っている。
  だから、罪を犯さないようにするなら死ぬしかない。
  しかし、イエスは死んで結論を出してしまわれたけれども、私たちはどうすればいいのか。死ねばもはや、他者の犠牲の上に行き続ける罪を犯さなくてもよい。しかし私たちみんながイエスと同じように命を捨てるわけにはいきません。養わなければならない家族や、守らなくてはならない人とのつながりがあれば、なおさらのことです。
  思えば、イエス自身も父に代わって母や弟、妹たちを養い終えてから、自分の使命を果たしました。当時の30歳というのは決して若くはない。今で言う「熟年」に達する年齢だからです。だから、イエスは生活というものを否定したわけではない。しかし、その生活をいつまでも続けようともされなかった。そして彼が最終的に取った道は、すべて社会の底辺で犠牲になった人たちと同じ死に様をたどることでした。
  すなわち「自罰」、すなわち究極の「悔い改め」。
  イエス自ら、他者の犠牲の上に生きざるを得なかった人間としての究極の悔い改めを証する死へと向かって行ったのであります。

究極の自由

  しかしそれ以上に、この死は、究極の尊厳ある死とも言えます。
  イエスの死は誰かに強制されたり、争いの結果としての死でもありません。
  本日お読みいただいた御言葉、
ヨハネによる福音書10章18節にありますように、イエスはこう言いました。
  
「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」
  すなわち「自分の死は自分のものである」。
  国のために死を強制される兵士の死でもなく、民族のために命をささげる闘士でもなく、みんなの暮らしのために、という美名のもとに命を危険にさらされる奴隷のようにでもなく、ただ一人の人として自分で選んだ自分の死を死んでゆく究極の自由、それをイエスはここで証したのだ、とも読み取れるのであります。
  本当に、私たちはどうすればいいのでしょうか。イエスはひとつの正しい生き方あるいは死に方を正解として残してくれたわけではありません。先ほども申しましたように、イエスは死を選びましたが、私たちは生き続けなければなりません。
  イエスの死は、他者の犠牲の上に生きざるを得ない人間への罰としての死、と同時に、そのような理不尽な死を強制する社会に対する、究極の反抗としての自由の死でした。しかし、そのようなイエスの死が突きつけているものは、そんな私たちの社会への「問い」であり、「答え」ではありません。
「答え」は誰にゆだねられているのか。それは私たち自身です。
  誰も兵士にしない。誰も奴隷にしない。
  自分も兵士にならない。自分も奴隷にならない。
  そのために自分が何をすべきか、私たちは自分で解決を見つけないといけません。自分で知恵を出し、実行する人間に、ひとりひとりがなってゆかねばならない。
  それはたいへんなしんどさですが、それをやってゆかなければ、私たちが罪を犯し続けることを避けることはできません。

祈り

 愛する天の御神さま。
 今日ここに生かされてあることの恵みを感謝いたします。
 それと共に、自らが日々を生きて暮らすだけのことに、誰かの犠牲が強いるような社会を作ってしまった私たちの罪を、自覚させてください。
 神さま、どうかこれを変える勇気を与えてください。孤立した闘いではなく手を取り合って、共に変えてゆく勇気を与えてください。
 この社会を本当の意味で平和にすることができますように。
 主イエス・キリストの名によって祈ります。

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