思いを尽くし、力をも尽くし

2005年7月17日(日)日本キリスト教団マラナ・タ教会 伝道礼拝説教

説教時間:約25分……パソコンに取り込むかプリントアウトしてゆっくりお読みください。

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聖書:マルコによる福音書2章1−12節(新共同訳)

  数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。
  イエスは御言葉を語っておられると、四人の男が中風(ちゅうぶ)の人を運んで来た。しかし、群集に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
  イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
  ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
  イエスは、彼らが心の中で考えている事を、御自身の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」
  そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人びとは皆驚き、、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

イエスの家にて

  本日お読みいただきました聖書の箇所は、有名な「中風(ちゅうぶ)の人を癒す」という場面です。
  冒頭の場面、
マルコによる福音書2章の1節をもう一度読みますと、「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り」とあります。
  この「家」というのが誰の家なのかはわからないのですが、同じ物語がマタイによる福音書に書いてあるところ(
マタイの9章1節以降ですが)を読みますと、「イエスは……自分の町に帰って来られた」と書いてありますから、案外イエスは、このカファルナウムというガリラヤ湖のほとりの漁港の町を気に入って、そこを拠点に構えて、そこからあちこちに出かけてゆくということをしていたのかも知れません。
  さて、この町にイエスが帰ってきたとき、「先生が帰ってきた」というわけで、おおぜいの人たちがイエスの話を聞きに家に集まってきて、戸口まで人でいっぱいになってしまった。
  そこに4人の男が中風の患者を連れて来て、イエスに治してもらいたいと思ったけれども、とても入れそうにない。
  そこで4人は、家の屋根にのぼり、
「イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」と。
  これはもう、いくらなんでもビックリしたでしょうね、イエスの話を聴いていた人たちも、イエス自身も。
  なんだか変な物音がすると思ったら、バリバリバリッと屋根がはがされて太陽の光が入ってきて、その光の中からつり降ろされてくる患者が次第に姿を現すわけですね。
  「おい、屋根はどうしてくれるんだ」とか言う前に、イエス自身も感心してしまったようで、ここまでして自分に治してもらいたいのだ、という情熱のほうをイエスは評価したわけですね。屋根をこわしたことを叱る様子もなく、
「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。

古代の病気

  「子よ、あなたの罪は赦される」
  なぜイエスはそんなことをこの中風の患者に言ったのか。
  それは、この当時の人びとの間では「重い病気は神の罰、あるいは呪いである」という考えが行き渡っていたからであります。つまり「本人の自業自得だ」という考え方です。
  
ヨハネによる福音書9章の1節から、イエスが生まれつき目の見えない人を癒す、という場面が描かれています。
  その時、イエスの弟子たちはイエスに
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(ヨハネによる福音書9章2節)と尋ねています。
  ということはつまり、そのころの普通の感覚として、「本人もしくは親が何らかの罪を犯した罰として病気が与えられる」という考え方が浸透していたことがわかります。弟子たちにしてみれば、その当時の人びとの感覚でものを言っていたのでしょう。
  「その罪がどういうものかはわからないけれども、本人が気づいていなくても、何か神さまの怒りに触れることをしたから、きっと本人にはこういう罰が与えられたに違いない」、そういう目で重病人を見る、ということが一般的な感覚だったのであります。
  病気を患っている側から見れば、こんな迷惑で情けない、恥ずかしいことはない。
  たとえば中風というのは体の一部あるいは全身が麻痺して動かなくなる病気ですけれども、こんな風に、4人の男が運んできたということは、おそらく全身麻痺だったことでしょう。ということは身の回りの全ての世話を、周囲の人にお願いしないといけない。下(しも)のほうの世話だってやってもらっていたに違いない。しかも、「あいつがああなったのは、きっと何か天罰がくだったに違いない。何がそうかはハッキリとはわからないが、なにか神さまのお怒りになられるようなことをしたに違いない」と、遠巻きに噂されているわけです。これはたまらない。
  そういう冷たい視線は、この病人の世話をしている人たちにも向けられているのであって、「あの人たちは罪深い人の世話をしている。どうせろくな人ではあるまい」とか、「ああいう病人の世話をすることで、あの人たちも呪われているのだな」とか、だいたい無関係な人間というのは、そうやって無責任にひどいことを考えているものだけれども、そういう雰囲気を、本人たちは痛いほど敏感に感じていたことでしょう。

なぐさめ

  しかし、そのような状況であるにも関わらず、ここにこの患者を連れて来て、しかも屋根をはがすほどの強い熱意を持って、この患者を治してもらいたいという悲願を持った男性が4人もついている、というのは、驚くべきことです。
  世間の人びとに「あれは天罰だ」「神に呪われた人だ」と噂され、そんな人を世話しているだけでも蔑まれて肩身が狭いはずなのに、それでも4人の人がこの患者に付き添っている、ということは、この患者と患者を連れてきた人びととの間に、強い絆があることを感じさせます。
  天罰であろうが神の呪いであろうが、それでもこの患者は彼らにとっては大事な人なのです。だからこそ、この患者を見捨てることなく、これまで付き添ってきたのでしょう。そして今、「この方を治してください」という悲願をこめてイエスの前に差し出したのであります。
  「重病人は神の罰を受けている」。それが当時の常識でしたから、あるいはこの患者自身も、「自分は何かの罰を受けているのだ」と思っていたかも知れません。「自分が何をしたのか、何が神の怒りに触れたのかはわからないけれども、何かが神の怒りに触れたのだろう。だから今その報いを受けているのだ」と思い込んでいたかも知れません。
こういう状況でイエスがまず最初に発した言葉が、
  
「子よ、あなたの罪は赦される」でした。
  これは、「おまえは罰を受けている」と蔑まれてきた患者に対しても、そして、同じように蔑まれてきた患者の付添い人であった4人の男たちに対しても、大いなる慰めの言葉ではなかったでしょうか。
  「おまえが何か罪を犯したから、病気になったのだ」という言葉しかかけられたことのなかった人に対して、「いや、あなたは赦される」、「もう赦されている」と宣言することは、大きな大きな意味を持ったのではないでしょうか。
  そしてさらには、これは「病気は神の罰だ、呪いだ」と思い込んでいた周囲の人びとの思い込みに対する、批判の一撃でもあったと言えるでしょう。

脅しの宗教

  案の定、さっそくそこに居合わせていた律法学者:ユダヤ教の戒律の専門家たちは、イエスに対する批難をつぶやき始めます。
  
「神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが罪を赦すことができるだろうか」(マルコによる福音書2章7節)
  こういう人たちが世の中を支配していた社会というのは暗かっただろうな、と思います。事あるごとに、「そんなに簡単におまえの罪が赦されると思っているのか。病気が治らないのは神の怒りが解けていないからだ」、と言う。「病は気から」という言葉もありますが、そういう事を言われ続けていたのでは、治る病気も治らなくなります。
  そんな彼ら律法学者に、イエスは謎をかけます。
  
「中風の人に、『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」(マルコによる福音書2章9節)
  ……みなさん、どちらが易しいと思いますか? 「あなたの罪は赦される」という言葉をかけるのと、全身麻痺の病人に対して「起きて、床を担いで歩け」と命令するのと。
  答は簡単ですね。間違いなく「あなたの罪は赦される」と言うほうが簡単です。「起きて、床を担いで歩け」と言うほうが難しい。あるいは恐ろしい。なぜなら、「起きて、床を担いで歩け」と命令して、患者が起き上がらなかったら、それで終わりですから。その患者を治す実力を自分が持ってなかったとしたら、こんなに恥をかくことはありませんから。患者が起き上がらなかったら、自分の負けです。
  ですから、「『あなたの罪は赦される』と言うほうが簡単に決まってるじゃないか。だから私はそう言ったんだよ」と。しかし、じっさいにあなたがたが罪に対する罰だと言っている病気から解放する力をわたしが持っていることを示すために、言ってやろうか、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。すると、その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行ったと……。

挑戦

  おそろしいほどのイエスの開き直りですね、これは。少なくともわたしにはそう見えます。
  「『あなたの罪は赦される』と言う言葉をかけるのと、『起きて、床を担いで歩け』と言って実際に病気を治療してしまうのと、どっちが簡単だと思っているんだ? 実際に治すほうが難しいに決まっているだろう。見てごらん」と言って、じっさいに行動を起こしてしまった。その時点で、イエスは、「あなたの罪は赦される」などという言葉をかけるのは、比較的簡単なことだと言ってしまっているに等しいのです。
  しかも、「罪は赦される」と言うのは簡単だ、ということは、律法学者たちがご大層に騒ぎ立てるような「罪」であるとか、「神の罰」であるとかいった事柄も、実はたいしたことではないのだ、ということにもなります。
  イエスにとっていちばん大切な問題とは、ここに、病気で苦しんでいる患者がいるということと、その患者本人のみならず、その患者の関係者の少なくとも4人が、必死の思いで「この人を治してあげてほしい」と願っていること、そして何とかしてこの人びとを苦しみから解放することだけであって、外野の宗教者ぶった人間が「それは罪だ」とか「それは罰だ」とかはやし立てていることなどは、全く重要なことではなかったのであります。
  無関係で無責任な人びとが、「それは罪です」、「あれは罪です」などと言うのは、実にくだらない。結局口先だけの、言葉だけの思い込みにすぎないのであって、何の役にも立たない。何の役にも立たないどころか、かえって人の心を落ち込ませ、生きる気力さえ失わせてしまう。
  他人の行いや振る舞いをとらえては、「それは罪です」とか「罪に近づいてはなりません」と言い立てたり、あるいは結果として不幸な状況に陥った人をつかまえては、鬼の首でも取ったかのように「それは罪の結果です」とはやし立てる人間は、どこの宗教にもおります。
  そのように他人の罪を責めておれば、自分が信仰深いかのような錯覚を覚えるのですが、そこには本当の意味での信仰も愛もない、それはただ他人を裁いて自分を正当化してみたいという自己満足に過ぎない。しかしそれが信仰だ、それが宗教だと思い込んでいる人が、クリスチャンの中にも相当いるというのが現実です。
  イエスは、そのような思い込みを抱いた宗教信者に、痛烈な皮肉を浴びせたと言えるでしょう。
  しかし、イエスにとって大切なだったのは、言葉の世界で「あれが罪か、これが罪か」と他人を批評することではなく、他人の苦しみをじっさいに癒すことのできる実力なのであります。

思いも、力も

  同じマルコによる福音書の12章で、ある律法学者に「あらゆる掟のうち、どれが第一か」と訊かれたイエスは、こう答えています。
  
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12章29−31節)
  
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし……」というのは、いわば、悪い言い方をすれば精神論です。しかし、それだけではなく、「力を尽くし」という言葉が入っている。精神面だけではなく、じっさいに「力を尽くす」ことで示す愛もあるのだと述べられています。
  そして、その
「力を尽くし」という言葉は、神への愛を語った第一の掟だけではなく、第二の掟で述べられている隣人への愛についても同じようにかかっているのだと考えたいのです。
  わたしたちは「心」や「精神」や「思い」だけではなく、「力を尽くす」愛を隣人に対して果たしてゆくことも大切です。
  じっさいに神さまの役に立とうと思っても、あるいは誰かを愛したいと思っても、知識や技能・技術といった実力がなければ、気持ちだけで現実には何もできないことがあります。
  誰かを助けたい、何かの役に立ちたいと思っても、じっさいに助けたり、役に立つだけの知識や技能を持っていないために何もできない悔しさを味わうことが、私たちには何度もあります。
  ですから、じっさいに愛するための力をつけるために、私たちのなかには、学び、鍛え、訓練している人びともおります。愛するためには、研鑽と鍛錬と修行が必要なことがあるのであります。

抽象的な信仰よりも、具体的な愛を

  本日お読みした聖書の物語のなかで、中風の人を癒して見せたイエスは、人を裁いたり赦したりする宗教者の言葉遊びよりも、じっさいに人を癒すこと、治す力のほうに、よほど価値があるのだということを、身をもって示しました。
  イエスにとっては、宗教的な正しさや罪深さを論議するよりも、目の前の人が人として活き活きと、苦しみから解放されて生きるために、実力を行使して援助することこそが大切だったわけであります。
  キリスト教という宗教で崇められている、とても宗教的な存在であるかのように思われている「主イエス」のことですから、みなさんは意外に思われるかもしれませんが、イエスご自身は自分や自分の生きている社会の人びとがありがたがっていた「宗教」よりも「人ひとり」を優先された方なのであります。
  「信仰と希望と愛、そのなかで最も大いなるものは愛である」という聖書の言葉もあります。キリスト教も宗教のひとつならば、「信仰がいちばん大事だ」と言えばよさそうなものです。しかし、そうではない。いちばん大事なのは、「信仰」よりもむしろ具体的な「愛」なのです。
  宗教よりも人を優先する救い主。
  信仰よりも愛を優先する宗教。
  それがイエスという救い主の、そしてキリスト教という宗教の一風変わっているところであり、面白いところなのであります。

  お祈りいたしましょう。

祈り

  愛する天の御神さま。
  今日は、マラナ・タ教会のみなさんと共に、こうして礼拝を献げることができますことを、心から感謝いたします。
  心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたのことを、そしてあなたによって造られた一人ひとりを、愛して生きることのできる者とならせてください。
  また、私たちが自らの愛をこの世でわざとして形にするために、必要な知識と技能を常に磨くことのできるような、積極的な生き方をなしてゆくことができますように。
  そして、私たちがもし、人を愛することができていない者であったとしたら、どうかその弱さを赦してくださいませ。しかし、その弱さの中から再び立ち上がり挑戦する力を与えてください。
  私たちが、あなたと隣人を愛することから逃げない者であるように、どうか強めてください。
  この祈りを、われらの主イエス・キリストの御名により、どうかお聴きください。
  アーメン。

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