石と蛇

2006年4月24日(月)同志社香里中学校 ショート礼拝奨励

説教時間:約7分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マタイによる福音書7章7−8節(新共同訳)

  求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

「石」と「蛇」

  今日、読んだ聖書の箇所には、「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者は開かれる」と書いてあります。
  それに続いて、こんなことも書いてあります。
「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」と言葉が続いています。
  自分の子どもが食べ物をほしがっているときに、石や蛇を与える親はいないでしょう、とイエス・キリストが言ってるわけですが、これはこの言葉をしゃべったイエスの時代――およそ2000年前では、非常に過激な言葉遣いなんですね。
  「石」というのは、当時のユダヤ人の社会では死刑は石打ちの刑、みんなで取り囲んで頭の大きさほどの意志を投げつけてなぶり殺しにするというのが古代のユダヤの処刑の方法ですから、「石」と言ったときそれは処刑の道具を意味するんです。
  それから「蛇」というのは、当時の人びとは悪魔の化身だと思ってました。
  ですから、イエスが言っているのは、「君たちが親になったとして、子どもが食べ物をほしがっているのに、処刑の道具や悪魔の使いを与えるような、そんなことはしないだろう。子どもが何かを欲しがれば、きっと良い物を与えるに違いないだろう」というわけです。

求めなければ与えられない

  このように書いてありますから、たとえばこれは学校においても同じことで、わたしたちキリスト教学校の教師は、クリスチャンであるなしに関係なく、生徒である君たちが、きちんと求めてくれれば、最善をつくして応えようとするはずです。
  君らが良い物を求めている場合に、教師が石や蛇のようなものを渡してくるということはありえないことです。
  ただ、気をつけなければならないのは、「求めなさい。そうすれば……」と書かれてあるということは、「求めなければ、何も与えられないよ」という裏の意味もあることをおぼえておいてください。
  分からないこと、正しいこと、それはなにか、ということを教師にぶつけてみてください。すると、さまざまな答えが返って来るでしょう。しかし、何も求めない人は、何も手に入れることはできません。
  勉強のことにしろ、それ以外のことにしろ、教師に質問をぶつけること、それなしには、みんなは深くものを知ることはできないでしょう。
  私たちの学校は自由な学校とよく言われています。しかし、自由な学校というのは、それなりの恐ろしさもあります。自由だということは、自分で「石」や「蛇」のような悪いものを求めることも自由にできてしまう危険性も含んでいます。
  自由な学校のなかで、いかに「良い物」を求めていくのか。それが大事なことです。自由な学園のなかで良い物を手に入れるには、「良い物をください」と正しく求める姿勢が大事になってきます。
  まだ1学期。始まったばかりです。ということは、まだチャンスがたくさん時間的にも残っているということです。どうか良い物を周囲のおとなたちから引き出すような、「求める」姿勢をしっかりと持てるような人であってくれたらな、と思います。
  お祈りをいたします。目を閉じてください。

祈り

  愛する天の御神様。
  中一、高一のオリエンテーションも無事すみ、いよいよ私たち同志社人として自覚をもって進み行くべきときを迎えました。
  どうかあなたの見えざる手によって、ここに集う一人ひとりを導いてくださいませ。
  ここに集う一人ひとりが正しい道をもとめ、それぞれの答えを手に入れて、よりよい人生を送ってゆくことが出来ますように。
  主、イエス・キリストの御名によって祈ります。
  アーメン。

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