迷えるうちに迷っておこう

2009年6月15日(月)北星学園女子中学校 礼拝奨励

説教時間:約20分

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聖書:マタイによる福音書 18章10〜14節(新共同訳・新約・p.35)

  これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
  あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。

修学旅行はどこへ行きますか?

 最初にみなさんにお聞きしたいと思います。修学旅行はどこに行くんですか? カナダ? そうですか、カナダいいですね。カナダのどこですか? バンクーバー? バンクーバーいいじゃないですか。
 うちの中学校は修学旅行でどこに行ってるかご存知ですか? 知るはずがありませんよね。実は北海道です。函館です。みなさんの地元に来るんですよね。私たち関西人にとっては、北海道はあこがれの土地です。
 ところで、修学旅行でも遠足でも、集合時間に遅れてくる人って必ずいるじゃないですか。そういう人はどんな風に叱られるんですか? うちの学校は、けっこう怖いと思うんですが、だいたい遅れてきた子は別に集められて、教師ににらみつけられて厳しく叱られます。泣くまで責められることもよくあります
(北星女子の生徒さんたちから「こわーい」と声が上がりました)
 今日読んだ聖書の箇所はそういうことと関係のあるお話だなと思って選んでみました。

聖書の読み方あれこれ

 マタイによる福音書にある「迷い出た羊」のたとえ。有名な話なので、知っている人も多いと思います。これ、何が言いたい物語だと思いますか……?
 よく言われているのは、羊は人間で、羊飼いは神さまだという解釈の仕方です。
 「神さまは、群れからはぐれてしまった、ひとりぽっちの人間でも愛してくださっているんですよ。あなたが誰からも愛されていないと思って孤独を感じていても、神さまは決してあなたを見捨てたりはしない。神さまにとっては、どの人間も大切なひとりなんだよ」
 ……という風に読むわけです。それがたぶん一番無難な読み取り方でしょうね。
 しかし、私の知っているこの物語の読み方で、今まで人から聞いていちばん印象に残っているのは、この1匹の羊を徹底的に責める解釈でした。こんな感じです……
 「せっかく99匹の羊がまじめに羊飼いのところに集合しているのに、たった1匹だけ集合場所から無断で離れて、自分勝手で興味本位な好奇心に負けて危険なところをうろつきまわり、結局そのために探しに行った羊飼いにしんどい思いをさせ、みんなに迷惑をかけた。こんな自分勝手な羊のような人間にだけはなってはならない。確かに羊飼いはこの1匹の羊を見つけて喜んでいる。しかし、そのような神が私たちを愛してくださるのは、神だからなのであって、人間は調子に乗ってはいけない。とにかく自分勝手な行動で、先生や他の生徒に迷惑をかけるような人間にはなるな! この羊は、後で厳しく罰せられなければならない……!」

羊飼いの話の落とし穴

 ……とまあ、そんな解釈を聞かせてくれた人が、昔いました。そういう読み方もあるのか、と思ってびっくりしましたが、それと同時に、聖書というのは読む人の性格や物の考え方がにじみ出る本やなあということも考えさせられました。
 私は、いま紹介したこの読み方には賛成はしませんでしたが、ちょっと冷静になって改めてこの羊飼いの話を読み直してみると、確かにそういう堅苦しい解釈をさせてしまうような要素もあるんですね。
 たとえば、この羊は確かに1匹で群れから離れて行ったわけですから、危険なことをしているのは事実です。羊というのは、大変目が悪い動物なんだそうですね。ほんの数メートル先においしそうな草が生えていても、それが見えないそうです。それで、群れからはなれた羊が、山の中で足を踏み外したりして崖から落ちたり、狼が近づいてきても気がつかないで、逃げる間もなく教われて食い殺されてしまったりします。羊には鋭い牙もありませんから、教われたら立ち向かう事もできません。
 だから、崖から落ちたり、狼に教われたりする前に、羊飼いに見つかってよかったな、命拾いしたな、ということになるのですが……。
 しかし、こういう話を読んで、私は改めて思ったんです。「この羊たちは、羊飼いに守られて安全ではあるけれども、自由は無いな」と。
 本当はこの迷いでた1匹の羊は、命の危険を知りつつも、見てみたいもの、やってみたいことがあったかも知れません。冒険心のある羊なのです。でも、連れ戻されてしまう。そして群れに戻ってみると、他の羊たちに疎ましがられたり、「なんだおまえだけ。和を乱しやがって」といじめられたりする可能性もあります。この変わった羊は、変わっているが故に、みんなに嫌われて、いじめられるかも知れんやんか、と思ってみたりもするのです。
 そうなると、この1匹の羊にとって、群れに戻されることが本当に幸せだったのだろうか、と疑問に思うんですね。

学校のようなもの

 どうして羊は連れ戻されなくてはならないんでしょうか? それは外の世界が危険だからですよね。そして羊はそんな場所で生きぬくには弱すぎるからです。でも、もし世界が安全で平和であったら、あるいは困難な状況でも羊がひとりで生きてゆく力が備わっていたら、群れから離れても平気なんです。
 群れに連れ戻されるのは、いわば学校に通っている間のみなさんのようなものではないかと思います。
 学校から卒業したらどうなるか。ちょっとヒントになる聖書の箇所を見つけたんで、開いてみましょうか。みんなが持っている聖書の18ページを開けてください。
マタイによる福音書10章16節、18ページの1番最初です。読んでみます……
 
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」
 いかに世の中に出て行くことが厳しいことかを表わしているような言葉ですね。
 学校の先生というのは、いずれは狼のたくさんいるところに教え子という羊を送り込まなくてはならないことをわかりながら、今しばらくは羊が迷うたびに探しに行っている羊飼いのような気がします。
 みなさんは今はどう感じているのかわからないですが、いずれは大人になるにつれて、自由がどんどん増えていきます。いずれ本当に独り立ちした人間として群れを出る時には、羊飼いはもう助けに来てはくれません。ただ無事を祈るだけです。
 自由というのは、孤独で恐ろしいものです。でも、いつかはみなさんは自由を手に入れなくてはなりません。ですからひとりで決断し、ひとりで責任を取れるようになるために、今自分が学校で経験していることは、全てが訓練なのだと考えておいた方がいいと思います。

迷える小羊になることを恐れないで

 そんな風に考えていくと、やっぱり迷い出た1匹の羊って、魅力的な羊だなという気がしてきます。この羊のような、冒険心と独立心を持った羊こそが、将来ひとりで生きてゆく力を手に入れるような気がするのです。
 群れの中に埋没して「『みんな』がやってるから、私もこうしよう」ということばかりしているような、自分というものがなくて自分の行動に無責任な人というのは、結局将来困るような気がします。
 群れから離れて、自分の道を探す羊は素敵です。みなさんもどんどん迷ってみたらいいんではないでしょうか。
 今は迷っても助けに来てもらえます。完全な自由ではないけれど、そのかわり道を見失った時には大声で助けを求めたら、探しに来てもらえます。そのようにして守られているうちに、いろんなことにチャレンジして自分の可能性を試すことができるところが、未成年のいいところのような気がします。
 どうか「迷える小羊」になることを恐れないでください。
 お祈りしましょう。

祈り

 神さま。
 今日、こうして北星学園女子中学校のみなさんと礼拝を持てます事を心から感謝いたします。
 ここにいるひとりひとりが、いつかはひとりでこの荒々しい世の中を元気に歩んでゆけるように、どうかその力をお与えください。
 イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。

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