支えられた自力

2003年9月8日(月)同志社香里中学校・ショート礼拝奨励

【拡大版】:じっさいに礼拝でお話したのは7分ほどでした。ここに掲載するのは拡大版です。
説教時間:約12分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。


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聖書:ヘブライ人への手紙 12章12−13節(新共同訳・新約・p.417)

  だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

合わない登山靴

  登山靴というのは、本当はちゃんと足のサイズを計測してもらって、選んでもらうかあつらえてもらうかしないといけません。ところがぼくは去年、時間がないからといって、スポーツ洋品店でパッパッと合わせて買ってしまったんですね。
  ぼくは高校山岳部の顧問をやってます。中学にもワンダーフォーゲル部がありますが、同じように山に登るクラブです。今年の夏、高校山岳部は南アルプスを、6日間テントをかついで歩いてきました。
  で、登山靴、去年もあんまり足に合ってないなーと思っていたんですが、今年その合わなさぶり(と言うのかな?)がひどくなってきて、歩き方も悪かったんでしょうけど、3日目に靴ズレを起こしました。
  靴ズレを起こしても歩かないと目的地には着けないので、靴ズレ防止の(あとから貼っても意味なかったけど)パッドを貼ったりしながら、一日歩きました。その日が終わる頃には、両足のかかとの皮が500円玉より大きくむけてしまって、皮膚の中身が見えてるような状態になりました。痛うて痛うてたまりません。
  4日目、むけたかかとに薬塗って救急パッドを貼ってバンソウコウ巻いて歩き始めましたが、いっぺんむけてしまうとあきませんね。むけたところをさらにゴリゴリ摩擦しながら、一日7〜8時間歩き続けるわけです。もう頭が朦朧となってね、気が遠くなりそう。まさに拷問です。
  5日目、朝の4時ごろ出発しましたが、2時間ほど歩いただけで、もうあまりに痛くて、立ち尽くして泣きました。しかし、泣いても道は進んでくれないので、また歩きます。
  その日は本隊から離れてコースタイム4時間オーバー、血と膿にまみれた足を登山靴に包んだまま、実に12時間歩きました。
  そしていよいよ最終日の下り、「歩くとは痛いことなり」と悟りを開いた気持ちになり、無心で朝暗いうちから歩き始めました。
  かかとのほうは、もう皮膚がえぐれて神経も死んでしまったのか、しびれるような感覚しか残っていませんでした。むしろ、痛みをかばって変な歩き方をしたせいか、長い長い下りを歩く中で、しだいに親指の爪がはがれかけてきて、これがまた痛い。また、ひざも曲げると悲鳴をあげたくなるぐらい痛くなっていたので、杖をつきながら足を引きずって、ノロノロとしか進めません。もうボロボロの状態でした。

優しさに支えられて

  後からたくさんの人が追い越していきました。追い越してゆくたび、みんなが声をかけてくれます。「大丈夫?」「痛いでしょう」「タオルでも巻いたら?」「テーピング持ってる?」「がんばってよ」……みんなの優しい言葉が心に染みました。ホントは自分の靴選びの失敗から起こったトラブルなのに、誰も「おまえはアホか」なんて言う人はいませんでした。
  ぼくは体がデカいですから、誰もぼくをかつぐことはできません。自分の体は自分で運んでいかなあきません。誰もぼくを助けることはできません。しかし、助けてはくれなくても、いや、あるいは誰も助けてくれるはずがない、誰にも甘えることができないとわかっているからこそ、ただ心配してくれる、励ましてくれるだけの言葉でも、ものすごくうれしく感じることができたんだと思います。
  あるいは、人の優しさがわからないというのは、まだまだ自分に余裕がある時、人に甘えている時なのかもしれません。
  誰も助けようのない、自力で何とかしなければならないしんどさを自覚している時にこそ、そうやって自分で歩こうとしている者を応援してくれる人の優しさに気づくことができるのかもしれません。
  泣いても、文句を言っても、自分の力で歩かなければ、ゴールは近づきません。自分の力で歩けば、どんなにゆっくりでも景色は変わっていきます。そうやって自分の力であがいている時にこそ、人の優しさが身にしみるのかも知れない。逃げず、放り出さず、なんとか自力で歩もうとする人間には、人は優しいもんなんやなぁと思いました。

同伴者に支えられて

  また、ぼくが最後まで歩くことができたもうひとつの理由に、ずっとぼくに付き添っていっしょに歩いてくれたOBの存在があります。
  本隊に遅れはじめた時、最初は独りで歩いていました。しかし、やはり山の中で独りで行動するのは危険だという事で、OBが独りついてくれることになりました。
  独りだと、ある意味マイペースです。歩くのも止まるのも、そして立ち止まって泣くのも、「くそったれ!」と叫ぶのも自由です。しかし、もう一人いると、泣くわけにもいかんし、好きなことも言えんし、後ろからついてこられるとあおられてるような気がするし、最初はどうもしんどい感じがしました。
  しかし、本隊からどんどん遅れて、日がかげり始め、やがて霧がたちこめてきてくると、人では危険であった、もう一人いてくれてよかったとわかってきます。崖の近くの水場まで水を取りに行けないときも、そのOBが取りに行ってくれます。雲の中に入ってコースを定めにくい時にも、地図を見ながら話し合うことができます。そして、疲れと痛みがピークに達し、絶望的な気分になってしまったときにも、独りなら投げ出してしまったかも知れませんが、どんなに到着が遅れても、一緒に遅れて歩いてくれる仲間がいることで、どんなに心が支えられたかわかりません。
  いっしょにいてくれる人がいれば、それも、絶望的なまでにしんどい状況だからこそ、いっしょにいてくれる人がいてくれば、そんな絶望的な状況を耐え抜く力も湧き起こるものなのだ、と感じました。

支えられた自力

  そうやって、ある時は見ず知らずの人たちの優しさに支えられて、またある時はいっしょに同じ道を同じペースで歩いてくれる人に支えられて、ぼくは自分の失敗に落ち込むことなく、最後まで自力で歩いて生還する事ができました。最終キャンプ地に到着した時には、拍手までしてもらいました。
  自力で歩いたんだけども、たくさんの人にも支えてもらったような、不思議な感じでした。それは完全な自力ではなく、支えられた自力でした。
  ぼくは次の機会には、ぼく自身が、不器用でどんくさくても、自力でがんばってる人に、優しい声をかけてやれる人間、また付き添って歩くことのできる人間になりたいと思いました。
  みなさんは、そういうちょっとした優しさを敏感に感じることがありますか? あるいはそんな優しさを自分のほうから友だちのために費やすことができますか?
  ぼくらの学校はそういう仲間でありたいです。
  ……祈ります。

祈り

  愛する天の御神さま。
  今日もこうして生かされていることを感謝いたします。
  わたしたちはさまざまなスピードで、自分自身の人生の山道を歩んでおります。
  おのおの自分のことだけではなく、自分以外の人に少しでも優しい言葉をかけることのできるような、また、困っている人間、思うように進めない人間にも寄り添うことのできるような、そんな優しさを持つことができますように。
  この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお聞きください。
  アーメン。

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