「正しさ」よりも大切なこと

2004年1月25日(日)日本キリスト教団東神戸教会・主日礼拝説教

説教時間:約25分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る

■聖書:マタイによる福音書 9章9〜13節(新共同訳・新約・p.15)

  イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

いけにえ

  いましがたお読みいただきました聖書におきまして、イエスは、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と聖書にも書いてあるではないか、言われました。
  たしかにイエスが地上で生きておられたとき「聖書」と言えば、旧約聖書のことですが、
ホセア書6章6節「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」と書いてあります。
  「いけにえ」は、古来からいろんな宗教で行われてきました。神の怒りを鎮めたり、収穫物や家畜が反映した場合には感謝の気持ちとしてその一部をお供えしたり、あるいは収穫が得られないときには、願い事をするためにいけにえをささげたりもしてきました。
  イエスが生きていた時代に行われていたのは、主に神さまの怒りをなだめるためのいけにえでした。今からおよそ2000年前のユダヤ地方でユダヤ人の間で公式の宗教だったユダヤ教は、たいへん政治と結びついた宗教で、ユダヤ民族が独立を勝ち取れるのか、あるいはローマ帝国のような大国の支配の中で滅ぶのか、あるいはその間を進んで大国との緊張関係のなかで辛くも生き残ってゆくのか。それを司っているのは神だと信じられておりました。
  もしユダヤ人ひとりひとりの罪が積もれば、神が怒りの拳をユダヤ人の上に下し、彼らを敵の手に渡されますし、もしユダヤ人ひとりひとりの振る舞いが神の御心にかなったものであったら、彼らは神の祝福を受けて生きながらえるだろうと信じられておりました。そして、その神の御心にかなった生き方の基準が、律法、すなわちユダヤ教の戒律でありました。
  しかし、罪を犯さない人間はおりません。完全に戒律を守れる人はおりません。そのため、罪の償いが必要となります。なにかその罪の罪深さを埋め合わせるもの、罪を贖うものが必要となります。
  深い罪には、罰として死が与えられると信じられていました。つまり命で罰を支払わねばなりませんでした。したがって、罪を贖うためには何か別の命を献げる必要がありました。そこで、人間の代わりに人間のかわりに罰を受けてくれるいけにえの羊が必要となるわけです。
つまり、いけにえを求める発想は、誰かが罰されなければ、罪は消えない、という考え方です。
  それがたまたま古代のユダヤ教では、血が流されなければ、罪は贖われないと考えたのであって、それは別の時代の別の宗教でしたら、別のやり方もあるのでしょうけど、とにかく、昔から人間の宗教は、そのような「いけにえ宗教」のほうがポピュラーだったと言えるわけです。

正しさ

  「いけにえが必要だ」と考える人びとは、正しさを求める人びとです。正しさを求めるというのは、ある意味たいへんマジメで純粋な考え方の人びとだと言えます。
  正しさを求めるマジメな人びとは、それゆえに間違ったことが嫌いで、他人の中に間違ったこと、つまり罪を見つけ出すと、それを厳しく非難します。そして自分の中にも、自分が気づかずに犯している罪がないだろうか、と恐れます。
  そして、何か自分の人生や、他人の人生に、思わしくないことが起こった時には、「これはなにかの罰ではないだろうか」「自分は(あるいはあの人は)どんな罪を犯したのだろうか」と自分をも他人をも裁いてしまいます。
  つまり、正しさを求める人びとはたいへんマジメで純粋なのですが、その反面、その心の裏側をのぞいてみると、恐怖と悲観的な考えでいっぱいであったりします。
  そして、そのようなマジメで純粋な考え方の人びとが、宗教や神と結びついたとき、それはとてつもなく危険なものになることがあります。
  特に、キリスト教やユダヤ教やイスラームのような一神教に基づいて「正しさ」というものを求めてしまうと、「神が一人なのだから、正しいこともひとつだ」という発想に陥ってしまいがちです。

正しさの功罪

  わたしはインターネット上に教会仕立てのウェブサイトを作って運営していますが(「三十番地キリスト教会」と言いますが)、そこに「はじめまして」とメールをくれる見知らぬ方々も、多くはその教会の「正しさ」によって切り捨てられた人、あるいは切り捨てられるのではないか、と恐れている人びとです。
  そしてわたし自身も、「おまえは地獄に落ちるぞ」と脅迫のメールをいただくことが時々あります。「『人を裁くな』と聖書に書いてありますよ」とお返事をすると、逆鱗に触れるのか、「わたしが裁いているんじゃない! 神が裁かれ、あなたを地獄に落とされるであろう、と言っているのです! あなたは日本語も読めないのですか!」と言われたこともあります。
  もっとも最近はあまりそういう脅迫は受けなくなりました。たぶん相手にするだけ時間の無駄だと思われ始めているのではないかと思います。それこそ、「人間である我々が裁かなくても、神自らが罰を下してくださるであろう。あのサイトを作っている富田は間違いなく地獄行きだ、はっはー」と笑われているのかもしれません。もっともその人たちもたぶんわかっているはずのことなのでしょうが、人間は自分でも気づかずに多くの罪を犯している可能性があります。「おまえは地獄に落ちるぞ」と言った当人が、地獄でわたしと再会する可能性もあるのでありますが……。
  まぁ余談はさておき、とにかく最近わたしが受け取るのは、まじめなご相談のメールか、「教会で『裁かれた』『自分はもうだめなんだ』と思いましたが、助けられました」という感謝のメールをいただくことのほうが多くなりました。本当にありがたいことです。
  そういうメールの数々を読んでいますと、いかに多くの教会が、非常に狭い価値観、非常に狭い道徳や倫理の基準、非常に狭い信仰理解で人間のあり方をきっちりと定めきってしまい、その狭い基準に合わない人間を「神さまの御心にそむいている」という、誰にも反論できないような――それに反論できないのは、もちろん裁かれている人にも信仰があるからなのですが――神さまを信じようという心かあるからこそ反論できないような言葉で、裁き捨てている、ということがわかってきます。

ひとつ

  エフェソの信徒への手紙4章5節以降には「主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」と書いてあります。
  「主は一人、信仰は一つ」という言葉が好きなクリスチャンの方はたくさんおられます。信じるものが一致する人間が、一致団結して集まっている状態は、その中にいるものにとっては心地よいものです。
  しかし、聖書の言う「一つ」とは、そもそもそのようなものであったのか……。
  ほかにも、「ひとつ」という言葉がよく使われている聖書の箇所がありまして、
使徒言行録2章44節以降です。イエス・キリストが亡くなられた後まもなくの時期、最初の教会の人びとが「一つになって生活していた」と書いてあるところがあります。
  少しそこの箇所を読んでみます。
  
「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をしていたので、民衆全体から行為を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(使徒言行録2章44−47節)
  ここで大事なのは、「一つに『なった』」「一つに『された』」ということであろうと思われます。
  たくさんの間違っていることの中で、何か一つの正しいことがあって、たくさんの間違っているものを捨てて、その正しいことに人が集まって「われわれは一つだ」と言っているのではなくて。
  もともとが人間はバラバラである、と。その、そもそもバラバラな人間どもが集まって、一つに「なる」、あるいは神さまの手によって一つに「される」、それが「一つ」ということの実際の姿だというわけです。
  神さまはひとつ、だから世界はひとつ、人間はひとつになれる。しかしそれは、それぞれ様々に違った人間が、集まって「一つになろう」と努めること、あるいは「わたしたちを一つにしてください」と神に祈ることから始まる出来事ではないでしょうか。
  一つの正しい生き方が自明の前提のように存在していて、その基準に合う人たちばかりが集まっているから一つになれるというのは、それはキリスト教の本来の姿とは違うのであります。

光と闇

  創世記におさめられている天地創造の物語によれば、神さまはもともと混沌だったこの世の物質を、光と闇、天と地、陸と海、植物と動物、男と女という具合に、分けて、分けて……この世を形作っていったのだと語られています。
  それは、この世は一見あまりにもバラバラで、あまりに互いに違いすぎていて、互いにかなり無関係なように見えているけれども、本当はすべてが神さまによって、最初の「ひとつ」から切り分けられて、いろいろな異なる存在に作り分けられていったのだよ、ということであります。
  この世のバラバラな全てをひっくるめて、それを「一つ」の世界というのだよ、というわけであります。
  神は、もともと曖昧ではっきりしないこの世の素材を、光と闇に分けることから創造をわざを始められましたが、光を創って、闇を切り捨てたというわけではありません。
  正しさを求める人は、いつも光の方向を向いてゆこうと考え、闇は神さまに反する生き方をあらわしていると思いがちです。
  しかし、人間の目には闇にしか見えない場所、闇のような心の状態、闇でしか行えないような振る舞い、それらも皆、実は神は見守っておられ、すべてが神の御手の内にあります。
  神は光のような、人生の清らかで美しく明るい部分を祝福してくださるように、闇のような、人生の暗い部分、醜く、歪みのある、時に罪深い部分にも、同じように愛を注いでくださる方であります。
  光も、闇(病み)も、ともに神さまの作品なのであります。
  光が現れれば、必ず陰が生じるのであり、闇があるからこそ、光が際立って明るく輝くものです。
  闇のない光、影のない人間、またあまりに健康すぎる、病のない人間は、どこか非現実的で、軽薄で、魅力的ではありません。闇こそが光を支えている。
  もっと言うならば、さらに抽象的な物言いになりますが、人びとに罪だと思われているような振る舞い、病だと思われているような心が、実はその人の魂の清らかな部分を際立たせていたりすることがあったりするのであります。
  ですから人間の闇の部分を切り捨ててはならないと思います。

いけにえではなく愛を

  イエスは、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(マタイによる福音書9章13節)とおっしゃいました。
  そして「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(同13節)とおっしゃいました。
  それでは、イエスは罪人つまり正しさの基準から外れるような人びと、闇の中に生きる人びとを招いて、そして立ち直らせようとしたのか。
  わたしはそうとは限らないのではないかと思います。
  立ち直ることが目的であったならば、いつまでに立ち直るか、期限を切らざるを得なくなります。いつまでたっても、死ぬまで立ち直らない人は、最終的には受け入れられないということになるからです。
  つまり立ち直らせるために招く、ということは、すでに罪人、つまり基準に合わない人は最終的には排除されますよ、と予告しているのと同じなのであって、イエスの言う「罪人を招く」ということの意味とは違うのです。
  イエスの言う「罪人を招く」というのは、「罪人のままでよし、として招く」という意味です。そして罪人が罪人のままで、その人生を新しい可能性へとイエスと共に広げてゆく。
  だからイエスはもっぱら人から「罪人」と呼ばれて排除されている人に、単純・素朴に「わたしについてきなさい」「わたしに従いなさい(Follow Me)」(同9節)と呼びかけてくださるのであります。
  わたしたち人間にとって大切なのは、罪を頭ごなしに否定し、病んだ部分を切り捨てることではなく、罪と共に生き、病と共に生きるということです。
  「罪を抱え、病を抱え、陰のある人生だからこそできることを、神さまのために献げてごらん。そうすれば、あなたの人生は深い意味をもって輝いてくるよ」、ということをイエスは教えてくださっているのであります。
  お祈りいたします。

祈り

  愛する天の御神さま。
  わたしたちを矛盾だらけの姿に創ってくださり、ありがとうございます。あなたがわたしたち人間をこのような罪と清らかさの入り混じった姿に造ってくださったおかげで、わたしたちは、実に複雑で味わい深い人生を歩むことができます。
  願わくば、わたしたちのこの曖昧さと矛盾を、同じようにあなたに愛されている自分以外の人びとと赦しあい、愛するための道具として用いることができますように。
  この祈りを、主イエス・キリストの御名によって、お聴きください。
  アーメン。

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール