終わりから考える

2003年4月23日(水)同志社香里高等学校・新島襄墓前礼拝奨励

説教時間:約12分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:ヨハネによる福音書 12章24−25節(新共同訳・新約・p.192)

  はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

新島襄の墓前で

  みなさんは今、同志社共葬墓地の前にいます。
  ここは同志社の創立者、新島襄のお墓をはじめ、その両側には、新島の妻、八重の墓、新島と共に同志社の最初の教師となった宣教師デイヴィスの墓、さらには「同志社」という学校名の名付け親であり、新島を支えた当時の京都府顧問、山本覚馬のお墓など、さまざまに同志社の創立、また維持に生涯をささげた多くの人びとが、ここに眠っています。
  ここは同志社を建てた人々の魂が眠っているのであり、ここに同志社精神の原点があると言える。ある人はこの場所を「同志社の聖地」であるとまで言います。
  毎年、11月の創立記念日と1月の校祖永眠記念日には、この場所で寒い朝早くから讃美と祈りの会が持たれます。その日には香里だけではなく、他の4つの中学・高校、もちろん大学から幼稚園まで、全同志社から有志の者たちが集まり、ここで同志社の原点を確かめ合い、お互いに元気を分け合って、またそれぞれの持場に散っていきます。
  同志社の中学校・高等学校の新入生は、みなこの同志社の創立者・校祖である新島襄のお墓にお参りし、この度同志社でお世話になることを神と新島襄の霊の前に報告し、感謝し、そしてこれからしっかりと同志社の生徒としてふさわしい学校生活を送ることを約束してもらいます。
  ひとつひとつのお墓はちょっとここからは見えにくい。あちらの墓地の中にたくさんお墓があります。この礼拝のあと、順番に新島のお墓に参ってもらい、そのあと、ぐるっと見てもらえるのではないでしょうか。

お墓

  さて、今わたしたちはここに、たくさんの同志社ゆかりの人びとのお墓に、新入生としてお参りに来ている。考えてみるとこれはなかなか面白いことだと思うんですね。
  というのは、君らはいまこれから高校生活をスタートしていこうとしている、言わば「始まり」の時を生きていますね。
  しかしここにあるのはお墓、すなわち人生の「終わり」、人生の「しめくくり」あるいは人生の「完結」を示すものと出会いに来ている。これは不思議というか面白いことです。
  みんなは若く、まだまだ人生のスタート地点に立っている。これから自分の運命をいろいろ自分で切り開き、自分の人生を送ってゆけるチャンスがある。おそらくここにいる多くの諸君のうちのほとんど多くの人が、まだまだ死ぬまでには時間があり、自分の人生その気にさえなれば、どうにでもできそうだ。そういう「始まり」「スタート」の時期だからこそ、時にはみんなには「終わり」「ゴール」から物を考えるということをしてもいいんじゃないかな、と思います。

「終わり」から考える

  「『終わり』から考える」。つまり、自分が死ぬとき、あるいは死んでからあとの事から自分の人生を見てみるということです。
  たとえば、タイムマシンで少しだけ未来に飛んで、自分のお墓の前に誰が来てくれるんだろうか、ということを考えてみたらどうだろうか、と思うんですね。
  誰も訪ねに来てくれないお墓というのは寂しいものですよ。忘れ去られ、花も飾られず、荒れ果てて、しまいには誰の墓かも読めなくなって、犬に小便ひっかけられ、鳥に糞をひっかけられ、通り行く人に蹴飛ばされます。
  人というのは、ある人間をどんな風に見て、どんな風に思っているのかということは、決して本人の前では言いません。ある人の本当の、本音の評価というのは、本人のいないところで下されているものです。
  最終的には、その人が死んだあと、残された人の本音が出ます。
  お金や権力を持っているとか、怒らせたら怖いとか、そういう人に対しては、人は表面ではチヤホヤします。でも、心の中では「早くいなくなってくれないかなー」と思ってるもんです。そして結局そういう人が死んでお墓に入ったとき、そんな人のお墓に来てくれる人はいません。
  死んだあとのことなんか関係ないと言いたくなる人もいるかも知れない。けれども自分の人生が終わったあと、という地点から客観的に見て、本音では誰にも喜ばれていなかった、誰のためにもなっていなかった人生っていうのは、本当は、生きている間も、決して本物の幸せとは程遠いものなんじゃないのかな、と思うのです。やはり、表面的な仲良しゴッコよりも、心から思いやり合い、心から喜びを分け合おうとすることのほうが幸せに決まっています。

一粒の麦

  「終わり」つまり「死」というのは誰にも確実にやって来ます。
  みんなはそれぞれ、どんな終わり方を迎えたいですか?
  みんなには、自分がどのような終わりを迎えたいのか。もうすこし具体的に言うと、どのような人間となり、この世と人のために何をして、どんな風に世を去るのか、それを常に心のどこかで考えながら、大人になっていってほしいです。
  そして「終わり」というのはいつ来るかわかりません。
  明日あなたは死ぬかも知れないし、今日死ぬかも知れない。いつ終わりが来ても悔いの無い生き方をしていますか?
  今日読んだ聖書の箇所には、
「一粒の麦は、落ちて死ななかったら一粒のままだ、しかし死ねば多くの実を結ぶ」と書いてあります。「一粒の麦が死んで」というのは、ちょっとわかりにくいかも知れないけれども、「死んで埋められる」と考えればイメージがわくんじゃないかな。麦というのは米と同じように、一粒一粒が種です。その種は蒔かなかったら一粒の種のままだけれど、蒔かれて埋められると多くの実がなる穂に生まれ変わるでしょう? 新島襄という人は、まさにこの言葉どおりに、自分の人生をあとに続く人たちに実りをもたらすために献げきって死んでいった人です。
  新島襄ほど人のために生き、自分を与えきった人はいません。新島は同志社という学校を通して、自分よりあとに生まれてくる次の時代の人たちのために、自分の全てを出し切って与えた。その新島への感謝し、そして彼の志を継ごうとする人びとが続いてきたからこそ、ぼくも同志社で学べたし、君らも同志社で学ぶことができるわけです。
  そして、そんな新島にお墓のもとには、毎年、創立記念日と新島襄の命日に、たくさんの人がやってきて、感謝の祈りを献げています。

結び

  わたしはみなさんに「死んだあと、自分のお墓の前に人が来てくれるような人になってください」と言いたいです。
  何も新島襄のように、たくさんの人でなくてもいい、たった一人でもいいから自分の小さな墓にやってきて、自分に再会しに来てくれるような、たった一輪でもいいから人に花をそなえてもらえるような人になってほしい、そういう生き方をしていってほしいと思います。
  祈りましょう……。

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