触れて、癒す

2003年10月6日(月)日本バプテスト医療団看護学校・礼拝奨励

説教時間:約8分……パソコンに取り込む、または印刷してからゆっくりお読みください。

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る

聖書:マタイによる福音書 8章1−4節(新共同訳・新約・p.13)

  イエスが山を下りられると、大勢の群集が従った。すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人びとに証明しなさい。」

看護師さんのイメージ

  初めまして。大阪の同志社香里高等学校から来ました富田と言います。
  先週、「看護学校にお話に行ってくるよ」とうちの生徒に言ったら、「うわー、先生オイシーやん! 看護婦さん相手にヤバいでー、そらヤバイわー!」と、何がどうヤバいんかよくわかりませんが、とにかくやたらと興奮しておりました。まぁ高校生にとってはそういうイメージですよね。若くてきれいな看護婦さんでなければ、看護婦ではない! みたいなところがあります。かなり自分勝手というか、歪んでますが。
  「今は看護婦やなくて看護師って言うらしいで」と言うと、「え? 男に話しに行くんですか?」と。「いや、そうじゃなくて、今は女でも男でも看護師って言うんや」と言うと、ポカーンとした顔で「へーぇ」と言うてます。ちゃんと教育しとかなあかんなぁと思いました。
  うちに帰ってからも、今度はわたしの妻に訊いてみました。看護師さんのイメージってどんなんですか、と。
  わたしの妻のイメージは、「医者よりも看護師さんに癒されることのほうが大きい」でした。
  特にうちは、子どもが小さい――うちは子どもが3人いて、みんな幼稚園です。上のお姉さんが6歳になったばかり、妹が双子でして4歳です。3人いっしょに暮らしていると、病原菌もドッジボールでやりとりしているようなもので、いつも誰かが咳をしたり熱を出したりしている。運悪くボールが飛んできたときに免疫が下がってたりなんかすると、すぐこじらせて肺炎になったりします。
  で、医者に連れて行くわけですが、お医者さんというのは子どもにとっては基本的には恐怖の大王です。しかし、看護師さんは、直接痛い注射針を刺すという虐待を加える人であるにも関わらず……というより、きっとそういう痛みを伴う作業を実際に施す人だからかも知れませんが、泣き叫ぶ子どもに触れ、慰め、励まし、支えながら、子どもと一緒に修羅場をくぐってくれる、そして結果的にはいちばんその子を支えてくれる癒し手になってくれているんですね。

手当て:手を当てる

  わたし自身が最近医者にかかった事というと、わたしは学校で山岳部の顧問をしているんですが、今年は靴選びに失敗しまして、会わない靴で一週間南アルプスを縦走した結果、両足のかかとが壊死、両足親指の爪が剥離出血、右ひざのじん帯炎症で痛くて曲がらんという目にあいました。
  山から下り、締め付けられた登山靴から解放されたボロボロの両足を治療してもらう時、いちばんうれしかったのが、自分の足に、じかに手で触れてやさしく取り扱ってもらえたことでした。
  一週間、痛みしか知らなかった足が、初めて柔らかさとか配慮というものに触れた瞬間です。
  しかし考えてみれば危ない仕事ですよね? 初対面でぼくがどんなウィルスを持っているかもわからん人間なわけですから、手で触れて怪我を手当てするというのは危険な仕事だと思います。みなさんは自分たちがずいぶん危ない仕事をしようとしているんだなぁって思っておられるんじゃないでしょうか? どう思います?
  ちょっと前に、ぼくは「ユニバーサル・プリコーション(Universal Pre-caution)」という言葉を聞いたことがあるんですが、あれは今でもそういう言葉で言うんですか? 今は小さな傷の手当てのときでもみんな手袋をするというのが原則なんですよね? ぼくは町のお医者さんでは、手袋で手当てしてもらったことは今までないですけど。
  (会堂から、「どんな小さな傷でも手袋をして手当てしますよ」とお返事)
  ア、やっぱりね。ありがとうございます。

触れて癒す

  もちろん、医療の現場では手袋をつけないといけないというのが大原則なのでしょう。
  いくら「手当て」という言葉は「手を当てる」と書くのだと言っても、それは仕方がないことです。しかし、手がダメなときは、言葉をかけることができ、耳を傾けることもできます。
  大事なことは、「素手で触れなければならない」ということではなくて、「心に触れてもらう」こと。心に触れてもらえると、人は本当に癒されるということです。
  さきほどみなさんで読んだ聖書の箇所には、イエス・キリストが病人に
「手を差し伸べてその人に触れ」た、と書いてあります。(マタイによる福音書8章3節)
  医学が発達していなかった2000年前の大昔でも、イエスは重い病気の人を癒すことができた。それはなぜかというと、彼は、「神の罰だとか」「汚れている」とか言われて、絶対に人が触れようとしなかった病人にも手で触れて、声をかけたからです。誰もふれようとしなかった人に、手を差し伸べて触れた。
  ただ痛みしか経験していなかった。痛みしかなかった。そこに別の経験を持ち込んだ。それだけで充分な癒しだったわけです。
  触る手、見つめる目、話す口、傾ける耳の、どれを使ってもよいから、相手の心に「触れる」ということが、病んだり傷ついたりしている人に、みなさん自身の持っている力を分け与え、癒しを与えることになるのではないかと、わたしは自分の患者としての経験から、そう思います。

祈り

  最後に短くお祈りをさせてください。愛する天の御神さま。
  今朝はバプテスト看護学校のみなさんと共に、礼拝を守ることができました恵みを感謝いたします。
  学生のみなさんが、あなたのお導きのもと、よき使命感をもってこの世で意義のある働きをなされますように。
  順調なときも、逆境のときにも、常にあなたの励ましを信じつつ、全てを恵みと受けとめながら生きてゆく強さを与えてください。
  このつたなき感謝と願いの祈りを、主イエス・キリストの御名によってお献げいたします。
  アーメン。

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール