あなたは神の宝である

2007年8月26日(日) 日本キリスト教団香里ケ丘教会 主日礼拝説教

説教時間:約25分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:申命記7章6〜8節 (新共同訳・旧約)

  あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

攻撃的民族主義の狭間で

  本日お読みしました聖句は、もう泥沼のような自民族中心主義にまみれた申命記第7章、その中でも特に攻撃的、好戦的な、他民族に対する敵意に満ちた言葉が並んでいるなかで、小さく、宝石のように輝いている箇所であります。
  申命記7章1節以降、「七つの民を滅ぼせ」と小見出しが書いてある部分と、次のページ16節以降、「恐れるな」と小見出しが書いてある部分は、同じようなことが書いてあります。
  前半7章1節以降を読みますと、
「あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い、あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない」(申命記7章1−2節)
  
5節には「あなたのなすべきことは、彼らの祭壇を倒し、石柱を砕き、アシェラの像を粉々にし、偶像を火で焼き払うことである」とあります。
  まるで、旧日本軍の三光作戦――「殺し尽くす」「焼き尽くす」「奪い尽くす」を思い起こさせるような恐ろしい記述です。
  後半のほうの
16節はこんな調子です。「あなたの神、主があなたに渡される諸国の民をことごとく滅ぼし、彼らに憐れみをかけてはならない」とあり、下の段の20節には、「あなたの神、主はまた、彼らに恐怖を送り、生き残って隠れている者も滅ぼし尽くされる」とあります。
  ここに顕れているのは、ごりごりの民族主義、むき出しの選民思想です。自分たちだけが神から選ばれた特別な民族であり、他の民族、他の宗教に属する者で、自分たちの邪魔をする者は、ことごとく滅ぼしていいのだ、という考え方がここにはっきりと顕れています。
  そのような文脈にかこまれているなかで、本日のテキストとしました申命記7章6節〜8節は、「われに返ったように」というか、すこし異色なことが書いてある箇所です。もう一度読んでみます。
  
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出したのである」(申命記7章6−8節)
  6節の
「宝の民」といわれている「宝」は、文字通り金銀財宝という意味です。また、7節の「主が心引かれて」という言葉は、恋愛感情のような激しい欲情をもって、というニュアンスを含んでいます。神はこの民に惚れ込んでいるので、この民が金銀財宝のように見えるのだというわけです。
  なぜ神がこの民にそんなに惚れ込んでいるのか。「それは、あなたがどの民よりも貧弱だったからだ」と言うわけです。
  ここで私たちは、この言葉の前後にある傲慢な選民思想の異様な盛り上がりの狭間で、そのような自己中心的な熱狂にほてった顔にぴしゃっと冷や水をあびせるような言葉に直面するわけです。
  これは、「神が私たちに格別に目をかけてくださったのは、私たちがもっとも貧弱な存在だったからではないのか」と人々に思い起こさせるための言葉です。私たちは、世のさまざまな勢力の中で、最も貧弱な存在こそが、神に選ばれ、召され、用いられるのだ、ということを忘れてはならないのです。

マイノリティとしてのクリスチャン

  このような御言葉にあたり、私が思い起こすのは、どうしても日本におけるクリスチャンが置かれている状況のことになります。
  日本でキリスト教の宣教が解禁されてから、100年以上がたちました。にもかかわらず、この国でのクリスチャンの人口は1パーセントにも満たないままにとどまっています。まさに「どの民よりも貧弱」な民です。
  私は、日本におけるクリスチャンは、一種の少数民族のようなもののように感じることがよくあります。独自の神話や歴史を(聖書のことですが)代々語り伝え、独特の歌、独特の美術、独特の建築といった固有の文化を持ち、独特の倫理観のもとで独自のライフスタイルで生きています。そしてそれらは、周りの日本的な文化と少しずれているために、クリスチャンたちは周囲に合わせて調整をしたり、あるいは「私はクリスチャンです」と言えずにいたりします。また、あるいは、毅然として自分は世の習いにはなじまない者である、という態度を表明する方もおられるでしょう。
  それは、黒人と白人のように目に見えるような違いではありませんが、被差別部落民や在日韓国・朝鮮人と同じように、見た目に違いはないけれど、日本社会に完全に溶け込むというわけにもいかないという意味で、私は「クリスチャンは日本における少数民族である」という感覚をずっと持っています。
  日本において圧倒的なマイノリティである、ということに危機感を感じて、なんとか信者数を獲得しようとしている教会があります。しかし残念ながら、いま信者を獲得するために必死になっているのは、原理主義的な右派の教会がほとんどです。牧師のカリスマ性に依存し、マインド・コントロールのような方法を使い、物事の善悪をはっきりすぎるほど割り切り、人を裁かせ、自分をも裁かせ、罪に対する罰をちらつかせながら、逃げられないように脅しをかけて、人を洗脳してゆきます。残念ながら、不思議なことですが、いま教勢が伸びているのは、こういう教会です。
  しかし私は、こういう邪悪な歪んだ方法で信徒をたくさん集めても、それは永続的なものにはならないのではないかと思います。「あなたは自分でも気づかないうちに自分でも知らないような罪を犯しているかも知れない」と脅されて毎日が不安でいっぱいになってしまったり、「この世的なものには近づいて穢れないようにしなさい」という教えを真に受けるあまりに、社会不適応な状態に陥ってしまったり、といったマインド・コントロールの悪い影響によって、次第に信徒は疲弊してゆきます。
  また、明るく楽しい音楽や語らいに打ち興じて、新しい出会いを求めて集まった若者たちも、次第に自分の成長に従って、そのような出会いの場所である教会を卒業してゆきます。「伝道、伝道」と言いながら強引な方法をとっている教会が永続的に人の魂を養う場となっていくかどうかは、かなり疑わしいと私は思っています。
  こういう教会に比べると、私たちのような教会は、一見伝道熱心でないかのように見えます。もちろん、たくさん人が来てくれればうれしいには違いありません。しかし、一時的な盛り上がりに一喜一憂するよりも、長い目で見ながら、一人、また一人と導かれてゆくほうが、自然ですし、そのほうが息の長い伝道になるのではないかと思います。
  急激にたくさん人数が集まらなくてもいいのではないでしょうか。派手さや盛り上がりに欠けていたとしても、一人一人がお互いに「あなたは神さまに愛されていますよ」、そして「私もあなたを愛していますよ」と、心から伝え合うことさえできれば、そこは神の国になっていくのではないでしょうか。

自己目的化した教会

  私たちは確かに、日本における圧倒的マイノリティです。
  しかし、この日本で、もっとも貧弱な少数民族であるからこそ、神さまは私たちを慈しんでくださり、選んで用いてくださるのではないかと思います。
  マイノリティであるという自覚に立つことこそ、イエスが隣人になろうとされた、世の中で小さく弱くされた者たちの視点でものを見ることができるのであって、もしこれが社会の大勢を占めるような多数派になってしまったら、イエスに従い、神さまにしたがうということはできなくなってしまうでしょう。
  組織というものは、あまりに大きくなりますと、その組織自体を維持したり拡大したりすることにエネルギーを注ぐようになり、本来の当初の目的を見失うということがありがちです。極端なことを言うようですが、これが教会の場合、神さまの呼びかけに直接応えるということよりも、教会の維持・拡張のほうが重要視されるようになり、教会の維持・拡張こそが神が我々に託された仕事なのであり、そのような教会の働きの中にこそ真理があるのだという具合に、論理のすり替えをやるところまでいってしまうのであります。
  日本キリスト教団という、世の中から見れば小さな社会であったとしても、すでにそうです。世界の人口から見ても、日本の人口から見ても、キリスト教界全体から見ても、ごくごく一部の人間によってでしか占められていない、日本キリスト教団という小さな集団においてさえも、全国組織で地方ごとに総会を行えるほどの組織になると、もう教会の自己目的化が蔓延してしまっています。
  
ヨハネによる福音書3章「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこに行くかを知らない」(8節)と記されてありますように、神の聖霊の働きは、常に自由で、どこから来て、どのような方向に人を導くかは、人間の想像や予測を超えたできごとです。
  しかし、自己目的化してしまった教会は、教会の定めた(ということはつまり人間が定めた)規則や信条など、堅く固定されたものを基準にして、正しいか正しくないかを判断しようとします。そして、一人一人のクリスチャンが思い思いに神さまと出会い、自分らしい自由な信仰の告白をすることを許さず、一致した客観的な基準だけを絶対化しようとします。なぜなら、一人一人の信仰者が、それぞれ自由に神と出会い、それぞれ自由に自分の信仰を自分らしいやり方で告白し表明しようとすると、教会の組織の統一性が崩れ、支配力が弱まるからです。
  すべての信徒の信仰告白を、法律のようなもので統一し、一致させるということに喜びを感じているような牧師の集団が日本キリスト教団の中にもおおぜいいますが、そういう目に見えるものの確実さにより頼んでしまいますと、教会組織は次第に硬直化し、神の霊の自由でダイナミックな動きに取り残されていきます。そして、結果としては、教会の中では権威や伝統の重みを感じることはできるけれども、今も活き活きと生きている神さまご自身の導きによって、常に新しい人生のステージや課題にチャレンジさせてもらえる、という喜びを感じることができなくなっていくのであります。

なぜ私なのですか

  繰り返しになりますが、神の聖霊の働きは、自由自在な風のようで、人間の計画や予想を超えています。
  人間的な目で見て、強いから、才能にあふれているから、力があるから、神がその人をご自分の御用に用いられる、とは限りません。
  パウロが
コリントの信徒への手紙(一)1章26節以降で、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけでもなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それはだれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」(26〜29節)と記していますように、神は意外な人をご自分の仕事を実行させるために、用いられます。
  「なぜ私なのですか?」と、その人が自分で驚くような人を神は選ばれます。たとえば、旧約聖書に記されたモーセは、殺人犯であったのにもかかわらず、神に愛され、神の御用のために選ばれました。また、パウロもキリスト教に対する弾圧者であったにもかかわらず、神は彼を用いられました。
  「なぜ私のような人間が、あなたの御用をなすことができるのでしょうか。他にもっと優秀な方やふさわしい方がたくさんおられるはずでしょうに」と言うのが、神に呼ばれた人の正直な感想です。
  なぜそのような人を、神は選んでご自分の民にされるのか。それは、その人が、あるいはそのような人びとの集まりが、世間的に見て、決して強くない、むしろ最も弱々しい存在だからです。そして、どんな過去を引きずっていようとも、どんなスキャンダルがあろうとも、否、そのような問題だらけの人間だからこそ、神は特に目をかけ、惚れ込み、そのような人を選んで用いるわけです。
  私たちは、目に見える強さ、多さ、大きさに惑わされることなく、弱く、少なく、小さい存在だからこそ愛してくださる神さまを信じ、「あなたがたは私の宝の民なのだ」と言ってくださる神の言葉を信じ、自ら弱く小さな存在としてこの世での生活を生き抜いたイエスのあとにつづいて生きる者でありたいものです。
  祈りましょう。

祈り

  愛する天の神さま。
  私たちをここに呼び集めてくださり、心から感謝いたします。
  私たちはこの日本で、世界で、砂浜の中の一粒の砂にも満たないような小さな集まりです。
  しかし、その小さく弱い集まりであるからこそ、イエスが担われた仕事を受け継いで、この世においてあなたへの信仰を証することができますように、どうかお導きください。
  イエス・キリストの御名により、お聴きください。
  アーメン。

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