角あるも可、奇骨あるも可

2009年6月5日(金)同志社香里中学校・高等学校 早天祈祷礼拝奨励

説教時間:約12分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:コリントの信徒への手紙一 12章14〜20節(新共同訳)

  体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです、すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。

使命を喜ばない人たち

 いま高3の聖書科の授業を担当しています。
 先日授業で、「あなたの子どもがもし特別な使命を与えられているとしたら、あなたはうれしいですか? うれしくないですか? あるいは他にどんなことを考えますか? 自由に論述してください」という課題を出しました。
 なぜこんな課題を出したのかというと、授業でイエス・キリストの誕生の場面をやっていて、イエスの母マリアとヨセフが、自分たちの子どもが特別な神の子だというお告げを受けるという聖書の物語を読んだからです。マリアとヨセフにとっては、イエスは特別な子どもです。ですから、「あなたがもしマリアやヨセフの立場だったら、どう感じますか?」と聞いてみたわけです。もちろん、その答として我が子の人生を論じることで、結局は自分自身が理想とする価値観が現れるということも計算の上で、こういう課題を出しています。
 この課題に対して、ほとんどの生徒が、「自分の子どもが使命を与えられるのは、うれしくない」という答を書いていました。案の定、「自分の人生であってもそうだが」と書いている人も何人かいました。
 私は軽いショックを受けました。なぜなら、ほとんどの人が、「使命を与えられるということは、重荷を負うことになるからかわいそうだ」とか、「使命があるということは自由でなくなるから」とか、「使命を持つということは、必ず苦労をするから」とか、「自分の子どもには好きなことをしてのびのびと生きてほしい」とか、そういった意見が大多数をしめていました。要するに自分自身が何の役割も与えられず、好きなことをしてのんびり過ごしてゆきたい、ということなのでしょうね。
 でも重荷を負わない、苦労しない、好きなことだけしてのんびりしていたい。これを一言でまとめると、「無責任」というものではないでしょうか。

ふつうとは何か

 実はもっとショックだったことがあります。実は本当に一番多かった意見が他にあるのです。それは、「特別な使命を持つと、普通でなくなって、人からいじめられたり、反対をされたりするからかわいそう」という理由です。
 「普通」とは何でしょうか? 「普通」というのはどこからどこまでを言うのでしょうか? それは単にその場で多数派だというだけのことではないでしょうか。「普通」という言葉を、つい私たちは使ってしまいますが、それは無意識のうちに少数派の人を排除することになってしまっているということに気づかないといけないのではないでしょうか。
 「普通」が一番だという価値観が広まってしまうと、個性の強い人や、独創的な意見を持つ人、ユニークな目標を持っている人などが、「変な奴」というレッテルを貼られて、孤立させられてしまいます。それは差別やいじめの原因になります。
 「普通」でなくなるといじめられる。だから「普通でない」人にならないように、お互いに監視しながら「普通」の振りをして生きてゆく。そんな「普通」という言葉でしばられた場所が、自由の学園と言えるでしょうか。同志社の自由って、そんなものなんでしょうか?
 たとえば私は、宗教部の仕事をしています。「讃美歌を歌いましょう」としょっちゅう言っています。でも、歌わない人はたくさんいます。歌わないからといって処分されるわけでもないし、成績にも関係ありません。そして、もちろん歌わないという権利もあると思います。
 しかし、私がいちばんよくないと思うのは、歌わない理由です。「みんなが歌ってないから自分も歌わない」「自分だけじゃない」。これはもう最低の理由です。「みんな」という不特定多数の中に埋もれて隠れることで自分の行動を正当化する。これもまたひとつの「無責任」であろうと思います。

ヒドゥン・カリキュラム

 私は中1の授業も担当しています。中1では新島襄の生涯と思想をやります。それは、そのまま同志社の精神を知ることになるわけです。
 そういう授業をやりながら、もしも若き日の新島襄、つまり新島七五三太(しめた)が今の同志社香里に同級生として存在していたら、みんなでいじめてしまうんとちゃうかと思ったりします。
 しかし、結局3年間ないし6年間この学校で学んできて、そういう思考法を身につけたということは、どんなに「個性が大事だ」とか、「同志社は自由の学園だ」と口では言っていても、本音の部分ではそういう型にはまったいい子ちゃんの振りをして生きていくのが上手な生き方なんだよということを、この学校の教師集団が無意識のうちに生徒たちに伝えているのかも知れません。だから、本当に反省しなければならないのは、私も含めて教師なのかもしれないなとは思います。
 教育の分野では「ヒドゥン・カリキュラム」という言葉があります。直訳すれば「隠れたカリキュラム」「隠されたカリキュラム」、つまり教師が生徒に対して望んでいる、言葉には表現されない本音のこと。あるいは、教師自身も自分で気づいていないけれど、生徒に求めてしまっているもののことを、ヒドゥン・カリキュラムといいます。
 そのヒドゥン・カリキュラムによって私たちが生徒のみなさんに、「普通にしろ」、「普通の中学生らしく」「普通の高校生らしく」と、型にはまったいい子であることを要求しているならば、それはもう同志社ではないんじゃないかと思います。

角あるも可、奇骨あるも可

 4月の入学シーズンに、新島襄の言葉を教頭先生に掲示板に貼っていただきました。新しくこの学校の門をくぐって入学する人たちに向けた言葉にふさわしいように思ったからです。それはこんな言葉です。
 
「我が校の門をくぐりたる者は、政治家になるもよし、宗教家になるもよし、実業家になるもよし、教育者になるもよし、文学者になるもよし、かつ少々角あるも可、奇骨あるも可、ただかの優柔不断にして安逸をむさぼり、いやしくも姑息の計を為すがごとき軟骨漢には決してならぬこと、これ予の切に望み、ひとえに願うところである」
 今風の言葉に直します。……「少々角があってもいい、風変わりで個性が強くてもいい、ただはっきりとした意志もなく楽をすることばかり考え、その場しのぎのことばかり考えているような信念のない人間には決してならないこと、これが私の強く願うことである」。
 同志社を作った彼が、今の同志社香里の姿を見たら、どう思うでしょうか。
 同志社という学校は、変わってる人や、個性が強い人がうようよいて、それぞれ独自の夢をもって、それに向かって突き進んでいる。そして、互いの個性が違っていることを面白がっている。私の思い描く同志社らしさはそのようなものです。みなさんの描く同志社らしさとは、どのようなものでしょうか。
 祈ります。

祈り

 愛する天の神さま。
 私たちにそれぞれ違う個性や性格や目標をお与えくださり、ありがとうございます。
 私たちが互いの存在を尊重しあい、自由に自分らしさを表現して生きることができますように、その勇気を与えてください。
 イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。

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