ふたご

2002年9月22日(日)日本キリスト教団宇治教会・主日礼拝説教
2002年9月29日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・主日礼拝説教(改訂版)

説教時間:約30分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:ヨハネによる福音書 20章24−29節(新共同訳・新約・p.210)

  十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて、八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

ふたご

  ご存知のとおり、うちには子どもが3人おり、そのうち下の2人は双子であります。
  双子を育てる感覚というのは不思議なもので、人様は「そっくり、そっくり」とおっしゃるのですが、親から見るとそんなに似ているとは思いません。二人の顔はぜんぜん違って見えます。
  双子の子育ての本など読んでいると、「二人でワンセットと考えるのではなく、一人一人別個の人格を持った人間として接しましょう」などと書いてありますが、それは実感として理解できます。
  しかし、かと言って、年齢の違う姉妹・兄弟と同じように別人格だというと、そういうわけでもありません。
  たとえば、一人が階段をころげ落ちて泣いた。「おーよしよし、大丈夫か」となだめて、泣きやんで、ほっとして目を放すと間もなく、今度は同じ場所でもう一人の泣き声が聞こえる、とか。
  あるいは、片方は社交的で、友達でも誰でも物おじせずに日本語になっていようがいまいが話しかけたり遊んだりする、もう片方は恥ずかしがりでいつも親の後ろに隠れている、といった具合に二人の性格はまるで違うのに、これがある日突然入れ替わっている。そして、2−3ヶ月すると、また元に戻っていたりする。
  単に親が見間違えてるだけちゃうか、と言われたりするのですが、二人の顔は親から見ればぜんぜん違いますので、間違えるということはありません。小さいうちは、本当に2−3ヶ月で双子の性格が入れ替わることがあるそうであります。
  そういうわけで、双子を育てていて感じるのは、個々人としての本人たちは確かに別の人格として存在しているのですが、さらに二人の「間」には「何か」がある、という不思議なつながりの感覚。それが、いちばん面白いような気がいたします。

聖書における「ふたご」

  さて、聖書の中に登場する双子と言えば、まず最初に登場するのは、旧約聖書・創世記25章に登場するエサウとヤコブの兄弟であります。
  アブラハムの子、イサク。そのイサクの子どもたちは、双子の男の子でした。このときは、イサクとリベカの夫婦に子どもができなかったので、イサクが主に祈ったところ、主の不思議な力により身ごもったのが、このエサウとヤコブという二人の子であったと記されています。
  次に、登場するのは創世記38章、さきほどのヤコブの12人の息子――イスラエルの12部族の先祖ですが――その一人に、ユダというのがおりまして、これが、まさか相手が自分の息子の妻だとは知らずに、関係を持ってしまうという場面があります。この息子の妻の名前をタマルと言いますが、このユダとタマルの不義の関係から生まれた子どもがペレツとゼラという双子だったということになっています。
  エサウとヤコブの場合は、神の不思議な力の顕れとして。ペレツとゼラの場合は、不義の関係の結果として。いずれにしても尋常な状態での出産・誕生ではなかったという描かれ方をされているという点が、特徴であります。

「ふたご」のトマス

  さて、新約聖書で双子と言えば、今日、お読みしました聖書の箇所に登場するトマスでしょう。
  トマスの名前は、もとのヘブライ語では「タウォーム」といい、「双子」という意味です。
  そこで、ヨハネによる福音書は、これをおそらくギリシア語圏の人々に説明するために、「ディディモと呼ばれるトマス」(ヨハネによる福音書20章24節)と説明しているのですが、「ディディモ」と書いてあるのは、ギリシア語の「ディデュモス」で、「双子」という意味です。
  つまり、「双子」という呼び名の人が、イエスの弟子の中にいたんだよ、という意味で、そういう書き方をしているのですね。
  この「トマス」、つまり彼ら弟子たちの間で使われていたヘブライ語で「タウォーム」というのが、本名であったというのは、考えにくいと思います。
  たとえば、「ペトロ」というのは「岩」という意味ですが、これも、もともとヘブライ語で「ケファ」、つまり「岩」というのが、シモンのニックネームであったので、それをギリシア語になおして「ペトロ」と言ったのと同じように、「トマス」/「タオゥーム」つまり「双子」というのも、ニックネームだったのでしょう。
  岩石親父のような顔の漁師だったシモンを「岩」と呼んだのと同じように、「おい、双子」と――単数形なので、おそらく「双子のかたわれ」と、そう呼ばれていた人物がいたわけであります。
  なぜ、彼が「双子のかたわれ」と呼ばれていたのか、その理由は聖書を読んでいるかぎりでは、何も書かれていないので、わからないのですが、おそらく実際に、彼が双子のうちの一人だったのでしょう。

受難の双子

  双子というのは、古代においては、恐怖または畏怖の対象でありました。さきほども旧約聖書において双子の誕生は尋常な事件ではないように描かれていると申しましたが、聖書の世界のみならず、世界のあちこちで、あるいは日本でも、双子というのはどこか神がかった異常な、超自然的な現象であるとして、気味悪がられてきました。
  双子が生まれると、よいことが起こるしるし、と取る民族もあったようですが、多くの民族は、何か不吉なことが起こる前兆として恐れ、双子の片方を殺したり、二人とも殺したり、あるいは、母親まで追放したり、殺したりする掟を持っているところもあったそうであります。
  その背景には、子どもを同時に何匹も産むなど、獣みたいで汚らわしいという偏見もありましたし、また医学的知識も無かったわけですから、子どもの父親がそれぞれ違うのではないか、つまり母親が不貞を犯したのではないかという見方をされたりする、といったことがありました。
  また、実際問題として、乳児を二人以上いっぺんに育てるほどの経済力を持つことが難しい、貧しい時代や社会においては、どちらか弱い方を、あるいは男の子と女の子との双子だった場合には女の子を、「間引き」するということも往々にしてありえました。(レーネ・ルノウ著/加藤則子監修・福井信子訳『ふたごの妊娠・出産・育児』ビネバル出版、1991、p.17−20参照)
  実はそういうことも、私のところの夫婦に双子ができて初めて知ったのですが、双子の子育てのフォーラムや、研究会、メーリングリストなどを通じて、双子の歴史などを教わったりなどもするわけです。
  そういう歴史を読みながら、二人でしみじみ、遊んだりけんかしたりしている双子の我が子を見ながら(そして一杯やりながら)――若干、片方が体が細く、体重も軽いのですが――「世が世なら、一人は生きてはいなかったのかも知れないねー」などとため息をついたことも実はあります。

一人の犠牲の上に

  さて、イエスの12弟子たちの面々を並べて見てみると、実はそのうち3組が、兄弟でイエスのもとに入門しております。
  まず、シモン=ペトロとアンデレの兄弟。次に、シモンたちと同じ漁師で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟。二人とも「ボアネルゲス」というニックネームがついています。そして、アルファイの子ヤコブとタダイの兄弟。
  12人のうち半分の6人までが、兄弟そろってイエスのもとに入門しているのに、どうして「双子」と呼ばれたトマスだけが独りぼっちなのだろうか……。
  もちろんそれは単なる偶然なのかもしれません。しかし――ここからはあくまで推測ですが――この時代のことを考えると、双子が双子のままに揃って生き長らえる可能性は限りなく低いわけで、トマスの双子の兄弟は、生まれて間もなくトマスとは引き離され、ひょっとしたら既にこの世にいないのではないか、とも考えられるのであり、もしそうだとすれば、トマスが生きているその命は、双子のもう一人が間引きされてこの世にいない、その犠牲の上に成り立っていることになります。
  そのトマスに、みんなが「おい、双子のかたわれ」と呼び習わしていたわけで、まぁそういう呼ばれ方は日常茶飯事のことですから慣れてしまっていたとはいえ、時おりはトマスも自分の代わりに命を絶たれたもう一人の兄弟あるいは姉妹のことを思い浮かべることもあったでしょう。
  そして、双子として生まれたということは、生き残ったトマス自身も、幼いころから気味悪がられ、差別される人生を送っていたわけで、そのことが彼の心に暗い影を落としていたことも考えられます。
  それに、他の弟子たちにはおそらく意図的な悪意はなかったでしょうけれども、それでも「双子」「双子」と差別用語を渾名にされて呼ばれつづけることは、本人にとって愉快だったはずがありません。
  そういったさまざまな要因が、彼が弟子集団の人間関係の中でも少し浮いた存在のように感じられることともつながってきます。
  本日お読みしました聖書の箇所でも、復活のイエスが弟子たちの隠れていた家に現れた時に、トマスだけは
「一緒にいなかった」(ヨハネによる福音書20章24節)と伝えられているのであります。

トマスは疑い惑っているか

  トマスは、前まえから「疑い惑うトマス」などと言われ、讃美歌(『讃美歌21』の197番)にもそのように歌われて、信仰の弱い人間、見ないと信じない疑い深い人間、というマイナスの面を代表する人物のように扱われてきました。
  しかし私は、彼が背負ってきた人生の暗さ、それによる心の屈折を想像すると、彼を単純に「不信仰な人間」だと裁く気にはなれません。
  弟子たちが死んだはずのイエスを見たとき、トマスはたまたま席を外していただけなのです。しかし、彼が帰ってきたとき、他の弟子たちがみんなで揃って、
  「おまえが留守をしている間に、十字架で亡くなられたあのイエス様が、私たちの前に来られたよ」
  と彼に話したら、彼はどう思うでしょうか。
  彼は、またいつものように、弟子集団の中で常日頃抱かされている疎外感を、この日も改めて味わったのではないでしょうか。
  まして、一番弟子のシモン=ペトロは、
「私はあなたのためなら命を捨てます」(ヨハネによる福音書13章37節)とイエスの前で堂々と宣言しておきながら、いざイエスが逮捕されると、3度もイエスを「知らない」と言い、十字架につけられて悶え苦しみ、息絶えたイエスを見棄て、しゃあしゃあとここまで逃げのびてきている。そして他のユダヤ人たちに見つからないように、この隠れ家で息をひそめている。
  お互い逃げてきた者どうし、同じ後ろめたさを持っていてしかるべき男が、今、目の前で、「トマス、実は主は生きておられるのだ。ホントなんだよ」などと話している……。「こんなヤツの言うことを信用するもんか」とトマスが心を閉じるのも当たり前ではないでしょうか。
  
「わたしたちは主を見たのだ」と口々に言っている他の弟子たちを冷ややかに見つめながら、たった一人取り残されたトマスは「おまえたちはそう言うが、俺は、あの方の手に釘の跡を見て、この指を釘の跡に入れてみないと信じない。この手を穴の開いたわき腹に入れてみなければ、決して信じないぞ」(ヨハネによる福音書20章25節)と言う。
  そんなトマスの心理は、単に不信仰と片付けるわけにはいかないような気が、私にはいたします。

一人の身代わりの上に

  加えて、トマスにとっては、イエスの死という出来事が、以前から彼の心の中に潜んでいたもうひとつの影と重なり合って、大きな重荷となっていた可能性が高い。
  彼らは、「いっしょに死にましょう」「あなたのためなら命も惜しくありません」と宣言したはずの大切な先生を、土壇場で自分の命が惜しくなり、見棄てて逃げてきました。
  イエスがエルサレムで死を覚悟しながら活動していたのは明らかで、本来ならば、自分はイエスといっしょに死ぬはずだった。しかし、自分はここに生きていて、イエスだけが捕えられて殺されてしまった。
  自分が生きるために、イエスを見殺しにした……。
  この感覚は、彼のこれまでの人生そのものと響き合うものがありました。彼自身が双子のかたわれとして、自分の兄弟が殺されたおかげでこの世に生きているという現実があったからです。
  「イエスが自分の代わりに死に、自分はここに生きている」という事実は、彼の心のいちばん深い部分で彼を苦しめつづけている真実と重なり合う。だからこそ、トマスは
  「俺は信じない」
  と言ったのではないでしょうか。
  もう心の片隅ではわかっているのです。イエスの死が自分にとってどういう意味があるのか。
  しかし人間には、自分にとっていちばん大きな、本質的な真実を、真実だからこそ、なかなか認めてしまうことができない、というときがあります。
  トマスが「俺は信じない」と言う。それは、彼自身「なぜここに自分が生きているのか」という存在の本質に触れることから逃げようとする、一種の抵抗であったように、私には感じられます。
  しかし、意識は拒否しようとしていますが、彼の心は深いところでは、もうわかっているのです。
  ですから、8日後に再びイエスが現れた時、イエスは「わたしの手に指を当ててみなさい。わたしのわき腹に手を入れてみなさい」と告げましたが、トマスはそんなことをしなくても、即座に、イエスを
「わたしの主、わたしの神よ」と告白する事ができたのであります。(ヨハネによる福音書20章27−28節)

「イエスの双子」トマス

  新約聖書に収められなかった初期のキリスト教会の文書で、「トマスによる福音書」や「トマス言行録(トマス行伝)」といった本があります。これらの書物は、双子のトマスは「イエスの双子の兄弟トマス」であると主張しています。
  ずいぶん大胆な想像だと自分でも思いますが、私は、トマス自身が「私はイエスの双子だ」と名乗ったとしても、そう不思議ではないことのように思います。
  双子の兄弟の死によってトマスの心にかかっていた暗い影は、イエスの死によって新しい意味を与えられました。
  「わたしがここに生きている、その背後には誰かの死がある」ということ。それを気に病み、停滞したままでいるのではなく、
  「そうして誰かが死んでくれたからこそ、私は生かされているのだ」
  と現実を前向きに、しかし厳粛に受けとめなおし、再出発する道を、イエスは示してくれました。
  トマスにとって、それが復活のイエスによる「赦し」でありました。

誰かの犠牲のうえに

  自分が生きるために、イエスを見殺しにする。
  その事と同じように、わたしたちも、自分ではない誰かが、自分の代わりに死んでいる、殺されている、自分が生きるために、自分ではない誰かがどこかで暴力と貧困の犠牲にならざるをえない、そんな社会の現実を変えることもできず、その現実を黙殺して生きています。
  そして「私たちは常に誰かの犠牲の上に生きている。しかし、そうするしかないんだ。生きるとはそういうものだ」と、どこかで開き直って生きているところがあります。
  そしてイエス・キリストによる「赦し」というものを、「そんな自分でもいいのだ。許されているのだ」と居直るための道具として勝手に利用しているのではないでしょうか。
  「赦し」というのは、そういうものではありません。
  「赦し」とは、私たちの罪深い現実を直視した上で、それでも「罰せられたり責められたりすることはもうないのだから、勇気をもって、希望をもって、そこから一歩踏み出しなさい」という呼びかけ。すなわち、再出発への促しなのであります。
  罪をしっかりと自覚した上で赦された者は、自分のエゴイスティックな現実から目をそらすことは無い。そのような自分でよしともしない。少しづつでも、自分の人生のありかたを、変えてゆく。すなわち「悔い改め」に向かってゆくのです。
  それを、自らの人生を通して実感として理解し、そして自らを変えてイエスの双子の兄弟として歩んでいったのが、トマスなのであります。
トマスのあとに続いて、わたしたちも変えられてゆきたいものであります。
  ……祈りましょう。

祈り

  愛する天の御神様。
  今日ここに、あなたによって招かれ、備えられた礼拝に集い、あなたとの出会いなおしの機会が与えられましたこの恵みを、心から感謝いたします。
  あなたからいただいたこの命が、あなたの愛によって生かされていることを常に思い起こさせてください。
  願わくば、私たちがそれぞれ自分に与えられた命を、他者から奪うためでも、他者を利用するためでもなく、お互いのために用いて与え合う喜び多い人生を送ることができますように。
  愛する主イエス・キリストの御名によって祈ります。
  アーメン。

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