平和を告げる意外な知らせ

2002年12月24日(火)日本キリスト教団香里ケ丘教会・クリスマス燭火礼拝説教

説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:
ルカによる福音書2章8−14節(新共同訳・新約・p.103)

  その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった、この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
 「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」

光につつまれた高らかな歌声

  「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」と、ルカによる福音書2章8節には記されています。
  寒い寒い夜、話す言葉も少なく、焚き火の前に、吐く息で手を温めながら、静寂のなか、夜を徹して羊の番をしている羊飼いたち。
  そこへ突然、天使がやってきて、羊飼いたちの周りをあふれる神の光で明るく照らし出し、「あなたがたのために救い主がお生まれになった。これは民全体に与えられる大きな喜びですよ」と告げる。そしてさらに、この天使に天の大軍が加わり、
  「いと高き神に栄光を! 地には、御心に適う人に平安を!」と、高らかに歌う。
  そして、やがてその光と歌声は、天に去ってゆき、再びそこには静寂と暗闇と寒さが戻ってくる……。
  「いったい、今のは何だったんだ?」
  そう羊飼いたちは思ったことでしょう。

夜の羊飼い

  野宿をしながら羊を飼うというのは楽な暮らしではありません。
  もともと、ほとんどが砂漠地帯が多いユダヤ地方では昼と夜の温度差が激しいそうですが、とくに今ごろの時期、夜の寒さは大変なもので、先週末からエルサレムでも、北部地方は雪が積もるという予報が出されていましたし、時速100キロの暴風が吹き荒れる可能性もあるということで、イスラエル政府も市民に警戒を呼びかけていました。
  そういう寒さのなか、野宿しながら毎日を暮らしてゆくというのがどういう状況か、みなさんは想像できますでしょうか?
  もちろんそんなことを言っている私も、はっきりと想像できるわけではありません。ただ、私は野宿しながら羊を飼ったことはありませんが、雪山で吹雪の中テントで夜を過ごすという経験は、何度かしております。
  雪山では、テントの中で寝袋にくるまって、何人かで詰めて寝ているぶんには、けっこう温かいものでして、たとえ外が氷点下であっても、なんとか眠れるものであります。しかし吹雪の夜は、へたに外を放っておきますと、テントの外側に雪が積もってきて、それが明け方には凍りつき、「おはよう」と朝起きたら、テントに閉じ込められて出られない、なんてこともありますので、時々は夜中に起きて、雪を払いに出なければならないこともあります。
  そんな時、眠たいなー、面倒臭いなーと思いながらも、ふと考える。羊飼いというのは生き物相手の仕事です。しかも厩舎のなかで家畜を飼っているわけではありませんから、吹雪でテントに入っていたいときでも、時々は様子を見に出たでしょう。それも大変だなーと思うわけです。
  しかし、風のない、天気のよい夜は最高です。山の上は空気がきれいですから、下界よりも星がきれいに、そして近くに見えます。
  夜中に急にトイレに行きたくなり、ごそごそとテントを抜け出します。見上げると満天の星空……。
  2000年前のユダヤ地方の夜空はどんなだったでしょうか。今のような大気汚染は全くありませんし、電灯やネオンの光もありません。羊飼いたちの焚き火以外は、まったく光のない暗闇。それこそ日本の山の上よりも、はるかに美しく、明るく、黒い丸天井に光る砂をばらまいたような、星明りという言葉が文字どおり実感できるような、そんな星空だったことでしょう。
  広い広い荒れ野、暖をとるための焚き火以外には、音も光も発するものなく、静寂と沈黙と身も凍る寒さの中、彼らは、ただ自分たちだけがこの世にいるような孤立感を感じていたのかも知れません。
  いやむしろ、人間社会よりも星のほうが身近に感じられるほど、たくさんの星たちがにぎやかに高らかに天の歌声を合唱しているように見えたかもしれません。

意外な知らせ

  羊飼いの集団は、じっさい当時のユダヤ人の社会においては孤立した存在だったようです。
  ユダヤ人の生活は、ユダヤ教の「律法」と呼ばれる戒律によって、こと細かに様式が定められています。特に厳しいというか、誰でも守って当たり前の決まりが「安息日」の規定です。これは、いっさいの労働をやめて礼拝を献げるという規則で、今でもイスラエルでは、土曜日には観光場所もお店もみんな閉まってしまうほど基本的な決まりです。しかし、羊飼いは生き物を世話する商売ですから、安息日だからといって労働をしないということは考えられません。したがって安息日の律法を守れない。
  エルサレムの都会の律法学者から見れば、律法を守れない人間は罪人です。だから羊飼いは神の掟を守らない罪人。あるいは、掟を守れないような職業の家族にうまれついた、惨めな人間として蔑まれたのであります。
  また宗教的な理由だけでなくても、たとえば、この地方には雨季と乾季があり、乾季には羊たちに食べさせる草が足りなくなります。草地や水場を求めて移動してゆくと、どうしても農業を行っている地域に接近してしまうわけで、そこで羊が農家の畑を食い荒らしてしまったりという事件が起こることもあります。そこで、羊飼いたちには「どこからともなくやってきて畑を荒らしてゆく略奪者」というレッテルが貼られていたのでした。さらには、農耕民は畑や作物を守るためという名目で自警団を組み、遊牧民が近づくと捕まえて殺そうとすることもありました。
  そんなわけで、羊飼いたちというのは、「神の掟に反して生きざるをえない哀れな集団。しかも略奪者集団である」という偏見にさらされ、そして不用意に一人で町や村に近づくと殺される危険性もあるという、被差別者集団だったのであります。
  そういう、社会から見下され、見放され、寒い夜に焚き火ひとつで、野宿の越冬をするマイノリティの人びとのところに、まず真っ先に「救い主が生まれた。メシアが生まれた」という知らせが届いたという、この物語が示す意味は、一体なんでしょうか。

第一の意外性:信仰によって捨てられた者たちに

  羊飼いらに知らされた天使たちの知らせは、二つの意味で意外な知らせであります。
  まず、この羊飼いたちは、メシアなんて待ってはいなかったであろうということです。
  メシアを待っていたのは、街や村のまっとうな信徒たちであります。彼らは、その当時ローマ帝国によって占領されておりましたので、かつてユダヤ人の黄金時代を築いたダビデ王の再来のようなメシアを待ち望み、ローマ軍を撃退して独立を勝ち取る、民族運動のリーダーとしてのメシアを求めていました。
  しかし羊飼いたちは、そのようなユダヤ人社会からもはじき出されておりました。
  ユダヤ人社会の中心である神殿の聖職者たちは、税金だけはキッチリと取ってゆきながら、しかし同時に「おまえたち羊飼いは、律法を守れないから神の救いからは外れているよ」と言っていたわけですから、そんな連中がいくら「救い主が来られる」などと語っても、「何言ってやがんだい」というような受け止め方だったでしょう。
  彼らにとっては、反ローマの熱で盛り上がる民族主義よりも、今日、明日、食べていけるかどうかが最重要課題だったのであります。
  しかし、そんな羊飼いたちのところに、いちばん先に「メシアが生まれましたよ」「救い主がお生まれになりましたよ」と知らされたわけです。メシアを待つ信仰深い人たちにではなく、そんな信仰に冷め切った人たちのところに最初に福音が知らされる、これが第一の意外性です。

第二の意外性:平和な世界に告げられた平和

  もう一つの意外性。それは、「地には平和あれ」(14節)という言葉であります。
  実はこの時期、世界はすでに「平和だ」と言われておりました。
  「ローマの平和」=「パックス・ロマーナ」という言葉は世界史でも有名です。これは当時、世界最大の帝国となったローマ帝国の皇帝アウグストゥスが、圧倒的な軍事力を背景に、方々の属州の地域紛争や反ローマの抵抗運動を抑えこむことによって成立した、安定のことでした。
  軍事力を使って、力で抑えこむことで実現する「平和」。それは、見方によっては大変現実的で、それしか世界の安全保障を保つ方法はないように思われます。
  しかし、ローマの視点から見ればそうかも知れないけれども、ローマに抑えつけられている、たとえばこのユダヤ人社会にとっては、そうではありませんでした。
  高い税金を取り立てられる上に、ローマの駐留軍の基地があちこちに建設され、町中をローマ兵が闊歩している。そんな状況を、民族意識の強いユダヤ人たちは黙って受け入れることができませんでした。
  そこで、エルサレムでも、また死海周辺や北部ガリラヤ地方でも、いくつもの反乱運動のグループが生まれ、このユダヤではしょっちゅう武力衝突やローマ側の役人の暗殺テロなどが起こって、ローマもこの地方の取り扱いには、手を焼いたようであります。地元出身で、しかも残忍な事でたいへん有名なヘロデ大王に、特にこの地方を委託統治させたのも、そういうわけだったからでしょう。
  そういうわけで、ユダヤ側からのテロとローマ側からの報復攻撃の応酬を、社会からはじき出されたところで模様眺めしていた羊飼いたちにとっては、「ローマの平和」などという言葉はチャンチャラおかしかったわけであります。
  どこが平和か? なにが平和か? ただの力のバランスではないか。だから改めて、天使たちは「地に平和を」と訴えるのです。
  これは、戦争をする力と力がせめぎ合っている状態を「平和維持」とか「安全保障」という言葉で表現することに慣れっこになっている、現代の私たちに現実に対しても、「意外な知らせ」であります。
  私たちが本当に欲しい平和とは、武器を相手に向け合って、その脅しの力のバランスで保たれるような平和でしょうか。神経戦、情報戦という戦争が行なわれている状態が、平和と呼べるのでしょうか。
  そんな平和は、本当に心が安らかに憩う平和ではありません。そういう状態を「平和」と呼ぶ人もいるかも知れませんが、少しも「平安」ではありません。
  私たちは、悪ぶって現実主義者を気取るのではなく、本当の平和、「平安」な平和が欲しいのであります。

御心に適う人

  天の大軍は、「地には平和、御心に適う人にあれ」と歌ったと伝えられています。ここでも「平和」は「平安」という意味であることは明らかです。
  「御心に適う人にあれ……」
  「御心に適う」というと固い言葉ですが、要は「神さまのお気に入り」という意味の言葉であります。天使たちは、あえて羊飼いたちを選んで彼らのところにやってきて、彼らの前で「御心に適う人に平安あれ」と歌ってくれたのですね。
  キリスト教の神さまは変わっていると言われるかもしれません。神さまのお気に入りは、多くの人からつまはじきにされているような人、人の群れから離れた所にいる、寒さと暗闇の荒れ野にいる羊飼いのような人であります。
  寒さと貧しさのなかで、その日その夜を生きる、弱い立場の少数の人びとが、言葉少なに肩を寄せ合って暖を取りつつ、そこで作り上げている平安。それが神のお気に入りの平安です。
  しかし、その小さな平安こそが、この世を変える平安なのだ、ということ。この羊飼いたちが包まれていたのと同じような、やはり小さな平安の中に生まれたみどり児が、この世を変えてゆく救いの源となった。小さな平安の中に育てられた人間が、世界に平安の種をまくことになったのであります。
  私たちも、今ひと時、この温かい礼拝堂で讃美を献げ合い、ささやかな喜びの時を分かち合いますが、その後、やがてそれそれの寒い家路につくことになります。そして、また新しい一年を人の世の寒さの中で生きてゆかねばなりません。
  しかし私たちの暮らしがそのような寒い現実にあるからこそ、寒さの中の羊飼いのように、小さな平安を見いだし、作り出すことから、始めなければならないのであります。
  小さな平安を分かち合う関係を、まずは一人この人と……次は一人この人と……という具合に、少しずつ築いてゆく。
  大きな力による平和ではなく、小さな信頼による平安を広げてゆくことによって、私たちは自分の身の回りから「平和を造り出す人」となってゆけるのであります。
  天使たちは、小さな人の群れの前で、平和を歌いました。
  次は私たちがこの世の暗闇に向かって、平和を高らかに歌いつつ、この世を変えてゆきたいものですね。
  祈りましょう……。

祈り

  神さま。
  今夕ここに、あなたの御子イエス・キリストのご誕生を祝い、共に喜び歌い合う礼拝に私たちを迎えてくださって、ありがとうございます。
  この礼拝において、愛する人たちと共に、あなたのもとで交わりを持つことができますことも、心から感謝いたします。
  御子イエスは、もっとも弱い赤ん坊としてこの世に生まれ、もっとも弱々しい姿で十字架にかけられて生涯を閉じました。しかし、そのイエスの弱さ、小ささこそが、何と今貴く思われる事でしょうか。
  力による支配がまかり通るこの世において、私たちは、たとえ小さくとも、本物の平和をあなたと共に作り出したいと願います。
  どうか、本当の平安を造り出してゆける者とさせてください。
  人を赦し、人に報復せず、人と小さな温かさを生み出すことのできる人間として私たちを創り上げて下さい。そうして、この地上に平和をもたらす、あなたの御子のお手伝いができるようにしてください。
  幼子としてこの世に生まれた、主イエス・キリストの御名によって、祈ります。
  アーメン。

【備考】
  ユダヤ地方の12月は雨季の真っ只中。しかも、尾根ごしの風が吹いて、とても火など焚いていられないそうです。そして本物の羊飼いなら羊を洞窟に入れて避難させるだろう、ということです。
  したがって、羊飼いたちがおだやかな満天の星空のもと、火を焚きながら羊の番をしていると……というような情景が広がっていた可能性は、実は限りなく低いのです。
  しかし私は、このメッセージでは、ファンタジーはファンタジーとして味わうことに主眼を置きました。なにとぞご了承ください。

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