誰のために死なれたのですか

2001年9月23日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖日礼拝説教

説教時間:約30分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:ヨハネによる福音書 10章11−18節(イエスは良い羊飼い)(新共同訳・新約・p.186−187)

 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父が私を知っており、わたしも父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。

敵意の神格化

 アメリカは着々と戦争の準備を進めています。
 「敵を愛せ」「剣を取る者は剣で滅びる」と書いた聖書に手を置いて就任した大統領が、犠牲者を追悼する礼拝において、「これは善と悪の戦いである。そして悪は必ず滅びるのだ」と戦争を宣言しました。
 その一方で、今回アメリカで起こった「同時多発テロ」を称賛した人びとも、イスラム国と呼ばれるいくつかの国の中には一定数存在します。今回の事件が起こる前から、「アメリカは悪魔である」「アメリカを倒すためなら何度でも命を捨てることができる」と、穏やかに語るイスラム原理主義の兵士はいくらでもいます。
 日本ではアメリカのメディアによる映像ばかりが一方的に流されつづけ、アメリカが報復するのは当たり前という宣伝がなされていますが、私のところに流れてくる限りの情報では、アメリカ国内でもみんながみんな好戦的なムードに舞い上がっているわけではなく、「報復しても、また多くの人が血を流すだけだ」と反戦を訴える人はたくさんいるそうです。また、アフガニスタンでも今回のアメリカでの事件に心を痛めている一般市民は多い、と聞いています。
 事件に宗教問題もからんでいるということもあって、ここのところ私の授業はこの問題一色になっており、一方的な情報でアメリカに肩入れしがちな生徒たちに対して、違う観点からものを見ることを必死で勧めています。
 アフガンでもタリバーン政権は必ずしも積極的支持を得ているわけではないと言われます。事件直後からアメリカからの攻撃を恐れて逃げてきたアフガン人が、隣のパキスタンとの国境付近に押し寄せてきていると言います。アメリカの攻撃が始まる前から既に難民が出ていることになるのです、これは逆に言うと、これらイスラム圏でアメリカが今までどれほどの暴力をふるってきたかということの証拠でもあります。
 アメリカはテロが民間人を巻き込んでいることに怒りをあらわにしますが、アメリカもこれまでいくつか各地の大使館や軍事施設を狙ったテロに対しての報復攻撃で、何度もスーダンやアフガンなどにミサイルを打ち込んでおり、そのたびに民間人を多く殺傷しております。湾岸戦争では、空爆の際多くのミサイルが誤爆したおかげで民間人が犠牲となり、地上戦では機銃の弾に原子力発電所の核のゴミを詰めて打ち込むという暴挙を働きました。その影響で、現在でも被爆者が出ているという話もあります。
 「第二のパールハーバー」と言う謳い文句も流行ったようですが、それを言うなら、民間人と軍人を問わず、一発で14万人もの人間を殺戮する核爆弾を2発も投下したのはどこの国だと……。その国の大統領が「悪は必ず負ける」と言っているのですから、負けるのはあんたの国かも知れんねぇ……とイヤミのひとつも言ってやりたくなります。

無告之民

 片や、悪魔を倒すために死んだ殉教者は天国に行けるのだと信じて自爆テロをくりかえすテロリスト。片や、礼拝の場で「悪を撲滅するのだ」と宣言し、ミサイルを打ち込む軍事国家。どちらも「相手は悪魔であり、神は自分の側についている」と宣言しているのですが、どちらもエルサレムを聖地とし、旧約聖書を共有している。即ち、彼らは実は同じ神を信じていることになります。同じ神を信じている者どうしがお互いに、「神は我らを祝福し、敵に天罰を下される」と言い張っているのであります。
 いったい神はこのような人間のありさまを見て、どのようにお感じになっておられるでしょうか。どちらの陣営にも都合よく引き合いに出される神は、今までのあらゆる非常事態においてもそうであったように、沈黙されたままです。
 黙ったまま、何も言わず、ただ人間の行いを見つめておられる神の悲しみはいかほどであるか……。それを思い図る感性が、信仰を持つ者には求められているのではないかと思います。
 イエス・キリストは十字架にかけられて死んでゆかれた方……組織的な暴力によって殺された犠牲者であります。したがって、イエスが沈黙の中から代弁しているのは、誰にも何も訴えることのできないまま強引に命を奪われていった人びと、その「無告の民」の叫びであります。
 神は沈黙しておられます。しかし、その沈黙こそが最も雄弁な叫びであります。亡くなった方々はもはや言葉を発する事はできません。しかしイエスはその方がと同じように殺されていった方であります。
 今回のテロ事件において、一体どこに私たちはイエスを見つけることができるか。どこにイエスはおられるのか……。
 
イエスは、あの乗っ取られた旅客機の中、あの倒壊したビルの瓦礫の下におられるのであります。
 殺された者のその苦痛をのみイエスが共に負うておられるのであって、この暴力をきっかけに復讐心をあおったり、更なる暴力を生もうとすることをイエスが望んでおられるわけがないのであります。

特攻

 さて、ここ最近、旧日本軍の特攻隊員の手記や手紙などを読んでいたく感動し、「自分がここまで命をかけるものを持っているだろうか」と自らを省みて、特攻精神に憧れをいだく高校生がちらほら私の学校でも現れておりました。
 しかし、さすがに今回のニューヨークでの出来事の後は、少し彼らの態度が変わっているように感じました。だいたいこの手の生徒は、話しているうちにすぐ目をつりあげて興奮し、口角泡を飛ばして議論を始めるのが常なのですが、あの事件の直後は、妙に冷めたというか、肝を抜かれたような、おとなしい顔つきをしていました。
 個別にくわしい会話はまだしているわけではありませんが、私はあのビルに突入する自爆攻撃の映像を、あれだけ何度もはっきりと見せられたら、度肝を抜かれて当然、目が覚めて当然だと思います。
 あれは、まさに彼らが美化し、あこがれていた「特攻」そのものであります。あの映像で、死を覚悟して激突するということの恐ろしさが、彼らにも多少なりとも想像できたのではないかと思います。
 自爆テロを行なうテロリストたちは、アメリカを悪魔であるとし、殉教の死は天国への道であると教え込まれていると伝えられています。もちろん洗脳は完全なものではなく、家族への思いがあり、貧しい暮らしへの怒りがあり、何度も容赦なく民間人を殺戮するアメリカの空爆への怒りあり、さまざまな感情が渦巻きながらの体当たりです。それと、かつてアメリカを鬼畜呼ばわりし、死んだら靖国で会えるのだと教えられ、不本意かつ無念な思いを残しながらも、最後には残る家族を思いつつ敵艦に突入していった旧日本軍の特攻隊員と、一体何が違うのだろうか、と私などは思います。
 特攻隊員を貶めようとして私はそういうことを言うのではありません。自爆テロを行なう個々の戦士を一概に貶める権利は私たちには無いのだと言いたいのであります。
 彼らをマインド・コントロールされたテロリストであると言うのなら、かつて特攻作戦のために多くの10代、20代の若者たちを消費した日本が行なったことは一体何だったのでしょうか……。

宗教はコワイ

 石原慎太郎氏は、中曽根康弘氏との対談『永遠なれ日本』(PHP研究所、2001)の中で、特攻隊の精神と、それに感化される若者について、「悟り」とか「啓示」とか「物では測れない価値観」という言葉遣いで表現しています(p.246以降)。亡くなった人との「超人格的な体験」、「人智を超えた出来事」ということもよく語っています。たいへんある意味で宗教的です。
 この石原氏が主張するような神秘的な体験も、一種の宗教体験として認めざるをえないとすれば、宗教とはいったい何なのか。宗教とは、決して絶対的なものではなく、しょせん人それぞれの感じ方によっていかようにも変化するものではないか。
 そして何より、政治権力者や支配者の個人的な神秘体験が、国や民族といった集団のものとして押し付けられてゆくことの恐ろしさを危惧するのであります。

 いま一度問いたいのですが、いったい宗教とは、何なのでしょうか?
 宗教は、国家主義と結びついたり、テロリズムと結びついたり、いろんなところに顔を出すけれども、結局何なのでしょうか?
 いま世界で憎しみをあらわにして向かい合う勢力が、互いに「自分を神の御心にかなうものである」と宣言し「敵は悪魔である」と罵り合う状況を第三者として見つめながら、私は「宗教はこわい」「宗教はあぶない」と思われても仕方ないではないかと思います。
 おそらく宗教は、原子力と同じように未完成の技術で、まだ人間はその力を充分安全に取り扱い、そして平和に生かすことができていないのでしょう。
 世界のほとんどの地域で、宗教は、国家や民族、あるいは特定の利益団体を統合するためのマインド・コントロールとして現実に機能しています。また、そのような危険な宗教をいやというほど見て失望して、宗教には関わりたくないと思っている人が増えつづけています。
 宗教が、国家であれ民族であれ、あるいはそれ以外の特定の団体のもとであれ、集団を統合し正当化する道具として営まれる場合、たいていはろくな結果を生みません。宗教を団体で充分安全に運用するほど人類は歴史的に成熟していないのではないかと思われます。
 それでは、私たちは、いったいどのようにして宗教、信仰といった問題と関わり、神と出会ってゆけばよいのでしょうか。

あなたの権威でものを言え

 聖書を読んでいると、私たちは、イエスが決して自分の教団を組織して、それを拡大しようとしていたわけではないことを発見します。
 イエスは使徒と呼ばれた12人の弟子を集めましたが、彼らを中心に教団組織を形成せよとは命じませんでした。むしろ、彼らを派遣して旅をさせ、あやゆる町や村を巡って宣教するように命じられました(マルコ6章7−13節など)。
 イエスは、弟子たちのグループの中で誰が偉いかという論議が起こった時には、これを厳に戒めましたし(マルコ10章35−45節ほか)、何より死を目前にして、ユダが裏切って自分を引き渡すであろうことや(同14章18−21節ほか)、ペトロが自分との関与を人前で否定するであろうことを予告するイエスには(同14章29−31節)、自分の死後、弟子たちのグループが組織として存続することを期待する素振りは微塵も感じられません。
 むしろ
「『わたしは羊飼いを打つ。すると羊は散ってしまう』と書いてある」、だから神が私を打つ時、君たちは離れてゆくんだよ、と弟子たちに告げるイエスの言葉には、どこかしら組織や集団といったものに何の期待も抱かぬ冷めた諦観、と同時に、忠誠心を求めず自分のカリスマにも依存しない孤高な魂というものを感じるのであります(マルコ14章27節:ゼカリヤ書13章7節より)
 こういう態度は、集団や伝統といったものに裏付けられた権威への忠誠を何より重んじる人々の間では、反感を巻き起こした事でしょう。
 事実、イエスは神殿の境内で教えている時などに、よくユダヤ教の祭司長や律法学者から
「何の権威でこのようなことをしているのか」と詰問を受けたと伝えられています(マルコ11章27−28節ほか)。イエスも、学歴はなかったとは言え、ユダヤ教のラビであることには違いありませんから、あまり出すぎたまねをされるのは、他のラビたちから見ても面白くなかったことでしょう。「出る杭は打たれる」というわけです。
 こういう周囲の対応にもかかわらず、イエスは常に自ら権威ある者のように教えたと伝えられています(マルコ1章22節ほか)。その態度がますます他の聖職者たちを不愉快にさせたことは間違いありません。
 イエスが自ら権威ある者のように語ったことについて、「それは神の子、救い主だったからだ」と説明する人がいます。そうやって何でもイエスの行いについて「それは神の子だったから」と説明しまうのは便利ですが、それではイエスと自分との距離を遠ざけ、イエスを特別な超人に祭り上げて、自分の生き方とは関係のない存在に追いやってしまうことになります。
 そうではなく、イエスがイエス自身の権威で語っているということは、「あなたもあなた自身の権威で物を言いなさい」ということ。そういう生き方をイエスが身をもって示しているのであります。
 聖職者たちはそんなイエスに「神を冒涜する者」と決め付けます。しかし、それは本当は神への冒涜でも何でもない。それは当時のユダヤ教という宗教に対する冒涜だったかもしれませんが、神ご自身への冒涜ではありません。
 宗教の信者というものは常に自分たちこそが神の忠実な僕だと思うものです。そして、時に異なる宗教の信者たちが、あるいは同じ神を信じる者どうしであっても、互いに相手を「神を冒涜する者」であるとか「悪魔」であるとか言って非難し合います。その信念の十人十色、百人百様の現実そのものが、宗教というものに絶対的な正しさは存在しないという証拠とも言えるでしょう。
宗教と神は同じではありません。「神に従う」ことと「宗教に従う」ことは別です。
 「人間は神の似姿として造られた」という旧約聖書のいちばん最初に書かれた言葉を信じるなら、この地上では本来ひとりひとりの人間がいちばん権威ある存在のはずです。私たちはひとりひとり神の似姿なのですから、私たち人間が、それぞれ個人の判断、おのれの権威でものを言う以上に大きな権威は本当は無いはずなのであります。
 イエスはそういう、徹底的に自分の主体的判断、自分の権威というものを主張する生き方を、私たちに示しました。
そしてそれは「生き方」だけではなく「死に方」においてもそうであったのであります。

私の命は私が捨てる

 本日の聖書の箇所、ヨハネによる福音書10章18節において、イエスは、こう語ります。
 
「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」
 客観的に見れば、イエスは十字架につけられることによって、他人から命を奪われています。しかし、それは彼が自分で選び取った死の方法です。イエスは自分が決めたこととして、あえて命を奪わせているのであって、その死の主体性はイエス自身にあるのです。
 本日お読みしました聖書の箇所でイエスは、
 
「わたしは良い羊飼いである」と二度繰り返しています(ヨハネ10章11節、14節)。そして、
 
「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11節)
 「私は羊のために命を捨てる」(15節)

とも言っています。
 「良い羊飼いは羊のために命を捨てる……」というのは、羊飼いの常識から考えればおかしな話です。ふつう羊飼いは自分たちの生活のために羊を飼っているのであって、羊のために命を捨てるような物好きな羊飼いはいません。「良い羊飼いは羊のために命を捨てるものだ」と言ったら羊飼いたちは笑うでしょう。要するに、ここでイエスが本当に言いたかったのは、牧畜の話ではなく、人間の社会の事なのです。
 羊のために命を捨てる羊飼いのように、イエスは愛する人たちのために命を捨てると言っています。イエスは決して、神のために命を捨てるとも、大義のために命を捨てるとも言っていません。これは殉教ではありません。イエスの死の目的はあくまで、99匹を置いてでも探し求める価値があるような1匹の羊、ひとりひとりの人間のためであります(マタイ18章10−14節ほか)。
 世にある宗教、あるいは国家主義や民族主義は、時に、羊に命を捨てることを要求します。宗教・国家・民族という牧場のために、羊に「戦って死ね」と要求する羊飼いは、世の中にあふれています。そしてそのような羊飼いは、牧場を愛したり誇ったりすることは羊たちに要求しますが、決してその羊飼い自身が羊たちを個々に愛するということはありえないのであります。そしてむしろ12節に描かれた、狼が来ると羊を置き去りにして逃げてしまう雇い人のように、どんなに犠牲者が出ても自分だけは生き延びようとします。多くの戦死者、戦災死者、戦犯の死を尻目に、新しい日本に生き延びた昭和天皇のように。
 イエスは「本当に羊を愛し、牧場を愛している羊飼いなら、羊のために死ねるはずだ」と彼は言います。そして実際にイエス自身はそうやって命を捨てます。
 しかも、
16節でイエスは「わたしにはこの囲いに入っていないほかの羊もいる」と言います。彼は、自分の囲いの中にいる羊のためだけに死んだのではありません。

誰のために死なれたのですか

 ビリー・グラハムという有名なアメリカの牧師は、この度起こった「同時多発テロ」とアフガンへの宣戦布告に際して、『我らキリスト者』と題した説教で、「自分たちは善良なるクリスチャンである」「敵は邪悪なイスラム教徒である」と国民を鼓舞しているそうです。また、日本基督教団の教団議長は、そんなアメリカの一方的に支持する書簡をブッシュ大統領あてに送りました。
 実に情けない話です。キリスト者が一体この世で何をやっているのか。キリスト者かそうでないか、そんな囲いに何の意味があると言うのか。情けなさを通り越して憤りさえ湧いてきます。
 イエスは、宗教、国家、民族といった人間が作ったあらゆる囲いを乗り越えてゆかれる方です。イエスはキリスト者のためだけに死なれたのではありません。キリスト者の大統領の命令によって殺されるイスラム圏の人々のためにも死なれたのです。
 それは、キリスト教がイスラム教徒をも救うというような手前勝手な論理ではありません。そうではなく、イエスは「キリスト教」という囲いの中に収まるような人物ではない、ということなのであります。
 イエスはキリスト教などという、いくつかある中のひとつの宗教団体を設立しようと思って、福音を宣べ伝えていたのではありません。イエスはただ人を究極的に愛し、また人が神から愛されているということを証しするために命を献げた。しかも特定の宗教の権威によらず、誰の命令でも無く、自らの決断でそれを行ないました。彼にそれを決断させたのは、彼の人間への愛でした。
「私が死ぬことがあなたを救うことになるのなら、私は死のう」
 そういう決断を自分に下せるほどに強固に自立した孤高の精神。
 誰の命令でもなく、神の御旨だからそうするのですと言うのでもなく、マインド・コントロールされたのでもなく、自立した冴えた精神で、「わたしはあなたのために死ねるよ」と言える心。

 そのような
とてつもなく強い心と、ゆるぎのない愛が、私たち一人一人に、そして私たちとは政治的に敵対する一人一人にも同じように向けられているということを、私たちは常に心に留めておかねばならないのではないでしょうか。

祈り

 祈ります。
 天地を創り、私たち人類をあなたにかたどってお造り下さった神さま。
 あなたが私たちひとりひとりの息に吹き込んでくださった命を、私たちはどんなに粗末に扱っていることでしょうか。
神さま、私たちは深く悔い改めます。
 失われた多くの魂の無念と、遺体を探す多くの人の悲しみに、何もできぬ私たちをどうか赦して下さい。
 神さま、どうか私たちに、憎しみや敵意ではなく寛容を、争いではなく平和を選び取ることのできる強さを与えてください。
 イエス・キリストの名において祈ります。
 アーメン。

祝祷

 イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、全ての人とともにありますように。
 アーメン。

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