あなたにひとつ欠けているもの

2008年11月30日(日) 日本キリスト教団蒲生教会 特別伝道集会説教

説教時間:約30分

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聖書:

    
レビ記19章11〜18節 (新共同訳・旧約)

 あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。私の名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。
 あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。
 あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。
 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。


マタイによる福音書19章16〜22節 (新共同訳・新約)

 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。
 「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
 イエスは言われた。
 「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりだけである。もし命を得たいなら、掟を守りなさい。」
 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。
 「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

ローマの信徒への手紙13章8〜10節 (新共同訳・新約)

 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。
 

永遠の命、欲しいですか?

 本日お読みいただきました、マタイによる福音書の19章16節以降の記事には、一人の男がイエスに近寄ってきて、こう言った、と記されています。
 
「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイによる福音書19章16節)
 さて、ここで早速、疑問なのですが、永遠の命というものは、誰でも欲しがっているものなのでしょうか? ここでお集りのみなさんに、質問をさせてください。永遠の命が欲しいという方は、手を挙げてください……というようなことは、ここではしないことにします。個人の心情を強制的に告白させる、ということは許される事ではありませんので、そういう質問はここではしません。
 しかし、学校の教師というのは、教育指導上の目的で、最低限度、生徒の人権を一部侵す事が許されております。なので、さっきのような質問を、高校3年生の授業でぶつけてみました。
 「永遠の命が欲しいという人は手を挙げてみてください」……1人、多くても2人程度です。
 「では、永遠の命なんか、いらないよ、という人は手を挙げてみてください」……クラスの7割近くが手を挙げます。
 「両方に手を挙げなかった人は、どういう意見なんやろう? (一人指名して)なんで両方に手を挙げなかったん?」……そう聞くと、困ったような苦笑いを浮かべます。「ひょっとして、めんどくさかった?」と聞くと、苦笑いのままうなずきます。そこで今度は……「めんどくさかった人は手を挙げて」というと、やっぱり手が挙がりません。「あ、それもめんどくさい、ということね、はいはい……」と。
ここで気を取り直して、今度は「永遠の命なんか欲しくない」と答えた人に、インタビューしてみます。「どうして、永遠の命がいらないの?」
 すると、ある生徒は「自分だけ歳いって、他の人が友達とかがみんな死んだら、自分だけ生きとっても、つまらんし……」と言います。すると、すぐさま別の生徒が「いや、それはまあそれで、その時々の友達ができるから、別にええんちゃうん?」と突っ込みます。するとまた別の生徒が「えーでもどんどん年老いて体もヨボヨボになって、それでも死ねずに生きていくなんて、いややなあ」と言います。それに私が突っ込み、「じゃあずっと二十歳のままの若さでいられるとしたら?」と聞くと、「ああ、それやったら、まあええかな」と言ったりします。
 しかし、考えてみると、聖書の中で永遠の命について書いてあるところで、一体何歳の状態で永遠に生きるのか、きちんと書いてあるところはないんですね。多分ないと思います。改めてそういうことに思い至らされます。

永遠の命で起こる人口問題

 永遠の命が重要な教えの要素になっている、キリスト教系の新興宗教団体で「エホバの証人」というところがありますが、この団体が配布している書物やパンフレットなどを見ると、若々しい、どう見ても20代、年長者でも30歳代くらいの大人たちと、小学生くらいの子どもたちもいて、美しい草花に囲まれ、ライオンと小羊が平和に共存している、といったイラストがよく描かれています。これがパラダイス:楽園というわけです。これは、旧約聖書のイザヤ書65章25節に、「狼は小羊と共に草を食み、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこに置いても、害する事も滅ぼす事もない、と主は言われる」と書いてあるからです。
 しかし、この世がいったん終わりの時を迎えてから、そのあとやってくるこのパラダイス:楽園の情景として、人間の子どもと大人が描かれています。彼らは、そのまま歳をとらないのでしょうか? 終わりの時を迎えたときの年齢で止まっているのでしょうか? それとも、子どもはある程度成長して、大人になったところで歳をとるのが止まるのでしょうか? また、終わりの時を迎える前に死んだ者で、復活を許された者は、一体何歳の状態で蘇って楽園に入るのでしょうか?
 そういうことが疑問になりまして、私は一度、エホバの証人の方に聞いてみた事があります。わりとよく訪ねてこられますので……。
 で、質問してみました。
 「あのー、終わりの時を越えて、パラダイスで永遠の命を得る人たちがいるんですね?」
 「そうです」
 「その人たちは、みんな20歳くらいの若さになるんですか?」
 「ええ、たぶん、そうです」
 「その人たちが子どもを作るということもありますよね」
 「はい、そうですね」
 「でも、親はいつまでたっても死なないわけですよね? 永遠の命を持っているから」
 「そのとおりです」
 「するとね、パラダイスといっても、要するに地球上に現れるわけですよね? 地球というのは無限の平面じゃなくて、球体ですから、おのずと面積には限界がありますよね? それで、ぼくが心配するのは、永遠の命を持った人たちが、子どもを作り、その子どもが孫を作り……といった具合にどんどん人口が増えていって、いつか地球が満員になってしまうのではないだろうか。人口爆発を起こしてしまわないだろうか、ということ。それが妙に気にかかります。そのへんのところはどう考えておられるのですか?」
 「うーん、それは……ちょっと私にはわかりませんので、上の人に聞いてきます。また明日お邪魔させていただいてよろしいですか?」
 「どうぞどうぞ」
 そういうわけで、私は翌日その人が来るのを心待ちにしていました。そして彼女はやってきました(なぜか、エホバの証人の宣教者というのは中高年の女性の方が多いのですね)。
 「どうでしたか? パラダイスの人口爆発の問題は」
 「はい。ひとつのたとえ話をお話ししましょう」
 「はい、お願いします」
 「水道の蛇口をひねって、コップに水を入れます」
 「はい」
 「水面は次第に上がってきますね。これが人口です」
 「なるほど」
 「水面は上がって来ますが、あるところで……つまりコップの高さで止まります。このように、ある時点で人口の増加は止まるのです」
 「はあ……じゃあ、そのあと、こぼれ続けている水のほうはどうなるんでしょうか?」
 すると、彼女はぐっと一瞬困ったような顔をして、
 「……それは、私にも、わかりません……」
 「そうですか……。わかりました、ありがとうございます」
 そう言って、そのエホバの方には引き取っていただきました。やはり、詳しい事はエホバの証人にもわからないのですね。

永遠の命の話題を避けるイエス

 さて、ここで、再び聖書に戻ります。
 一人の男がイエスに
「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればいいのでしょうか」(16節)と質問します。するとイエスはこう答えます。
 
「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである」(17節前半)
 これではっきりするのは、イエスは「わたしに質問しないでくれ」ということを遠回しに言っているということです。
 「なぜ私に尋ねるのか。善い方はおひとりである」。この場合の「善い方」は、ほぼ間違いなく神さまのことです。ということは、ここでイエスは、「自分は神さまではない」と言っていることになります。
 たしかキリスト教では、イエス・キリストも神さまのひとつの現われ方であり、「三位一体」などと言われますが、そういうことは、ここでイエス自身が否定しています。
 とにかく、イエスはこの永遠の命が欲しい男の人に対して、「私に聞かないで、神さまに聞きなさい」と言っています。
 この男の人は、どうして永遠の命が欲しいのでしょうか? 先ほど申しましたが、私の学校では「永遠の命はいらない」という子が多数を占めました。私は自分の娘(小学5年生)にも聞いてみましたが、やはり「長生きはしたいけど、永遠の命はいらない」と言いました。
 この男の人は、あとでわかることですが、お金持ちなのですね。自分の生活には満足していたのでしょう。また、多分この人はそんなにきびしい労働条件で働いた経験はないんだろうな、という気がします。この時代、人一倍努力してがんばって働いたからひと財産築く事ができた、というようなことはありません。貧農の息子は貧農、大工の息子は大工というように、一種のカースト制のようなもので、がんばったから階級を上に登ってゆくということは、まずありません。
 金持ちは、自分の持つ土地に小作人を雇って耕させますが、できた作物の大半を持っていってしまい、小作人の食べる分はわずかしか残りません。そうやって、金持ちは貧しい人から奪う形で、自分たちの富を確保します。そして、その財産を親族一同で守り、次の世代に受け継ごうとします。
 ですから、おそらくこのお金持ちの男の人は、自分の手を土で汚して、汗水たらしながら労働して、自分の財産を作ったんじゃないんだろうなあと想像できるわけです。
 しかも、この人は、いつかは退職してのんびり暮らしたい、と思っているわけではなくて、「今」の生活が気に入っているから、「今」の若くて元気で衣食住にも困らない恵まれた生活を、いつまでも味わっていたいと思ったのでしょう。よぼよぼの老人になって、そのまま永遠に生きたいという人は少ないでしょう。だから、この男の人は若いに違いありません。確かに
22節にも「青年は」と書いてあります。大阪の言い方をすれば、この人は金持ちのボンボンなんです。
 イエスはこういうボンボンが永遠の命などとあつかましい話をしにきた時点で、ああこんな奴とは話したくないなあと思われたのでしょう。
 じっさい、イエスはナザレの大工で、貧農と同じくらい低い階級の出身です。ナザレの大工というのは、木工製品を作っていたという説もありますが、じっさいには石工、つまり建築用の石をノミで叩いて切り出す仕事だったという説もあります。もしそうだとしたら、日常的に粉塵を吸うわけで、肺には悪い仕事で、長生きはできません。定年制がある会社ではなく、貧しい職人ですから、いつか呼吸が苦しくなって早死にするまで働き続けます。死んで初めて労働から解放される、そんな人生です。
 イエスはそういう階級の出身ですから、不労所得でのほほんと暮らしている青年が「永遠の命が欲しい」などと言ってくることが不愉快でならなかったでしょう。
 そこで、「わたしに聞かないで、神さまに聞いてごらん」とかわしたわけです。そしてその上で、
「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」(17節)とだけ言って話を終わりにしようとします。「掟」というのは、彼らユダヤ人が守らなければならないとされている、ユダヤ教の律法すなわち戒律のことです。

誰でも知っている事

 律法を守るのはユダヤ人としては当たり前のことです。ですから、こんな答えでは、この青年は満足できません。そこで、イエスに食い下がります。
 
「どの掟ですか」(18節)
 するとイエスは答えます。
 
「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」(18?19節)
 これは面白いな、と私は思いました。これは、十戒のなかの宗教的な戒めを抜いたものです。
 十戒には、(1)私の他に神があってはならない。(2)あなたはいかなる像も造ってはならない。(3)あなたの神の名をみだりに唱えてはならない。(4)安息日を守って聖なる日としなさい。……という順序で戒律が並んでいます。これは、ユダヤ人にとって、基本中の基本、最初の戒律です。まあ、ユダヤ人なら誰でも知っていると言っていい律法の基本です。
 で、この最初の4項目を省いたのが、イエスの言っている掟です。順番は違いますが、(5)あなたの父母を敬え。(6)殺してはならない。(7)姦淫してはならない。(8)盗んではならない。(9)偽証してはならない。……そのままです。最後の(10)は隣人のものを欲してはならない、ですけど、財産持ちだから、こんなものは言わなくてもいいだろう、とイエスは思ったのかもしれません。
 そのかわりイエスは、
「隣人を自分のように愛しなさい」(19節)という掟を付け加えました。この言葉は、今日お読みしました旧約聖書のレビ記19章18節にある言葉です。レビ記には「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と書いてあります。
 そして、この言葉は、
「心をつくし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイによる福音書22章37節ほか)と並んで、最も重要な掟として、新約聖書のなかに何度も語られています。
 「神を愛する事」そして「人間を愛する事」。それは、イエスがそう語るときもあるし、イエスと話している相手が言う時もあります。つまり、これはイエス・オリジナルではなくて、当時、「最も重要な掟は何か」と言うときの決まり文句のように広まっていた、いわば当時の知識人の常識だったようです。
 このことは、イエスの死後20年近くの時代に活躍した使徒パウロにも受け継がれておりまして、これも今日お読みいただきましたローマの信徒への手紙の13章9節以降を見ていただくと、パウロがこう言ってます。
 
「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマの信徒への手紙13章9?10節)
 律法、すなわちユダヤ教の戒律のすべては、この隣人愛に要約されるのであります。

あなたにひとつ欠けているもの

 というわけで、とにかくイエスは、こんな誰でも知ってる十戒や隣人愛の言葉を言って聞かせたわけで、そんな戒律はこの青年も子どもの頃から憶えさせられていたはずです。現代では保守的な人たちだけかもしれませんが、昔はユダヤ人の子どもは、みんな旧約聖書の最初の5冊(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)くらいは子どものときから暗記させられます。
 ですから、「どの掟ですか?」と聞いたら、こんな基本中の基本を聞かされて、ひょっとしたらこの青年は自分が侮辱されたような気分を味わったのではないかと思います。だからむきになって言います。
 
「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」(19章20節)
 そこで、イエスは彼の本音をズバリとこの金持ちの青年にぶつけます。
 
「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)
 それを聞くと青年は
「悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」(22節)と記されてあります。
 ここで、この青年の価値観が暴露されます。彼は、今のままの豊かで楽な生活を永遠に続けたかっただけであって、その豊かな財産を失ってまで永遠の命は欲しくなかったということになります。そこで彼の価値観は、命ではなく財産に重きをおくものだったのだ、ということが明らかになります。
 さて、結局イエスは「永遠の命」をどうすれば得られるのかについては、何も答えていません。なぜでしょうか。「永遠の命」……そんなものはないということです。
 財産持ちの青年に欠けていたもの。それは、彼が自分のその豊かな財産を売り払って、お金に換えて、そのお金を貧しい人に寄付する事です。書かれてあるとおりのことです。イエスは言っているのです。「お金が必要なんだよ」と。
 「そんなことをしたって、単なる一時しのぎに過ぎないじゃないか」と豊かな人は考えがちです。「もっと抜本的な改革をして、貧困層が救済されるようにしなければ」。「金持ちが財産を売り払って、お金をばらまくなんて、それじゃまるで今の自民党・麻生政権の定額給付金とどこが違うっていうんだ?」
 しかし、カースト制のような社会においては、貧しい者は貧しいまま、体を壊すまで低賃金で死ぬまで働いて、それで死んだら終わりです。そんな人生のつかの間に、あるいは人生の終わりでもかまわないから、美味いものを食ってみたい、美味い酒を飲んでみたい、温かく柔らかい床で寝てみたい。それは貧しい人たちの悲願だったのでないかな、と私は思います。それをイエスは痛いほど感じ取っていたのではないだろうか、と思います。
 インドに、マザー・テレサが始めた「死を待つ人のホーム」という施設があると聞きます。路上で野宿していて、死にかけている人を運んできて、人生の最後に人間らしい食事をとってもらい、人間らしい床で寝かせ、死んだあとはその人の望んでいた宗教のやり方でお葬式をしてあげるそうです。
 そういうことをしていても、社会が大きくは変革されるというわけではありません。貧しく、飢える人がいなくなり、みんなが豊かな生活ができるというようなことにはすぐにはなりません。しかし、せめて人生の最後に人間として、人間らしく大切に扱われるように、というこの施設の願いは切々たるものがあります。そして、そういう事業を続けるためには、いくらかのお金、寄付金が必要です。
 イエスは、財産持ちの青年に、「もし君に、律法のなかでも一番大事な隣人愛というものを、本気で実行する気があるのなら、ここでお金を用意してくれよ」と言ったわけです。「つかの間の一時しのぎでいいから、お金を用意してくれないか。それが私の周りにいる貧しい人たちには必要なんだ」と。

私たちに欠けているもの

 イエスは、いろいろな人と飲んだり食べたりするのが好きな人でした。イエスのライバルたちが、彼のことを「見ろ、大食漢で大酒飲みだ」(11章19節)と呼ぶくらい、飲み食いが好きでした。
 そして、そんなイエスの食卓には、徴税人というヤクザのような人たちや、ユダヤ人の社会では「罪人」と呼ばれるような人たちがたくさん招かれました。
 そんな人づき合いのなかでは、例えば徴税人ザアカイのように、お金持ちもいたことでしょう。そして、イエスはそういう金持ちのシンパに施しをするよう交渉して、貧しい人たちを招いて一緒に食べようと誘ったりしていたのではないかと思います。
 ルカによる福音書19章1節以降の、ザアカイの物語では、彼は自分の財産の半分を貧しい人に施すと言っています(ルカによる福音書19章8節)。するとイエスは
「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言します(9節)。……ここで私は「あれ?」と思ったのですが、全財産でなくても、半分でもいいんですね。
 本日お読みした聖書の箇所では、イエスは
「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(19章21節)と言っています。完全になりたければ、とおっしゃるので、財産を全額寄付に回すのか? と私たちは受け取ってしまいます。しかし、そうは言いますが、私たちだって、まあいろいろ様々に経済的事情がありますから、持っているものを全部売り払えと言われたら、やっぱり明日からの生活には困ります。
 ですから、イエスの言う事をそのまま真に受けて、そのとおりに行動する事はできません。「完全になりたいのなら」と言いますが、私たちは完全にはなれないのです。
 私は、たぶんイエスは、誰も完全になることなんてできるはずがない、ということを知った上で言ったんだろうな、と思います。ザアカイは半分でよかったんですから。完全でなくても、全部でなくてもいいんです。
 あるいは、
マルコによる福音書の12章には、神殿での賽銭として、「一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた」(42節)という話があります。まあ、だいたい1クァドランスといえば、100円から150円くらいの感覚でしょうか。それを見てイエスは、彼女は「だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」(43?44節)と弟子たちに言いました。
 この貧しいやもめが本当に全生活費を入れたかどうか、本当のところを確かめずにイエスは言っています。しかし、イエスにとって大事なのは金額の問題じゃない、ということはよくわかります。
 金額が大きいからいいというわけでもない……。全部を施せなくてもいい……。結局、そこでその人にできる限りのことをすれば、それでイエスは喜んでくれただろうと思うのです。
 ですから、今日私は「あなたにひとつ欠けているもの」と題して説教をしていますが、本当は、イエスはそんな怖い事を言おうとしたわけではなかったと思います。
 持っているありのままで、この和みの食卓へいらっしゃい。さあ、いっしょに飲もう、みんなで食べよう……です。

お互い生まれてきてよかった

 イエスにとって大切だったのは、未来永劫に安楽な暮らしが続くといいな、などといった、お金持ちのボンボンの自己中心的な妄想ではなく、「今、ここで、いっしょに美味いものをいっしょに食おう、いっしょに美味い酒でも飲もう。それが今日のつかの間の楽しさであったとしても、いいじゃないか。明日の事を思い悩むのはやめよう。『明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である』(マタイによる福音書7章34節)」。
 それは、その日、そのときの、一回限りの集いになってしまうかもしれない。しかし、それはそれでいいじゃないか。今日、あなたと共に食卓をいっしょにできることがうれしい。あなたがそこに存在してくれていることがうれしい。お互い生まれてきて、よかったなあ。
 あえて私たちにもし欠けているものが何かというならば、まだ十分にこの食卓に招かれる人が、この日本では少ないということでしょう。しかし、それは、これから教会の可能性もまだまだ残されている、ということでもあるのではないかとも、私は思います。特に、これから、食べるもの、眠る場所に事欠く人が増えるであろう時代に、教会が世の光となるような働きができたらなあと思います。
 考えてみると、イエスがこの世で活動を始めた時、この世にクリスチャンは一人もいませんでした。また、イエスがキリスト教を作ったわけでもありませんでした。しかし、彼一人の行動から、やがて弟子が集まり、彼が死んでから、復活したイエスと出会うという体験が弟子たちの間に起こり、キリスト教が起こされてゆきました。そして初期のキリスト教会は、まさに温かい食事と、やわらかい寝床を、旅人に、また行き倒れかけた人に提供することから、日々の活動を広めてゆきました。
 ですから、私たちもこの日本という土地で、神さまの、そしてイエスの温かい食卓に招く人を、一人ずつ増やしてゆける可能性を信じて、ゆっくりと、でもしっかりと、日々を歩んでゆきたいものだと思います。
 お祈りいたしましょう。

祈り

 愛する天の神さま。
 本日は、日本キリスト教団蒲生教会において、こうして私たちで出会い、共にあなたの御前に礼拝をささげる事ができます恵みを、心から感謝いたします。
 私たちに命を与えてくださったことを感謝いたします。私たちを養い活かしてくださることを感謝いたします。
 どうか、私たちが、一人でも多くのこの世の人と共に生きている事を喜び合い、一人でも多くの人と共にあなたからの恵みを分かち合うことを行う、愛に満ちた人生を歩む事ができますように、どうか私たちを守り、導いてください。
 この足らざる感謝と願いを、主イエス・キリストの御名によって、お聞きください。
 アーメン。

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