それはあなたが言ったことだ

2005年2月13日(日) 日本キリスト教団香里ケ丘教会 聖日礼拝説教

説教時間:約30分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る

聖書:マタイによる福音書26章57〜68節 (新共同訳・新約)

  人びとはイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。
  さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。
  そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。
  「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」
  イエスは黙り続けておられた。
  大祭司は言った。
  「生ける神に誓って、我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」
  イエスは言われた。
  「それはあなたが言ったことです。
  しかし、わたしは言っておく。
    あなたたちはやがて、
      人の子が全能の神の右に座り、
    天の雲に乗って来るのを見る。」
  そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。
  「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。どう思うだろうか。」
  人びとは、「死刑にすべきだ」と答えた。そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。

「それは、あなたが言ったことです」

  今年もレントに入りました。教会では、イエスの受難と死を思い起こし、喪に服するときとされています。また、来たるべきイースターの復活の時に備えて、新しい自分、あるいは新しい教会に生まれ変わるべく、個人としての自分だけではなく、共同体としてのわが教会をも見つめなおし、罪を悔いて、改めて新しい年度を始める備えをする時期でもあります。
  今日は、いまからおよそ2000年前、苦しみを受けられたイエスの、ある言葉を掘り下げ、わたしたちとイエスの関係について、さまざまに考えてみたいと思います。

  新約聖書の最初の3つの福音書は、たがいに似通っている部分が多いので、「共観福音書」つまり「共通の観点を持つ福音書」と呼ばれてきております。できあがった時代どおりに並べると、古い順からマルコによる福音書、ルカによる福音書、マタイによる福音書、となります。
  この3つの福音書は、同じようなストーリィ展開で校正されているのですが、細かい部分で食い違いもたくさんあり、3つを比べながら読むと、いろいろ発見も多く、味わい深い聖書の読み方で、わたしはよくこの読み方をします。
  今回、わたしが3つの福音書を読み比べていて、興味を引かれたのは、本日司会の方に読んでいただいた、
マタイによる福音書26章64節、イエスが大祭司に「お前は神の子、メシアなのか」と尋問されて、「それは、あなたが言ったことです」という場面です。
  イエスは、彼の活動を大変うとましく思っていた、当時のユダヤ教の指導部が遣わした人間たちによって逮捕され、夜の闇にまぎれて大祭司の家まで連行されてきて、大祭司や祭司長たちをはじめ、律法学者たちに尋問を受けました。
  この尋問、深夜に行なうということ自体、実は違法です。また、証言者として呼ばれてきた者がそれぞれ食い違う証言をしている、という風に書かれていますが、ほんとうはこういう状況では死刑宣告をやってはいけないことになっています。
  ですから、この尋問は、是が非でもイエスという、この「出すぎた杭」というか、従来のユダヤ教の枠におさまりようのない、とんでもなく扱いにくい、しかし並外れた人気を集める弁舌家・運動家を、「とにかく消し去る」という目的で召集された、非合法の会議であったということです。
  そんな場所で、イエスは、彼に対する殺意に満ちた尋問に対して、ほとんどまともに答えず、黙秘を貫いています。
  そして、最後に、当時のユダヤ教の指導部、宗教政治・神殿政治の最高権力者である大祭司が、
「おまえは神の子、メシアなのか」と質問する。そしてイエスは、「それは、あなたが言ったことです」と言った、と記されているわけです。
  しかし、正直これは意味がつかみにくいですね。なんで、『そのとおり。わたしが神の子だ。参ったかー』と言わなかったのか。

「わたしがそうだと、あなたが言っている」

  いや実は、「おまえは神の子、メシアなのか」と質問されて、「そのとおりだ」と答えた、という記録もあるのですね。みなさんご存知でしょうか。マルコによる福音書では、全く同じ場面で、イエスは「そうです」と答えているのですね。
  
マルコによる福音書14章61〜62節ですね(お手元の新共同訳聖書では94ページ)。大祭司が「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言う。すると、イエスは「そうです。『あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る』」と答えた、書かれています。
  同じ場面なのに、どうして、マルコには
「そうです」と書かれている言葉が、マタイでは「それは、あなたが言ったことです」になるのでしょうか。
  ちなみに、ルカによる福音書ではどうでしょうか? 
ルカによる福音書22章67節以降(新共同訳聖書では、156ページ)では、もう少し手の込んだ話に仕立て上げられておりまして、ユダヤの最高法院の議員たちが「おまえがメシアなら、そうだと言うがいい」と迫ると、イエスは「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう」と答えたという前置きがありまして、それから敵が「では、お前は神の子か」と改めて訊くと、イエスは「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」と答えたという、少し凝った脚色がなされています。
  けれども、要するに、イエスが「わたしがそうだと、おまえが言っているだけだ」という物の言い方をしている点では、マタイといっしょです。
  共観福音書では、3つに共通する記事がある場合には、だいたいいちばん最初にできたマルコから、マタイもルカも引用してきた場合が多いといわれています。ですから、だいたい同じような言い回しが出てきても不思議ではないのですが、ここでは、引用された側のマルコだけが「そうです」と書かれていて、引用した側のマタイらが「それは、おまえが言ったことだ」という、まぁある種、冷たく言い放ったような言葉になっているのはなぜでしょうか。
  実はこれ、マルコによる福音書じたい、イエスのせりふについては、「そうです」と言ったと伝えられている写本と、「わたしがそうだというのは、おまえが言うことだ」というセリフが伝えられている写本の2種類があって、そのどちらが本当のオリジナルに近いのか、その可能性は五分五分くらいの確率なのだそうです。(参照:田川建三『イエスという男』)
  もし、「わたしがそうだというのは、おまえが言うことだ」というセリフのほうがマルコのオリジナルだったという説を採用するとすれば、ルカはそのままそれをマルコから写したことになりますし、マタイはそれを省略して、「お前はそう言った」と書いたと考えられないこともありません。まぁこれも不自然と言えば不自然ですけど、「そうです」と書いてあるのを、「おまえはそう言う」といい風に言い換えるほうがもっと不自然なので。
  それに、マタイが省略して「お前はそう言った」という単純な形にしたことにも、理由がありそうなのです。それは、つぎに紹介するように、マタイは3ヶ所にわたってこの言い回し「お前はそう言った」、という言い方で統一しているので、これもこれで、マタイなりに創作の意図があったと考えられるわけですね。

「と、おまえは言う」

  たとえば、最後の晩餐の最中に、イエスが、裏切り者の登場を予告します。すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが、「先生、まさかわたしのことでは」と言います。すると、イエスは、「それはあなたの言ったことだ」と答える。同じ口調です。直訳すると、「おまえが言った」ですから、まぁこんな感じでしょうか。
  「先生、わたしのことでは?」
  
「と、おまえは言う……」
  この口調でイエスは、深夜の大祭司の邸宅で、大祭司をはじめとして、祭司、律法学者たちに囲まれて、
  「おまえは神の子、メシアなのか?!」
  
「と、おまえは言う……」
  そしてさらには、ローマから派遣されてきていた総督ピラトの前に引きずり出されて、ピラトが尋問することに、
  「お前がユダヤ人の王なのか」
  
「と、おまえは言う……」
  このように、合計3ヶ所、マタイでは「おまえは言う」という言い方に統一されています。
  ですから、たぶん、マタイが見た版のマルコによる福音書には、「わたしがそうだと、おまえは言う」と書いてあって、それを写す際に、マタイは、他の物語でも伝わっている「と、おまえは言う」という口調に合わせて、ちょっと省略して写したのではないか。
  そして、ルカはそういう作為をしないで、そのまま略さないで「わたしがそうだと、おまえが言う」と写したのではないか、と考えられるわけですね。
  ……話がややこしくなりすぎましたでしょうか?(笑)
  この最後のピラトの尋問のところでは、マルコも
「おまえは言う」、マタイもルカも「おまえは言う」と、そろってます。

マルコ ルカ マタイ
最後の晩餐 弟子たち 「まさかわたしのことでは」
イエス 「わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」
イエス 「見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている」 ユダ 「先生、まさかわたしのことでは」
イエス 
「それはあなたの言ったことだ」
大祭司の尋問 大祭司 「お前はほむべき方の子、メシアなのか」
イエス 「
そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」
最高法院議員たち 「では、お前は神の子か」
イエス 
「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」
大祭司 「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」
イエス 「
それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたがたはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」
総督ピラトの尋問 ピラト 「お前がユダヤ人の王なのか」
イエス 
「それは、あなたが言っていることです」
ピラト 「お前がユダヤ人の王なのか」
イエス 
「それは、あなたが言っていることです」
ピラト 「お前がユダヤ人の王なのか」
イエス 
「それは、あなたが言っていることです」

イエスの口ぐせ

  しかし、考えてみますと、そもそもイエスが逮捕されて、ユダヤ最高法院の中でどんな会話を交わしたか、どんな受け答えをしたかなんて情報が、イエスの弟子、すなわち後のキリスト教会の関係者に正確に伝わるはずはないのですね。
  とすると、この大祭司の尋問にしろ、ピラトの尋問にしろ、かなりフィクションの部分が大きいだろうと考えざるを得ない。
  そして、フィクションとして再構成するにしても、やはり普段から「こういう質問をされたときには、イエス様はよくこんな風にお答えになっていたなぁ」という記憶があって、再構成した可能性が高いだろうという風に考えることができるわけですね。
  すなわち、「あなたは神の子、メシアなのですか」と、生前いろんな人に尋ねられるたびに、よくイエス様は「と、あんたは言うわけだ」というような受け答えをよくしていた、と。はぐらかしているわけですね、「あんたはそう思うのかい。で、じっさいどうなんだろうねぇ」というようなニュアンスですよね。
  あるいは、敵対する律法学者や祭司たちが、「おまえ、メシアにでもなったつもりか」とヤジると、「そう言いたければ、そう言え」と返す。
  そういう場面を、イエスの周囲の人びとはよく見ていたのではないか、「おまえはそう言う」というのが、イエスの口癖だったのではないかと推測することもできるのであります。

「人の子」か、ただの死刑囚か

  イエスが自分のことを神の子と思っていたかどうかについては、過去、さまざまな神学者が論議してきています。
  昔は、当然のように、「イエスはご自身が神の子であられたにも関わらず、自らを低めて地上にくだり、人として苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ……」と言った風に言われておりました。
  そしてちょっと前までは、その反動でか、「イエスは人間であり、自分が神の子であるなどとは、本当は思っていなかった。福音書の中に、まるでイエスが自分が神の子であるかのように語っている場面は、全て後のキリスト教会の創作である」という風な考えも出回りました。
  わたしも、もう神学部を出てから何年もたってしまいましたので、現在の最新の学説がどうなっているのかは、神学生の方のほうがお詳しいとは思いますが、最近の考え方としては、「イエスはまぎれもなく人間である。そして、当初は自分が神の子であるなどとは少しも思っていなかったが、彼の活動がしだいに多くの人に影響を与え、当時のユダヤ教の権力体制から目をつけられ、追い詰められ、生命の危険を感じるようになっても、なお逃げることもできず、おのれの活動をやめることのできない状況に追い込まれてゆく運命の中で、次第に、自分が特別な使命をおびて生き、死ぬという役割を、神から与えられているのかもしれないということを悟っていったのではないか」ということになっているようです。
  すなわち、「人の子」。
「人の子」というのは、旧約聖書のダニエル書に書かれているような(7章13節)、この世の終わりに天の雲に乗ってやってくると、当時伝えられていた天からやってくる存在ですね。
  イエスが自分を、その来るべき「人の子」になる人間なのか、確証がどこまであったかは計りがたいにしろ、自分の追い詰められた運命の中で、ある程度はそのつもりになっていただろう、と。
  そして、そのようなイエスのそばにいた人たちが、イエスの生涯の最期の日に、イエスを殺す者たちとの対話がどのようになされたのか、あらんかぎりのイエスに関する記憶と、そして想像力を駆使して描いた場面……、本日の聖書の箇所、
マタイによる福音書26章63節、64節。そこで、イエスは言うわけです。
  大祭司 「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアか?!」
  イエス 「わたしがそうだと、おまえは言っている。
(すなわち、「そう言いたければ、そう言え」)」
  大祭司は絶句する。その後、間髪を入れず、
  イエス 「しかし、言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見るだろう……!」
  これが、「夜が明けたら、もう自分の命は無い」と悟った男が、絶体絶命に追い込まれた状況で、怒りも悲しみも絶望も希望も全てが、混濁した精神状態で発した叫びとして、初期のキリスト教会が描き出したイエスの姿であります。
  その時、イエスは、「俺はこのまま死んですべてが終わるのか、それとも死の直前に神が助けに来て、『人の子』となって天に上げられ、そしてやがて本当の終わりの時に、天から降りてくることになるのか」、その確率は五分五分、「ひょっとしたら神が自分の働きを顧みてくださるかも知れない」という期待と、「俺はただの犯罪者として殺されて、それで終わりなのか」という絶望の間で揺れ動いていたでしょう。
  そして、その結果を、彼自身がどう悟ったのか。
  それは、十字架につけられ、上げられたときに、彼が発した断末魔の叫びのなかに集約されています。
  
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ!」(わが神、わが神、なぜわたしを見捨てたのですか!)(マタイによる福音書27章46節、マルコによる福音書15章34節ほか)

「そう言いたければ、そう言え」

  後のキリスト教会は、イエスのこの残酷な死を、そのままに受け止めることに耐えられず、イエスはやがて天から「人の子」として再びやってくるために、死んで天に上げられたのだ、いう風に宗教的な意味づけをして、イエスの死を美化して記憶にとどめようとしました。
  今の時代においても、わたしたちは、自分たちにとって大切な人を失ったとき、そのようにしてその死を美化された物語のなかにはめこもうとするときがあります。
  しかし、わたしは、このレントというイエスの死を厳粛に受け止める季節であるからこそ、イエスの死を甘く美しい宗教的な物語のなかに織り込んでしまうのではなく、事実どんな暴力がこの一人の偉大な人物に加えられたのか、そしてその暴力はいま私たちも地球上のどこかで行なわれているのではないか、ということを見つめ、考えるときにしなければならないのではないか、と思うのです。
  「イエスさま、あなたは神の子です」「イエスさま、あなたは私たちの罪をつぐなってくださるために、死んでくださいました。あなたは、大いなる救い主です」
  「おまえがそう言いたければ、そう言えよ。でも、わたしがそうだったとしても、そうでなかったとしても。やがて人の子は来る。その時には、何が神の御心にかなうことか、そうでないか、全てがはっきりするだろうよ」……それが、イエスが言っていたことです。
  いま、この世にイエスが生きて、話しておられたら、こんな風に言ったかも知れません。
  「わたしが神の子? それは、あなたが言っていることだ」と。
  簡単にイエスを神に祭り上げてしまう前に、わたしたちは、かつてイエスを殺したような暴力、社会の型にはまらない異質な者を排除し、抹殺してしまおうとする暴力が、イエスの死後2000年たっても、解決できずに存在していることを見据えないといけません。
  殺すところまで行かなくても、誰をも受け入れ、尊びあい、活かしあうことができていなければ、教会でさえも神の御心からは遠い、ということを、私たちは知らなければなりません。それを黙認しながら、「イエスさま、あなたは神の子です」とあがめ奉っても、何の意味もありません。
  祈りましょう。

祈り

  愛する天の御神さま。
  イエス・キリストの死を想う、受難節が今年もやってまいりました。
  イエスを死にいたらしめた、かたくなな人間を、どうかお赦しください。
  この世に生まれた全ての人が、あなたに愛された子であることを忘れ、たがいにいがみ合い、排除しあう、情けない私ども人間を、どうか赦して下さい。
  そして、どうか、悔い、改めさせてください。
  この貧しき祈りを、人間の謀略によって殺された荊冠の主、イエス・キリストの名によって、お聴きください。
  アーメン。

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール