誰がそれを教えたのか

2003年10月19日(日)キリスト教学校教育同盟関西地区・新人教師研修会・主日礼拝説教

説教時間:約15分……パソコンに取り込むか印刷してからゆっくりお読みください。

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聖書:ヘブライ人への手紙 12章12−13節(新共同訳・新約・p.417)

  だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

山の話

  朝からちょっと血なまぐさい話をします。でも、どんくさい話です。モトネタはうちの中学校でも話した話なのですが、今日はテーマが違うお話です。
  わたしは高校山岳部の顧問をやっておりまして、今年の夏合宿は南アルプスを、6日間テントをかついで歩いてまいりました。
  ところが、去年買った新しい登山靴、去年もあんまり足に合ってないなーと思っていたんですが、今年その合わなさぶり(と言うんでしょうか?)がひどくなってきて、歩き方も悪かったんでしょうけど、2日目に靴ズレを起こしました。
  応急処置はしたのですが、見る見るうちに靴ズレは広がりまして、その日が終わる頃には、両足のかかとの皮が500円玉より大きくむけてしまって、皮膚の中身が見えるような状態になりました。当然痛くて痛くてたまりません。
  3日目、むけたかかとに薬塗って救急パッドを貼って歩き始めましたが、それでもかかとをヤスリで削り取られていくような痛さ。そのまま一日7〜8時間歩き続けた頃には、頭が朦朧としてまいりました。
  で、その夜、テントで寝袋にくるまりながら考えました。
  「このまま明日、みんなと同じペースで歩きつづけることは不可能や。明日、計画通りのコースを歩けば、かえって迷惑をかけることになる。かといって、明日、途中でおりるルートを逃したらあと3日間は歩きつづけないと下界に下りることができなくなってしまう。どうしよう……」
  一人でも怪我人が出て、予定を変更して下りるということになれば、その時は全員で下りるというのが基本です。生徒の部員が怪我をしてコース変更したことは今までありましたが、顧問の自分がコース変更の原因になるというのは、困ったことです。
  特に高校3年生は最後の合宿になるわけで、これまで先輩たちがやってきたよりも長いコースにチャレンジしようと前々から計画を練ってきて合宿でした。ここでコース変更なんて言えんわなぁ……。
  で、結局、当初の計画を貫徹する決断をしました。その代わり、確実に歩くスピードが落ちるので、本隊よりも早く出発することにしました。
  翌日は、途中下山する最後のチャンスとなるルートを横目に見ながら、「ああーこれで3日間泣きながら歩くことになるなぁ」と絶望的な気分になりながら通過しました。

子どもたちの声

  本隊より早めに、朝の4時に出発し、独りで歩き始めたのですが、2時間も歩くと、あまりに痛くて、道に立ち尽くして泣きました。
  しかし、泣いても道は進んでくれないです。だから、また歩きます。
  痛みをゴマカすために「うー」と唸ったり、「うー神さまー何とかしてー」と祈ったり、子どもの顔を思い浮かべたりしました。
  子どもらのイメージはわりに効きました。うちには娘が3人いて、3人とも幼稚園児なんですが、この3人がいつも「パパ、大好き!」言うてくれます、今だけでしょうけど。
  この3人がパパを応援してくれている、という想像をすることにしました。「パパー、ガンバレー!」「パパー、負けるなー!」
  2時間くらいそれで持ちました。でも2時間以上は「パパー、ガンバッテー」では飽きるんですね、悪いけど。で、また苦しくなりました。
  昼頃には本隊に追い抜かされ、次のキャンプ地に到着したのは、本隊より2時間遅れで午後4時ごろ。実に12時間、血と膿にまみれた足を登山靴に包んで歩いたことになります。もうその日の経験は「痛み」が全て。「痛み」しかない。わたしは到着した小屋で自分の感情さえも意識できず、涙が出るのを止めることができませんでした。

やさしい言葉

  そしていよいよ最終日、「歩くとは痛いことなり」と悟りを開いた気持ちになり、無心で朝暗いうちから歩き始めました。
  かかとのほうは、もう皮膚がえぐれて神経も死んでしまったのか、しびれるような感覚しか残っていませんでした。むしろ、下り坂に入り、変な歩き方をしてきたせいか、親指に負担がかかって爪がはがれかけ、また、右足のじん帯も痛めて、ひざを曲げると悲鳴をあげたくなるぐらい痛くなってきていました。それで、杖を使って体重を分散しながら、必死に進みました。
  必死に進んでも、どんどん遅れていきます。たくさんの人が追い越してゆきました。追い越してゆきながら、かならず声をかけてくれます。通りすがりのオバサンやオジサン、若い人も、みんな声をかけてくれるし、すごく心配してくれるのがわかるから、なんとなくうれしくなってきました。
  「大丈夫か?!」「痛いでしょう」「あとどれくらい行くの?」「タオルを巻いたらどうかな」「テーピング用のテープは持ってる?」「たいへんだろうけど、がんばってね。もうすぐだからね……」
  励ましてくれた一人のおばさんは、心配そうに後ろを振り返り、振り返り、進んで行かれました。
  誰もこんな大男を担いで下界まで運ぶことはできませんから、自分の体は自分で運んでいかなあきません。誰もぼくを助けることはできません。しかし、その優しい言葉だけでも、じゅうぶんうれしかった。本当につらい時には、やさしく言葉をかけてもらえるだけでもうれしいもんだと実感しました。

教えたのは誰か

  いろんな人に励まされながら、追い越され、うだる暑さの中、わたしは寂しく山道を歩き続け、ついに最終目的地のキャンプに到着しました。
  落武者のようにボロボロになったぼくが、フラフラとキャンプ地に現れると、ワーッと歓声と拍手が湧き起こりました。「おーこれやこれや、運動会でビリになった子に送られる拍手や、懐かしいなァ」。
  先にわたしを追い抜かして到着していた人たちが、ぼくの姿を発見して「おかえり〜!」「よくがんばった〜!」「おめでとう〜!」と駆け寄ってきてくれました。
  さて、ひとりのおばさんが目に涙を浮かべて、近づいてきました。心配そうに振り返り、振り返りしてわたしを励ましてくれたおばさんです。そのおばさんが、わたしの手を両手でぎゅうっと握りしめて、叫びました。
  「ありがとう! わたしはあなたにとっても大切なことをおしえてもらいました! ありがとう!」
  「なんやねん、なんやねん?」と思いました。ぼくはなんにも教えてませんよ、ただただ痛くて泣くのをガマンして歩いてただけです。
  それに、これは決して怪我にもめげず頑張りました、という美談にはならないです。そもそも登山靴が自分には合わないのは、忙しくて時間がなかったので、専門店でなく近所のスポーツ用品店であわてて適当な、「これカッコエエわ」と思って選んだ。本当に足に合うかどうかよりカッコイイかどうかを優先したことが、結果的にはカッコワルイを通り越して命取りになったという話です。
  でも、泣いても愚痴を言ってもいいけれど、歩くのをやめるというのは山の中で死ぬということですから、死にたくなかったから、歩いてたというだけのことです。

  けれども、なんとか最後まで歩ききったとき、一人の登山者がそれを見ていて、「なんか大事なことを『教えられた』」という気持ちになったらしい。
  ひょっとしたらそれは、その人自身が何かしんどいものを抱えていたのかも知れない。
  でも、なんかどんくさい若いもんが、うんうん唸りながら足を引きずって脂汗たらして、たくさんの人に追い抜かされながら、少しづつ進んでいるカッコ悪い姿を見た。自分に似たものを感じられたのかもしれません。
  わたしはそんなことは一切関知しておりません。自分のことで精一杯。しかしオバサンが何かを教えられたと感じたのが本当なら、それを教えたのは誰かなと思う。
  わたしはそういう自分の予想を越えたところで、何かを告げてくれる見えない働きもあるんだな、と思います。

意図せざる学び合い

  もうひとつ、うれしかったこと。それは、この時いっしょに登った山岳部の部員の中に、わたしが授業を担当している学年の生徒がいました。
  わたしは聖書の授業を担当していますが、この学年の授業では毎回小さなレポートを書かせています。
  この授業の中で、最近わたしは「キリスト教は『逆説の宗教』である」という話をしました。
  「イエスは『飢えている者は幸いである』とか、『泣いている者は幸いである』とか、『迫害されるときに喜べ』とか、普通の感覚では理解しにくいような変なことを言っているように見える。でも、イエスの言葉はみんな『逆説の言葉』なんや。自分が逆境の時ほど、『神さまありがとうございます、おかげでわたしは強くなれます』言うて喜ぶんや、ワハハわかるか」と話しました。
  その授業の小レポートで、彼はこんなことを書いてきました。
  「キリスト教には(中略)決して崩れきらないねばりがあり、その雰囲気だけでも長く、人の心にとどまりそうな感じがする。(中略)できれば力強く生きてゆき、逆境にあってもねばり強く生きてゆきたい。強く、強く……」
  何もわたしの姿を見てこういうことを書いたというわけではないとは思いますが、少なくとも、わたしが言葉で教えた以上のことを彼は学び、また彼の言葉によってわたし自身も改めて、そうだなぁキリスト教は根性とねばりの信仰やなぁ、と再認識したり、という学び合いが起こったことがうれしいのです。

スローな命の献げ方

  教師は教える仕事ですが、時には教えようとしていることを越えて、あるいは教えようとも思っていない時にも、相手が何かを知る時があります。そんな偶然が働く余地があるのだということを、心のどこかに留めておきたいと思います。
  子どもたちはわたしたちよりもあとから人生の山道を歩き始めていますが、やがてわたしたちを追い越して歩いてゆくでしょう。追い越されつつも、どんな歩き方をしているのか、追い抜く子どもたちはわたしたちの歩き方を見ています。
  見えない力が、なにかを人に教えるとき、わたしたちはその見えない真の教師が用いるための、よき教材でありたい。そのように願い、真摯に生きていきたいと思います。

  ヨハネによる福音書15章13節に、「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という御言葉がありますが、わたしたちは誰でも自分の命を他人のために献げることができると思うんです。
  「命を捨てる」「命を献げる」と言っても、何も取り立てて死に急がなくても、歩いていればいつかゴールが来るように、いつかわたしたちの命も皆かならず神さまに呼び戻されます。
  それは明日かも知れないし、何十年先かも知れませんが、必ずいつかはわたしたちは命を失います。
  それまでゆっくりと時間をかけて、自分に与えられた命の時間を献げればいい。
  すなわち「スローな命の献げ方」というのもあると思うんです。
  スローでも、カッコ悪くてもいいから、命の限り生きているという大人の姿を、子どもは必ず見てくれていると信じて歩みたい。そう思います。
  祈りましょう。

祈り

  愛する天の御神さま。
  今日ここに、あなたのもと、関西地区のキリスト教学校で働く事となった新人の先生方と、共に主日の礼拝を献げることができます恵みを感謝いたします。
  あなたに与えられた命をせいいっぱい生き、わたしたちのもとに、わたしたちの後からあなたによって送り出されてきた魂たちのために、わたしたちができることを十二分にさせてください。
  そのための勇気と力を与えてください。
  この祈りを、愛する主イエス・キリストの御名によって、お献げいたします。
  アーメン。

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