何ゆえに死したのか

2008年3月18日(火) 日本キリスト教団香里ケ丘教会 受難週祈祷会奨励

説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:マルコによる福音書6章34〜43節 (新共同訳・新約)

  イエスは舟から上がり、大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
  そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べるものを買いに行くでしょう。」
  これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
  そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
  イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
  すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。

何ゆえに死したのか

  今週は受難週です。イエスがこの世で苦しみを受け、命を散らしたことを思い起こすときです。
  イエスは一体なんのために、どういう理由で、十字架で死ぬことになったのでしょうか。
  一般的にキリスト教会の中では、「それは我々人間の罪を贖うために、イエスはご自分の命を差し出されたのだ」というのが模範解答とされます。
フィリピの信徒への手紙2章の6〜8節にも書かれてありますが、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」というのが、教義としては正しいということになります。
  しかし、少し意地悪いものの考え方をすると、これはいわば後付けの理由です。じっさいには、イエスという大いなる教師がいて、そのイエスがすさまじい殺され方をした。そのためにイエスの弟子集団は、ひとたびは離散し、ある者は絶望の淵に沈みこみ、ある者は後悔の念にかられて泣いた。しかし、彼らはイエスの死に意味を見出すために、イエスの死を解釈して意味を見出した。その結果、彼らが見出したイエスの死の意味というのが、「イエスは贖罪の子羊であった」という解釈なのでしょう。
  「イエスは人間の罪をあがなうために、命を捨てられた」というのは、弟子たちによって後から付け加えられた解釈なのであって、それが、イエスが殺される原因であったということは言えないのです。
  なぜイエスが殺されたのか、殺されざるを得なかったのか、ということを考えるうえで、「その死にはこういう意味がある」という後付の解釈をするのではなく、「イエスはどんな生き方をしたから、捕まって殺されたのか」ということにさかのぼって考えることも大切なことではないかなと思います。
  つまり、イエスの死を問うことは、イエスの生き様を問うことになるわけです。

生の帰結としての死

  イエスを殺そうとたくらみ、逮捕し、偽の裁判にかけた人びとは、当時のユダヤ教の指導者層でした。
  イエスは特に新しい宗教を起こそうとしたわけではありませんでしたが、当時のユダヤ教に支配された社会の慣例を破るようなことばかりを実行しました。
  とくに、「だれと食事を共にするか」という問題に対するイエスの態度は、当時の支配者たちには耐えられない逸脱行為に映りました。
  当時、いっしょに食事をするということは、その人と自分が特に親しく、利害も一致し、社会的地位もお互いにふさわしいということを、社会に対して示すことにつながっていました。
  したがって、自分にはふさわしくないと思われる地位の人間とは、決していっしょに食事を取りませんし、近づくだけでもケガレがうつると考えられていました。
  特に、ユダヤ教の中でも、サドカイ派やファリサイ派というのは、他の人びとと自分たちがいかに違うかということを強調し、決して自分たちの仲間内以外の人間と、食卓を共にするなどということはしませんでした。
  しかしイエスは、そのように人と人の間に境界線を引く体制に反抗しました。イエスは誰でも招いて食事をする人でした。中でも、ユダヤ人にとっては異教徒の国である、ローマ帝国に納める税金を集める、民族の裏切り者、すなわち罪人とされていた徴税人や、日常的に体を売って生計を立てざるを得ない娼婦といった人びとと、何度もいっしょに食事をし、酒を飲み交わしました。
  それだけでも当時としてはかなり掟破りなのですが、それに加えて、彼は祭司長や長老たちといった人びとに、
「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちのほうが、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(マタイによる福音書21章31節)とまで言い切りました。
  これに対して、イエスのライバルたちは、イエスに向かって「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイによる福音書11章19節)と攻撃しました。逆にこういうライバルたちからの言葉から、じっさいイエスが、当時「罪人」と呼ばれていた人びとと、ひんぱんに飲食していた様子がうかがえます。
  こういうイエスの行いに対して、イエスのライバルたちは、食事の規定が「乱れる」と感じたのでしょう。そしてそれは自分たちの社会を支配している秩序を崩壊させる、と考えたのでしょう。そこで、この掟破りの大酒飲みの大食漢を、なんとかして抹殺しようと企てたわけです。
  なぜイエスが殺されたのか。それは、当時「罪人」と呼ばれた、「神に呪われている」あるいは「神を冒涜している」、「ケガレている」といわれた人びとこそが神に愛されていることを説き、そういう人びとと何度も食事をして掟や慣習を破っていったからです。

開かれた食卓の意味

  さて、今日お読みしました聖書の箇所は、5000人に食べ物を与えるという物語です。たいへん有名なお話です。イエスの受難の物語を別にすれば、唯一4つの福音書すべてに収められているエピソードです。この物語は、イエスがどんな人びとと食事を共にしたのか、ということを示しています。
  それは実際に、5000人以上の人びとがパン5つと魚2匹で満腹し、それでもパン屑を集めてみると12の籠にいっぱいになったという事実があったことを伝える物語ではなく、もっとイエスと教会にとっての本質的な部分を伝える象徴がちりばめられた物語です。
  イエスは、
「大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」(マルコによる福音書6章34節ほか)、食事を分配したと書かれています。
そして
41節「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された」と書かれている部分は、初期のキリスト教会における聖餐式の場面を思い起こさせるように、書き込まれています。
  イエスは「大勢の群集」を招きました。つまり、自分といっしょに食事をする相手をえり好みしませんでした。「お腹をすかせている人は、誰でも自分のもとに来なさい」と招いていました。そしてそのような全ての人に開かれた食卓の延長線上に、聖餐があるのだ、ということを、この物語は示しています。
  またイエスは、集まっている群衆が空腹を覚えるのに気づいた弟子たちが、
「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べ物を買いに行くでしょう」(36節)と言うのに対して、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(37節)とイエスは答えています。
  つまり、ここでイエスが教会に対して期待しているのは、誰でも、どんな人でも、教会という世界になじみのない人でも、もてなして食事をさせなさい、というホスピタリティなわけです。
  パンが5つと魚が2匹というのが何を示しているのかは定かではありませんが、パン屑が12の籠にいっぱいになったというのは、12人の使徒のことを指しているという説があります。
  といいますのも、この5000人の給食のお話より2枚ページをめくると、今度は4000人の給食の話が記されています。そちらのほうでは、残ったパン屑は7つの籠にいっぱいになった、と書かれています。
  これは、初代の教会で
「ヘブライ語を話すユダヤ人」のためには12人の使徒がおり、「ギリシア語を話すユダヤ人」たちのためには7人の奉仕者が与えられたという事情が反映しているからであろうと考えられるからです(使徒言行録6章1−7節参照)。この人たちが、初期の教会の食事の世話をやっていたわけですが、それが後の聖餐式のもとになったのですね。

開かれた食卓と閉じられた食卓

  いま、日本キリスト教団では、聖餐が洗礼を受けた信徒だけに与えられるものなのか、信徒以外の人にも与えられてよいものなのか、について、激しい論争が広げられています。
  聖餐は洗礼を受けた信徒だけが与るものである、という考え方を仮に「クローズ」と呼び、信徒に限らず、そのとき礼拝に参与している人びとは、本人が希望しさえすれば誰でも聖餐に与ることができるという考え方を仮に「オープン」と呼ぶとします。
  聖餐はクローズでなければならないと考えている人たちは、オープンにする牧師や教会が増えてきていることについて、「教団の聖餐が乱れている」と激しく怒っており、昨年は教団の常議員会から、オープンであることを公にした牧師に対して、「退任勧告」と出すという事態も起こりました。この騒ぎは今後しばらく尾を引くことになると思います。
  クローズを主張する人びとがもっぱら根拠にする聖書の箇所は、イエスの死の直前の、いわゆる「最後の晩餐」の場面です。イエスと弟子たちの別れの食事という位置づけで福音書に記されてあります。
  しかしそれでも、たとえばイエスがぶどう酒の入った杯を手にとって語った台詞ひとつとっても、福音書によってはオープンに解釈できる場合もあれば、クローズであったりもします。
  マルコとマタイでは、
「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マルコ14章24節、マタイ26章28節参照)とイエスが言ったことになっていますが、ルカでは、「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22章20節)とイエスが言ったことになっています。「多くの人のため」なのか、それとも目の前にいる弟子たちだけを指して「あなたがたのために」と言ったのか、それだけで、オープンにもクローズにも根拠があるということになってしまいます。
  また、5000人の給食や4000人の給食の場面でも、やはりイエスが儀式的にパンを分配し、魚を分配する、という聖餐式の要素が書き込まれているということは、やはりイエスの食卓は全ての人に開かれていると解釈すべきではないのか、ということが考えられるわけです。

解放者の死

  イエスが目指していたのは、神の国の先取りでした。彼は、その宣教の最初から、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書1章15節)と人びとに呼びかけました。
  そして、たとえば食事ひとつとっても彼は、社会的地位がない人も、貧しい人も、差別されている人も、病気の人も、障がいを持った人も、罪を犯した人も、分け隔てせずにいっしょに飲み食いをしました。
  神の国ではみな揃って同じ食卓につけるのだということを説き、その先取りとして、自分でもそういう食事を実践していたわけです。
  
ルカによる福音書14章13〜14節では、イエスはこんな風に語っています。「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」
地  位のある人や、お金を持っている人たちが、あるいは信仰的に熱心な人が、「あの人はこの場にはふさわしくない」とか、「この人には資格がない」といって嫌がるような人こそが、神の食卓には招かれている。それがイエスの主張です。
  「ふさわしくないままで、あなたは招かれているのだ」というイエスのメッセージと実践は、それまで「自分には何の価値もない」、「自分は神に見放されている」と思っていた人びとを、再び奮い立たせ、自尊心を取り戻させ、生きてゆく勇気を与えました。
  そうして、イエスの周りには、イエスの救っていただいた人たちが集まり、イエスについてゆくようになり、1930年にインドのガンジーが起こした「塩の行進」に多くの人が参加していったのと同じように、イエスを中心としたグループがエルサレムに入っていたのでしょう。
  イエスに解放された者たちの集団がエルサレムに押し寄せてくる。それだけで、当時の支配者たちは恐ろしい思いをしたでしょう。そして、何とかしてこの危険分子を排除しなければならないと考えたでしょう。その結果、イエスはとらえられ、処刑されました。
  しかし、これは今から2000年も前の、特殊な時代状況の中でのみ起こったことではありません。イエスを殺したのと同じような暴力が、イエスを信じているはずの教会においてさえも行われることがある。
  組織の秩序を守ろうとするがゆえに、個々人の自由を奪い、イエスのように開かれた共同体を作ろうとする解放者を抹殺する。そういうことは現に私たちの教会のなかで起こっています。
  イエスを殺したのは、私たち自身の中にもある暴力なのだ、という省みが、私たちには必要なのではないのか、と思います。
  祈りましょう。

祈り

  愛する天の神さま。
  御子イエスの受難をおぼえ、深く私たちの心と行いを省みる時が与えられていますことを、感謝いたします。
  イエスを死においやった暴力は、今もなお、私たちの中にあります。そのことに気づき、悔い改め、赦しあう寛容の心を育てることができますように。
  この祈りをイエス・キリストの名によって、お聴きください。
  アーメン。

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