「あなたしかいないU:あなたがいなくても」

2000年9月24日(日)日本キリスト教団香里ケ丘教会・聖日礼拝説教

説教時間:約25分……ダウンロードしてゆっくりお読みください。

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聖書:マルコによる福音書10章1〜12節(離縁について語る)(新共同訳・新約・p.80−81)

 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群集がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたがたに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

お江戸でござる

  NHKの『お江戸でござる』という番組をみなさんご存知でしょうか。わたくし、あの番組が大好きでして、特に夏休み期間中などは、家族が全員里帰りして家にいないので、毎週見ておりました。
  その『お江戸でござる』で、ある日、江戸時代の「三行半(みくだりはん)」について紹介していたことがありました。文字通り3行半くらいの短い文書で、「この人は本日限りで離縁いたしましたので、本日以降この人については私は一切の権利も責任も持ちません」、というような内容が書いてある。要するに、離縁したあとの相手の行動を一切束縛しません、つまり再婚許可証のような意味合いをもっていたそうです。
  女性の人口が比較的少なかった江戸では、決して離縁・再婚は恥ずかしいことではなく、逆に妻に逃げられるような夫は旦那失格であり、過去に結婚していたことのある女性は、経験豊富だという事でたいへん重宝がられ、再婚に困るなんて事はなかったといいます。
  妻の地位が圧倒的に夫よりも低かったのは、男性が家名や家督を相続する武士や公家階級だけで、一般庶民には家制度もないし、働いていた女性も多かったし、逆に男の方が、子守りが上手だとか、炊事・洗濯が得意であるとか、何かとりえがないと縁談もうまくすすまないといった世の中であったそうであります。

ユダヤでござる

  さて、ユダヤの律法にも、この江戸の「三行半」に相当するものがあります。それは申命記24章1節に記されております(新共同訳・旧約p.318)。

  「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」

  この「離縁状」がユダヤ教での、いわゆる「三行半」であります。
  そもそも最初にこの離縁状という規定がユダヤ人の間で生み出された時の趣旨は、江戸の「三行半」同様、離縁された女性がその後自由に再婚できるように、という再婚権利証のようなものであったろうと言われております。この「離縁状」を持っている事で、この「女性が夫と別れたのは、夫側の都合による」ということを明らかにする、つまり彼女に原因があったわけではないと証明するためのものでした。
  ところが、この律法は永い歴史を経るうち、その運用をめぐって、当初の目的よりもはるかに低いレベルの論議がなされるようになりました。すなわち、「妻に何か恥ずべきことを見いだし」とある、この「恥ずべきこと」というのは、一体何が該当するのか、どこまでの範囲を言うのか、という事について、ユダヤ教のラビたちは議論しつづけたのでした。
  ラビの論議が判例と同じような効力をもってくるわけですが、記録によれば、あるラビは「夕食の料理を焦がすのは、恥ずべき事である。よって離縁の理由となる」と論じ、またあるラビは「屋外で無断で夫以外の男性と話をしたら、恥ずべき事である」と論じました。
  ひどいものになると、「妻が若くなくなって、その容姿が気に入らなくなり、他の女性のほうがよくなったら、離縁してもよい」と大まじめに論じたラビもいます。
  加えて古代のユダヤでは、離縁された女性は「汚れた女」(レビ記21章14節参照)、いわば中古品と見る見方があり、いいなずけが幼い頃から決められるユダヤの社会では、再婚の目途が立つのはごくまれでした。
  再婚できなければ、父のもとに帰るしかありませんが、イエスが生きておられた当時の男性の平均寿命でも35〜40歳程度であったそうであり――そういう意味では、イエスも十字架にかけられたときは、結構当時としては歳だったということになるわけですが、この話は本日はおいておくとして――男性の平均寿命はそういう具合でしたから、したがって、家に出戻っても早々に父親に死なれ、娘は路頭に迷うということはよくあったわけです。
  路頭に迷ったら、男性ならば奴隷になるか、路上生活をしながら、ぶどう園などで働く日雇いの底辺労働者になるしかありません。では路頭に迷った女性はどうなるか。常雇いで住み込みの奴隷になれれば、まだ就職に成功したといえるのであって、その口も見つからないとなれば、最後には生きるために売るものは一つしか残っていません。
  そういうわけで、エルサレムなど人の出入りの多い都会では、夫や父親に死なれたり、夫に身勝手な理由で離縁されたりした女性たちが、通りで客を取る風景は珍しくなかったのであります。

結ぶも離すも神のわざ

  さて、本日の聖書の箇所では、そういう社会背景があって、ファリサイ派がイエスに論争をふっかけてきたという場面であります。
 
 「夫が妻を離縁することは律法に適っているか」
  もちろん律法に適っております。申命記にそう書いてある。そんな法律は当時誰でも知っていました。
  したがってこの質問は、「イエスさん、あんたは常日頃から女性や子ども、病人や貧しい者の味方ぶっているが、こういう律法の規定をご存知じゃないわけではないでしょうね」というイヤミたっぷりの質問なのであり、悪意がありありと読み取られるのであります。
  おそらくこの質問をイエスにぶつけた人物は、この律法の取り決めが女性の生存権を奪っているという当時の社会実態を、ちゃんと知っており、その一方でそのような生存権を奪われた人々をイエスが愛しておられることも知っており、イエスがもし律法が正しいと言えば「イエスの愛は偽物だ」とふれまわることができるし、もし律法を否定すれば、その場で彼の違法性を立件でき、最高法院に告訴できる、とずるがしこく考えていたのであろうと思われます。
  ですから、この手の論争にまともに取り合って得なことは無いのではないかと思われるのですが……イエスは逆に彼らに問い返します。
  
「モーセは君たちに何と命じたのかね」
  これはもちろん、申命記を含む旧約聖書の最初の5冊は、モーセによって書かれたのだという、当時の人々の信仰を前提にしています。
  彼らは答えます。
 
 「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許している」と。
  私がファリサイ派だったら、こういう答え方はしなかっただろうな、私だったら「お前が知っているはずだ」とか言って、あくまでイエスにしゃべらせようとするでしょうが、ちょっとこのファリサイ派の人の受け答えは間が抜けています。
  「モーセは我々男が妻を離縁することを認めているじゃないか」、と。
  すると、イエスは言います。
  
「君たちの心が頑固だから、こんな掟をモーセは書いたのだよ」と。
  ……実はこの言葉は、当時としてはたいへん不信仰な物の言い方です。
  と言うのは、そもそも「律法」とは、一番最初の、神からモーセが直接授かった律法、すなわち「十戒」を、ユダヤ人の実生活で生かしてゆこうとする中で、次第に細かい条文まで展開されてきた法律です。
  したがって、いかに細かい規則をモーセが書いたとは言っても、やはりおおもとになる「十戒」をモーセに与えたのは神なのであり、個々の細かい律法が「十戒」に基づいている限りは、それらの細則も「神が人間に授けたものである」と信ずるのが、いわばユダヤ教の信仰の望ましい姿であったわけです。
  ですから、神さまではなく、モーセが自分の判断で律法の規則を書き加えたかのような言い方をするのは、信仰的ではありません。
  しかし、それでは、ここでイエスを試そうとしている人々にそのような信仰が見られるかというと、そうとも思われません。離縁状の規定を男性の特権としてしか見ることのできないこの連中に、「これは神さまが授けた律法だから」という畏れも、運用に当たっての配慮も、見受けることはできません。
  そういう意味で、ここでイエスが「君たちがそんな風だから、しかたなくモーセはこんな法律を書いたんだろうね」と言ったのは、「どうせ君たちはこの律法が神さまからのものだなんて本気で信じていないのだろう」と見透かした上での皮肉であったと思われるわけです。
  もっと言うなら、最初からイエスが「『神さまは』何と言っておられるのだ」とは聞かず、「『モーセは』何と言っているのか」と聞いたこと自体が、ある種の誘導尋問であるとも言えるのであって、これに対して彼らが「モーセはこう言っているのだ」と答えてしまった時点で、この口喧嘩の勝負はついているわけです。
  そして、相手に「いや、モーセが書いたけれども、それは神さまの御意志が――」とか何とか弁明する隙を与えず、即座に「(君たちは『モーセが』と言うが)それよりずっと前に『神さま』は初めから、男と女を一体になるように造ったんだからねぇ」と、これで相手の口を封じてしまいます。
  まぁ、こういうとっさの瞬間にそのような問答ができるという事は、天才としか言いようがないと思いますが、とにかくイエスは見事に相手の揚げ足をとって、彼らの信仰の無さと、人間に対する愛の無さを暴いたと言えます。
  そして、イエスは最後にピシャリと「だから、神が結び合わせたものを、人が切り離してはならない」と釘を指します。
  ですから、文脈から見ると、「人は離してはならない」の「人」とは、結婚している当人のことを指しているのではなく、ここでのファリサイ派の人々や、当時のラビたちのように、当人たちの具体的な事情や状況にじっくりと耳を傾けた上の配慮とはまったく関係なく、「どうすればあとくされを感じることなく離縁ができるか」といったレベルで論議をくりかえしている第三者のことを指して、彼らを批判しているわけです。
  「神が合わせられたものを、第三者が離そうとするな」
  ざっくばらんな言い方をすれば、「結びつけるのも切り離すのも神さまの御心なのだ。第三者がつべこべ口を出す余地も権利も無い」ということなのであります。

愛を呪いに変える式文

  私は以前、聖餐式における日本基督教団の式文に異議を唱えたことがありますが、現在の結婚式の式文にも、不適切な聖書の引用があると感じています。
  現行の結婚式文は「神が合わせられたものを、人は離してはならない」という言葉で結婚式の最後を締めくくるようになっています。この言葉を、多くの人が「離婚の禁止命令である」と思っています。そして、日本基督教団の教会で結婚式を挙げた多くの離婚経験者がこの式文に書いてあるたった1行の文言に呪われて、いつまでも自分を責めつづけ、罪意識を癒されないままに日々を送りつづけています。
  しかし、これは聖書の不適切な引用です。
  イエスの、貧しい者、生きる場を失った者への激しい愛情からほとばしり出た言葉であったものを、この式文は、挫折した者をさらに失意のどん底へと追い込む、呪いの呪文に変えてしまっているのであります。
  福音書において、イエスが12歳だったころの記事以降は、父ヨセフの姿は消えています。イエスが育った家庭の事情がどんなであったか、明らかではありませんが、彼がまだ幼い頃から父親不在の生活の辛酸をなめなければならなかったことは確かでしょう。
  父を失い路頭に迷った子どもや、夫に一方的に離縁された女性が客を取ったりしている姿は、イエスにとっては少年時代から他人事ではありえなかったはずです。
  イエスはその痛みを充分に見て知っているからこそ、「どういう理由なら離縁が許されるか」などと無神経な論議をくりかえしている男性たちの体質そのものを批難されたのであって、「離縁してもいいのか、悪いのか」などという、具体性を欠いた形式論議に付き合ったわけではないのであります。

愛による結びつき、神による結びつき

  それでは一体、何が神の御心なのか。「神が結び合われられる」とはどういうことなのでしょうか……。
  私たちは
「神は愛である」(ヨハネの手紙T、4章8節、および16節)という言葉を知っています。これは訳しようによっては「愛は神である」と読んでも差し支えない言葉です。この言葉は、私たちは神の御心がわからなくなったときの大きな手がかりとなります。
  
『神は愛である』
  ……ならば、「神が結び合わせられた関係」とは「愛に結び合わされた関係」のことだと言うこともできるのではないでしょうか。それは形式ではなく、状態を表す言葉であり、また関係の本質を表す言葉ではないか、と思うのです。
  キリスト教式で結婚をあげたから「神が結んだ結婚」だと言えるのではありません。ある関係が、本当に愛に満たされた関係であって初めて「それは神によって結び付けられた状態である」と言うことができるのであり、それは結婚関係の話だけに留まらず、親と子、生徒と先生、友人、仕事仲間……あらゆる人間どうしの関係において言える事です。
  「神によって結ばれているかどうか」というのは、人と人の関係がじっさいのところどうなっているのか、という内実を語る言葉なのであります。
  では、具体的にどういう状態が「愛によって結ばれている関係」なのか。何が愛なのか。どうすれば愛していると言えるのか……。それは、私たちが自分なりの答を求めるべき問題として、イエスから問われたままになっております。
  「どうすれば、『神が結び合わせてくださった』と言うにふさわしい関係を造ることができるのか」
  その問いに答えようとするのが、キリスト者の生涯というものであり、神さまからの正解が示されていない限り、失敗と試行錯誤は赦されているのであります。
  勇気をもって、日々新たにされて、神に結ばれた関係を探り求めたいと思うものであります。

祈り

  お祈りします。
  神さま。
  私たちは何度も人を愛そうとして、また愛されようとして失敗を積み重ねます。しかし神さま、私たちは、何が正しく、何が愛の名にふさわしい生活なのか、日々手探りで求めているものでございます。どうかそんな私たちを赦してくださいますように、お願い申し上げます。
  小さな失敗であろうとも、大きな失敗であろうとも、それにめげず、今日も、明日も、明後日も、愛そうとする努力を積み重ねることができますように。
  イエス・キリストの名によって、祈ります。
  アーメン。

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