弱いあなたが必要だから

2007年6月4日(月) 同志社香里中学校高等学校 早天祈祷礼拝奨励

説教時間:約12分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。

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聖書:コリントの信徒への手紙一 12章12〜26節 (新共同訳・新約)

  体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自分な身分のものであろうと、皆一つの体になるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。
  体は、一つの部分ではなく多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
  すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
  目が手に向かって、「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
  わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

強い者は弱い者を助け

  今日、読んでいただいた聖書の言葉には、「体は一つでも、多くの部分から成」っている(コリントの信徒への手紙一12章12節)のであり、「さまざまに異なる部分が組み合わさって全体ができているのであって、わたしたち人間の社会も同じだ」ということが書かれてあります。
  また、
「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(22節)という言葉も記されています。
  キリスト教では、「強い者はどんどん強くなれ」とか、「負けたらあかん。常に勝ち続けろ」というようなことはあまり言いません。
  むしろ、「強い者は弱い者を助けなさい」と、また、「恵まれている人は困っている人の助けになるようにしなさい」ということを教えてくれます。
  もちろん世の中では、強い者が弱い者をいじめて、弱い者よりもたくさんの利益を取り上げて生きている、というような状況が現実としてあります。しかし、キリスト教は「それではいけない。弱い者が弱いままでも生きられるように、強い者が手を貸さないといけない」と教えるのですね。

体はそれぞれ異なる部分でできている

  さて、「体は一つでも、多くの部分から成っている」という言葉を聴くと、私は以前に勤めていた会社のことを思い出します。私は、今の仕事につく前に、いったん大学を卒業したあと、あるコンピュータ・メーカに6年間ほど勤めたことがあります。
  営業マンとして採用されたのですが、最初の半年間は工場で働く、という研修のプログラムがありました。工場の開発部門で仕事をしながら、自分の会社の製品は、どういう考え方で、どういうことに役立つために作られているのか、を勉強するわけです。そして、その後に営業部門に配属されて、実際に販売の仕事を始めるわけです。
  開発部門と営業部門の両方を見て、面白いことに気づきました。工場で開発に携わっている人は、「私たちがこうして物づくりをしているから、営業の人たちは売って食べていけるのよ」と言っています。ところがこれに対して、営業部門では「俺たちがこうして売っているから、工場の連中は食っていけてるんだ」と言っているんです。
  同じ会社の中でこういう風に言い合えるというのは、実はたいへん幸せなことかもしれないと思います。たとえば、最近見たニュースでは、ある大手の自動車メーカが、工場の稼働率が悪くて、工場で働いている人もリストラを考えているという話を聞きました。
  その自動車メーカでは、普通車は自分の工場で作っていて、軽自動車は他の会社に委託して作ってもらっています。ところが、今は軽自動車が普通車よりよく売れる時代です。ですから、たくさん軽自動車は売れていくけれども、工場はヒマだ、ということになるわけです。
  こうなりますと、営業から見れば、「俺たちはたくさん売ってるけれども、別にあいつら工場のために稼いでいるわけではない」、工場のほうから見れば、「我々が作りたくても、営業は私たちの製品を売ってくれない」ということになり、バランスが非常に悪くなります。
  リストラが行われる工場の従業員の人びとは、たいへん元気をなくしてるそうです。当然です。「どうぞおやめなさい」、「あなたは必要とされていません」と会社から言われているわけですからね。今日の聖書の箇所にも
「「お前たちは要らない」とは言えません」(21節)とありますが、まさに「お前たちは要らない」といわれてしまっている人が、現実にいるわけです。
  そう考えると、自分が働いていた会社は、それぞれの部門が、自分にしかできないことを誇りに思って、自分たちのおかげで他の部門もやっていけるのだ、と思いながら、結果的に互いを支えあっているわけですから、自分はいいところで働いていたんだなと思いました。

弱いあなたが必要だ

  世の中にはそういう冷たい現実があるということは、我々は理解しておかねばならないと思います。しかし、それは決して、望ましい組織のあり方ではない、ということも理解しておきたい、と思います。
  やはり、互いの弱い部分を認め合い、それぞれの強い部分で補い合って、「この部分については、わたしがあなたの分がんばるから、いっしょに生き残ろう」と言い合えるような、そんな組織・社会が理想なのであり、その理想を捨ててしまってはいけないんじゃないかと思います。
  今日読んだ聖書には、
「ほかより弱く見える部分が、かえって必要なのです」(22節)と書かれており、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(26節)とも書かれてあります。
  もしここに、自分は他よりも弱い、人よりも劣っていることが多いと思う人がいても、「そんなあなたのような人こそが、ここには必要なんだよ」と聖書は告げているわけです。あなたは、「なんでそんなことが言えるんだろう」と不思議に思うかもしれません。しかし、弱い人にとって生きやすい社会は、強い人にとっても生きやすい社会なのではないでしょうか。
  いくら強い人とはいっても、死ぬまで強い人はこの世にはいません。また、すべての面において強いという人もいません。みな自分の弱い部分を知っていて、そこは他の人に助けてもらわないと、社会の仕組みがうまくいかないんだ、ということをわかっている人が、人と本当に仲良くやっていけるのではないかな、と思います。
  強い・弱いに関係なく、「生きていく権利がここでは守られている」ということは、とてもうれしいことなのではないでしょうか。
  弱くてもいい、生きていていい。それを認めることが、本当にだれもが大切にされる世の中の作っていくのではないかと思います。
  お祈りします。

祈り

  愛する天の御神さま。
  今日ここに宗教週間の最初の朝、早朝から礼拝をもって一日を始めることができます恵みを心から感謝いたします。
  ここに集う者の中から、本当にこの世の中を愛と支えあいに満ちたものにしてゆく人が現れますことを切に願います。
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。
  アーメン。

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