祈りのシンパシー

2009年8月16日(日) 日本キリスト教団香里ヶ丘教会 聖日礼拝説教

説教時間:約30分 お聴きになりたい方は→audio

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聖書:マルコによる福音書9章38〜42節 (新共同訳・新約)

ヨハネがイエスに言った。
「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
イエスは言われた。
「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまづかせる者は、大きな石臼をクビに懸けられて、海に投げ込まれてしまうがよい。」

誰の祈りが聴かれるか

 最初に質問をしてみたいと思います。
 みなさんは、キリスト教の洗礼を受けていない人が、礼拝でみんなを代表して祈ったら、その祈りは有効だと思いますか? それとも無効だと思いますか? その祈りを神さまは聴いてくださるでしょうか。それとも、キリスト者ではないから、神さまは保留されるでしょうか。
 どう思いますか? 礼拝の中での祈りです。
 私がもし、そういう問題を自分の聖書の授業の期末試験に出すとしたら、どんな回答が書いてあっても、「まじめに書いているな」と感じられる答案でしたら、だいたい良い点数をあげると思います。
 しかし、あえて模範解答を出せと言われたら、もっとも正解に近い答は「わからない」にすると思います。
 つまり、これはイジワル問題ですね。どんな祈りが無効だとか、有効だとか、神さまが聴いてくださるか、聴いてくださらないか、そんなことが人間にわかるわけはありません。神さまがどうなさるかを人間が予測するなど、全く無意味です。それを人間が決めるのは冒涜です。ですから、それは人間にはわかりません。だか「わからない」が正解のひとつだと思います。
 しかし、「わからない」「人間が決めることではない」「御心のまま」であるということは、その祈りが神さまの御心に適うかどうかというのは、クリスチャンの祈りであろうが、非クリスチャンの祈りであろうが、その確からしさは同等だということにもなります。
 だいたい、イエスという方は洗礼を授けませんでした。そもそもイエスがこの世におられる間、キリスト教会というものはこの世にありませんでしたし、クリスチャンという人びとも存在しませんでした。しかし、イエスは
「信仰のないわたしをお助けください」と叫ぶ者にも救いを与えました(マルコ9章24節)
 ですから、洗礼を受けていること、教会員であることが救いの条件であるなどと、機械的に判断してはならないのであります。

キリスト者の思い上がり

 さて、私は普段から、クリスチャンではない人が礼拝で祈るという場面に居合わせています。私が遣わされているキリスト教学校では、専任教職員の中では、私ともうひとりの聖書の先生の2人だけがクリスチャンです。聖書科の担当者以外に1人もクリスチャンがいない、というのは、おそらく全国一クリスチャンが少ないキリスト教学校、と言い切ってもいいと思います。
 で、いま2人と言いましたが、実は今、そのもうひとりの先生が、産休で休んでおられます。ですから、学校にいるクリスチャンの専任教員は私1人です。(ということはつまり、今この教会には、出勤可能な同志社香里のクリスチャン教員は全員この礼拝に参加しているというわけです)。
 礼拝堂には、中学の礼拝で約700名、高校の礼拝で約900名が集まります。それに教員たちが加わります。その何百人という人びとが行う礼拝の中で、クリスチャンは自分ひとりなのか……と思うわけです。
 もし、私が体調を崩して休んだりすると、クリスチャンがひとりもいないままで、礼拝が粛々と行われてゆくことになります。クリスチャンが1人も参加していない、キリスト教の礼拝……。
 それで本当にいいのだろうか、と私は一時期非常に悩みました。いくらなんでも、クリスチャンが1人もいない礼拝があってはならないのではないか。せめてひとりのクリスチャンがその礼拝の場にいることを死守しなければ。自分は絶対に休んではならない。ここが、ギリギリの瀬戸際、生命線である、と……。
 今にして思えば、傲慢な思い上がりで、自分で自分を勝手に追いつめていたものだと思います。自分を追いつめて、案の定体調を壊して、そして、やがてわかりました。これが私に与えられた恵みだったのです。

祈る心は同じ

 礼拝の司会、進行は、宗教部という名の部署に配属された教員たちで行います。総務部、教務部、生活指導部……といったいろんな部署のある中での宗教部です。9人体制で、この人たちが礼拝の司会をします。生徒を静かにさせて、讃美歌をリードして、聖書を読み上げて、お祈りをします。
 これは、どの先生も本心ではつらいのですね。信徒ではないのですから、そんな自分がキリスト教の神さまに祈るというのは、苦しくて当然だと思います。
 過去には「俺は祈らんぞ」という先生もよくおられました。「そんなわがままな。キリスト教学校から給料もうとって……!」と思いそうになりますが、その人にはその人の理屈があります。
 「わしがキリスト教のお祈りをやったら嘘になる。そのほうがよっぽどあんたの神さまへの冒涜と違いますか?」と言われます。そのとおりです。信じてない神に祈るということは常識ではありえません。それどころか、そもそも信じてもいない生徒や先生を全員礼拝に強制的に参加させるということじたい、たぶん日本以外の国では信教の自由への侵害で問題になると思います。日本のキリスト教学校は変なことをやっているのです。ですから、さっきの先生の理屈もわかります。また、一教員のそういう理屈でも通ってしまうところが、同志社というキリスト教学校の不思議さでもあります。
 で、「祈らない」という先生は、では聖書を朗読したあとどうするのかというと、「黙祷!」と言います。こういうのは夏の甲子園でもみんな見慣れてますから、すぐ順応できます。しかしこれをやってしまうと、今度は生徒のほうが「何や、祈らんでええんや」という風に受け取ります。そして逆に、祈る先生を嘲笑い始めるのですね。「あほや、あのおっさん。信者でもないのに」という風に。そうやって毎年、礼拝の真剣さが失われ、礼拝が崩れてゆきます。
 私は、来る年来る年、入れ替わる宗教部の先生方に、「祈るのは自由です。でも、できればお祈りをされることをお勧めします」と話し続けました。そして、その理由として、最初のころは「祈ることで学校の姿勢や、学校の精神を生徒に示すことができるんです」と言っておりましたが、最近ではちょっと言い方を変えまして、「子どものためを思って祈りたいと思う心は、クリスチャンであるなしに関わらず、同じではないかと思いますよ」と言うようになりました。

いい祈りをするね

 さて、そういう風に働きかけておりますと、やがて呼びかけに応じて、チャレンジ精神のある若い先生たちから「じゃあ勇気を出して祈ってみようかな」という人が少しずつ現れました。そして、そういう人がまた、いいお祈りをされるんです。
 もちろん、「いいお祈り」と「よくないお祈り」があるというのも変ですし、それこそ人間の耳で聞いて、祈りの良し悪しなど品評する資格があるのか、という問題もあります。しかし、実際の礼拝でも私たちは、人の祈りの言葉に心を動かされたり、大切なことに気づかされたりすることは、案外あるのではないでしょうか。
 「ああ、あの人は、生徒たちをこんな風に見ていたのか。それは優しい見方だな」とか、「ああ、この人は、生徒たちのこんな気持ちに気づいてあげていたのか」とか。あるいは、私たちが持つべき目標についての洞察であったり、人知れず傷ついている生徒への癒しの願い、人知れず罪を犯してしまった人への戒めと赦しの願い、さまざまな祈りの言葉が礼拝でささげられるようになってきました。
 そして、そのうち「○○先生、今日のお祈りはよかったよ」という声を宗教部の先生にかけてくれる他の部署の先生が現れ始めます。「△△先生のお話はたいしたこと無かったなァ。あんたの祈りだけで十分や」と言う人がいたり。そうやってほめてもらうと、先生もモーティベーションが上がりますから、次もちゃんとやろうと思いますよね。
 やがて、それと相乗効果を起こすように、教員たちが「アーメン」と口に出して言うようになってきました。10年前にはお祈りが終わっても、むっつり黙っていた人たちが、今では、大きな声ではありませんが、はっきりと「アーメン」を唱和します。
 そうなると今度は、さらに新しい年度、新しいメンバーになった宗教部の先生方が、「お祈りの仕方を教えてください」と申し出てこられるようになるわけです。そして、そういう先生が宗教部の中で過半数を超える勢いになると、以前は「俺はやらんぞ」という態度だった先生が、むっつりと黙って何も言いません。

お祈りモジュール

 そして、ある日、廊下ですれ違ったときに言われるわけです。
 「おい、富田。あのー、その、礼拝の、ほら、お祈り。なんかマニュアル作ってくれや。これを読んだらOK、いうのを作ってや。な」
 そこで私はマニュアルも作りました。
  (1)呼びかけの言葉。
  (2)感謝
  (3)反省(悔い改め)
  (4)お願い
  (5)「主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」
 この5つのモジュールに3種類くらいのユニットを例として書いておいて、それをランダムに選んで並べれば、何通りかのお祈り文ができあがる、というものを作って配布しました。
 これがけっこう評判がよくて、みんな安心してお祈りができるようになりました。そして、さすがにこんな「誰でもお祈りできます」マニュアルみたいなものを作られて、まさかそのまま使うという人はやっぱり少なくて、一応それをお手本に、自分で考えて原稿を書いてこられます。
 すると、生徒の反応が違ってきます。「あのおっさんが、ちゃんとお祈りしてんで」と驚くわけです。「アーメン」と言わなかったらシバかれそうですから、みんな「アーメン」と言います。そうなると以前より少しは礼拝に一体感が出て来たように感じます。以前はストレスが最も高まる時間であった礼拝が、少しずつ良いものになってきたな、と感じ始めています。一度は瓦礫の山のように見えた景色の中に、少しずつ希望の花が咲いてくるような、そういう感覚を、今は覚えています。

唯一神教の崩壊?

 しかしながら、これは保守的なクリスチャンの方がたから見ると、実はとんでもない一線を踏み越えている、という風に写るのではないか、と思います。
 確かに、単なる真似事を演じているのではなくて、真剣に祈っているのです。しかし、祈っている人はクリスチャンではありません。事情があって洗礼を受けられないのではなく、自分が洗礼を受けるなどということを思い浮かべたことさえないだろうと思います。
 お墓参りはお寺に行き、初詣は神社に行く典型的な日本人。結婚式ではチャペル式か神式のどちらか。そういう折々の宗教的な行事の中に、学校の礼拝という行事がうまく組み込まれた形になってきているのだろうと思います。祈っている人たちの心の中では、たくさんある神さま仏さまのうちのひとつにキリスト教の神さまが加わったような感じではないでしょうか。
 それは、キリスト教が日本人の先生たちのなかに浸透しつつあると言えないこともありませんが、同時に、逆に日本的な宗教風土のなかに自分から取り込まれていったプロセスともいえるような気がします。
 ですから、そういう人たちの祈りは、他ではない聖書の神を信じることを決断し、公に信仰を告白し、洗礼を受けた人の祈りとは根本的に違うのだと言われても、ある意味仕方がないとは思います。
 しかし、とにかく、クリスチャンではない人びとばかりがいるコミュニティの中で、それでもキリスト教主義を形にしてゆかなければならない、というミッションを与えられた私には、仮に「神」という言葉で呼ぶ、人間世界を超えた、大きな命の源のような、霊的な存在を仮定して、それに向かって話しかけてみましょうよ、と勧める以上のことはできませんでした。
 狭い意味で「キリスト教のみが真理に至る道である」と考えている人から見たら、これは唯一の神への冒涜です。しかし、世界の人口のうち、キリスト教以外の信仰を持つ人たちが3分の2を占めており、その人たちの信仰をも正当に認めざるを得ないことを迫られている現代社会において、キリスト教「のみ」が正しいということは言えなくなっている、と私は思います。
 少なくとも、キリスト教は「私にとっては」真理に至る道であり、あなたもその道に加わってくれたらとてもうれしいけれども、他の道を通ってゆくこともできるよ、と言えるのではないかと思うのです。
 そのような宗教多元化の時代において、「他の宗教を否定してキリスト教に入ることがあなたがたのゴールなんだ」とは、私は自分の同僚たちに言えません。
 言えるのは、「キリスト教も真理に至るひとつの道なのだから、この道も試してごらん」と呼びかけることのみです。「キリスト教会のメンバーシップを手に入れないと救いはないんだよ」とは決して言えない。むしろ、神の愛の御手はすべての人にあまねく広げられていると伝えたいのです。

反対しない者は味方

 聖書に目を戻しましょう。
 本日の聖書の箇所、マルコによる福音書の9章38節から、42節までを説教の前にお読みいただきました。
 38節で、イエスの弟子のヨハネが、イエスの名前を使って悪霊を追い出す者について触れています。これは古代にはよくあったことのようで、偉大な人物には名前だけでも特別な力があると思われていましたから、イエスの名前を使って、病気を治そうとするような行為を行っていた者はたくさんいたのでしょう。
 これについてヨハネは、
「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と言っています。ここで注目すべきなのは、「イエス様、あなたに従わないので……」ではなく、「わたしたちに従わないので」という言い方を著者が採用していることです。
 つまり、ここに描かれているのは、「私たち」すなわち弟子集団によって作られた教会に従わない、教会のメンバーにも入らないし、教会の公式な認可を受けているわけでもないような人たちが、イエスの名によって宗教的な行為をすることを禁じようとしている、ということです。
 これに対してイエスは、教会に「やめさせてはならない」と忠告します。「わたしたち」すなわち教会に反対しない者は、教会の味方なのですよ、と。そして、41節を直訳調に訳しますと、「あなたがたがキリストの者であるということゆえに、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、アーメン、あなたがたに言う。その報酬を受けないことはない」。
 そしてこれに続く42節は、この新共同訳聖書ではあたかも別の話であるかのように編集されていますが、話はまだ終わってないので、ここで「わたしを信じるこれらの小さな者」というのは、先ほどの「イエスの名前を使って悪霊を追い出している者」のことを指しています。
 つまり、正統な教会に関わっていなくても、イエスを信じて宗教的な行為を行っている人をつまずかせてはならない。もしそういう人をつまずかせる者は、「ロバがまわすような大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまえ」というわけです。
 教会の外でイエスの名を使う者も神からの報いを受けるという、ある意味教会というものに非常に挑戦的な主張をマルコは伝えています。

祈りのシンパシー

 教会の外でイエスの名を使って祈る人たちといえば、私は自分の職場における、クリスチャンではない人たちの祈りに触れて、大変豊かなことを教えられているように感じています。また、そのような祈りが、実際にその人の行動、行為、生き方にしっかりと結びついている、そんな人物に出会うこともあります。
 たいていのキリスト者よりも純粋で豊かな愛を持ち、その愛に基づいて祈り、たいていのキリスト者よりも立派に力強く人を愛することのできる人に対して、キリスト者が何かを伝えようとすることのほうがおこがましいと感じることも何度となくあります。
 キリスト教の洗礼を受けていようがいまいが、子どもたちが毎日を本当に悔いのないように過ごし、よい大人、よい人間を目指して成長していってくれることを願わない人は学校にはいません。それ故に、学校に働く人が子どものために祈る祈りは信頼できます。子どもたちのために良い事を願う、という目標さえブレていなければ、祈りの的は決して外れません。
 そして良い祈りは、必ず良い実践に裏付けられています。人が見ていようと見ていなかろうと、いやむしろ見えないところで、子どものために力を尽くしている人の口から発せられる祈りの言葉は、嘘のない力強さを秘めています。そのような祈りによって、また他の教師たちも、自分も良い実践につなげてゆこうと触発されます。私はそのような祈りを耳にできるようになった自分の職場の環境を幸せに思っています。
 そして、先ほどお読みしました聖書の言葉のように、私は、私自身が他の人に対してキリスト教へのつまずきの石にならないようにしなければならない、という責任を改めて感じるようになってきています。
 それは、クリスチャンだから立派な人を装うというようなことではなく、要するに、神の愛はクリスチャンとクリスチャンでない人の間に差別をしないということを証するということです。
 クリスチャンではないし、クリスチャンになろうと今思っているわけではないけれども、クリスチャンの信仰にシンパシーを感じている人は、いくらかは必ずおられます。教会に毎週通えるわけではないけれども、キリスト教に共感を覚えておられる人はいます。そういう大切な人をつまずかせる者は石臼にくくって海に放り込め、とはマルコの大げさなユーモアを含んだ表現ですが、要するに教会には直接つながらなくても、キリスト教にシンパシーを感じている人は、大切な人なんですよということ。
 そして、そのような人は単に教会に反対しない人だから大切な人だというのではなく、もしその人がイエスの名によって何か人にいいことをしたなら、神は教会の枠を超えて、その人に恵みの報いを与えるのだ、ということです。
 
唯一の神は、教会の中においても、教会の外においても、自由自在に活躍されるのであります。それを伝える者でありたいと願います。
 祈りましょう。

祈り

 私たち人類をあまねく愛してくださる神さま。
 今日もこうして教会に集い、私たちが共に礼拝をささげることができます恵みを感謝いたします。
 どこにいても、誰に対しても、あなたの豊かな恵みと導きを私たちが証することができますように。
 祈りと生き様がきちんとつながった人になれますように。
 強い人はその強さを用いて、弱い人はその弱さを用いて、あなたに仕え、人に仕えて誠に生きることの喜びを与えてくださいませ。
 この祈りをイエス・キリストの尊い名によってお聴きください。
 アーメン。


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