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2009年8月31日(月) 同志社香里中学校 ショート礼拝奨励

説教時間:約10分 お聴きになりたい方は→audio

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聖書:マルコによる福音書1章16~20節 (新共同訳・新約)

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは猟師だった。
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる猟師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

つながれない馬のように

 私は、「同志社というところは恐ろしいところだ」と言われたことがあります。同志社の人間は普段は考えていることもやることもバラバラで、実に個性的だが協調性がない。しかし、いざ危ない局面にさしかかると、一人一人がものすごい力を発揮する。そういう野武士のような集団が同志社だ、と言うのですね。
 そう言われてみると、確かに同志社の創立者・新島襄先生は、「倜儻不覊(てきとうふき)なる書生を圧束せず」という言葉を遺言に残されました。
 「倜儻不覊」の「倜儻(てきとう)」というのは、物事に拘束されたり人に操られたりすることがなく、才能がかけ離れて優れていることを言います。また「不覊(ふき)」というのは、手綱でつなぎとめられていない、自由な馬のことを言います。つまり「倜儻不覊な書生」というのは、独立心が旺盛で才能にみなぎっている自由な学生を、決して押さえつけてはいけない、という意味です。
 新島先生自身が、国に禁止されているのにも関わらず、鎖国を破って日本を脱出した倜儻不覊な人間でしたから、同志社のなかにも、それぐらい型破りな人間がどんどん出てきて欲しいものだと先生が望んだとしても不思議ではありません。
 そういうこともあって、私の同志社のイメージというのは、古い映画ですが、『七人の侍』とか『椿三十郎』みたいに、普段から人に束縛されることが嫌いで、ぶらぶらしているが、いったん力を貸してくれと言われると、とんでもない力を出す、そんな浪人のようなイメージです。

私について来なさい?

 さて、今日読んだ聖書の箇所は、私が好きな聖書の箇所のひとつです。イエスが最初の弟子をとる場面ですが、漁師のシモン・ペトロとその弟アンデレが湖で網を投げているところにイエスがやってきて、「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう」と言います。すると、ペトロとアンデレはすぐに網を捨ててイエスについていった、という話なんですね。
 でもこれ、ちょっと考えたら危ない話ですよね。たとえばこれが、怪しい宗教団体の教祖かなんかだったら、だまされてお金集めに走らされる可能性だってあったわけです。最終的にイエスという先生は、弟子たちを逃がして自分が犠牲になって十字架にかかるような人でしたから、イエスの弟子たちは幸せだったと思いますが、何か新しいものを求めて、自分のそれまでの生活から新たな一歩を踏み出すというのは、それだけ危なっかしいことなんだろうな、と思います。
 しかし、ある程度は危険も承知でなければ、古い自分の殻は破れません。ですから、そういう緊張感が漂う、イエスという教師とペトロという生徒の出会いの瞬間を描いた場面が、私は好きです。

正解はひとつではない

 「オウム真理教」という宗教団体の名前を聞いたことのある人はいますか? 今は「アレフ」という名前に変わっていますが、かつては信者を洗脳し、人を殺し、地下鉄でテロをおこなった恐ろしいカルト集団です。その信者たちでリーダー格だったのが、東大卒を始めとする秀才ぞろいだったといいます。
 私たちは、カルトにだまされて入ってゆく人は、頭が悪いのではないかと思いがちです。しかし、頭が悪いからだまされるのではありません。正解は一つだというテスト勉強ばかりやって大きくなった人間は、はっきりした正解のない人生に不安と恐怖を抱いてしまうといいます。だからそういう人が人生の正解を求めていて、強いオーラを持つ人物が「私について来なさい」「正しい道を教えてあげよう」と言うと、そのオーラにイカレて引っかかってしまう。カルトに引っかかってしまう。
 しかし、人の生き方にひとつの正解なんてあるわけがありませんし、人に生き方を見つけてもらうというのも変な話です。みんな自分だけの答の出し方があるはずです。

プロセスもひとつではない

 私は数学は全く苦手なのですが、ある数学の先生を話していた時、自分が数学について、ある間違った思い込みをしていたことに気づかされました。
 私は、数学などはひとつの正解を出せばいいような科目だと思っていました。しかし、そうではないそうです。
 数学には「美しい解き方」というのがある、と聞きました。ひとつの証明をするにも、不格好な証明の仕方があれば、美しく無駄のない証明の仕方というものもあると言うんですね。同じ結論に行き着くにしても、そこに行くまでのプロセスにも、独自のセンスが必要なのですよ、と教えてもらいました。
 そうすると、表現や発表のある科目だけではなく、実は数学も個人の個性がよく表れる科目と言えるのではないか、と思いました。うちの学校でも個性的な数学の先生がたくさんおられるのもわかる気がします。

放れ馬のように

 もちろん数学の先生に限らず、この学校には個性的な先生がたくさんいます。個性的な教師と個性的な生徒が出会って、どんな答が出てくるかわからない、どんなプロセスが進むかわからないというような未知数の可能性が、いかにも同志社らしいという気がします。
 「倜儻不覊なる書生を圧束せず」という言葉を遺した新島襄の学校ですから、お互いを枠にはめたり縛りつけたりするのではなく、放れ馬のように駆け回る自由な人間どうしでありたい。それが同志社らしさだと思います。
 祈ります。

祈り

 愛する天の神さま。
 私たちを今日も生かしてくださっていることを感謝いたします。
 今日も明日も、私たちが自分らしい道を歩んでゆけるよう、どうかお導きください。
 この祈りを、イエス・キリストの名によってお聴きください。
 アーメン。

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