苦しい時の神だのみ

2009年10月13日(金) 同志社香里高等学校 ショート礼拝奨励

説教時間:約7分(前後のトークを入れて10分) お聴きになりたい方は→audio

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聖書:ヤコブの手紙5章13~16節 (新共同訳・新約)

あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。
喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。
あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。
信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。
その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。
だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。
正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

熱心でなくてよい

 私は、キリスト教の牧師でもあるので、キリスト教のことを多くの人に知ってもらうことが仕事の一部になっています。
 しかし、心のどこかでは、そんなに宗教というのは、熱心に信じなくてもいいよ、思っているところがあります。
 もちろん、全く宗教心の無いのはよくないとは思います。
 というのは、神はいないと決めつけてしまうと、この世の自然や生命の奇跡や、人間の心の不思議さに感動することも少なくなると思いますし、自分の大切な人が死んだ後などでも、ただ虚しいだけになってしまいがちですし、だいたい「神などいない」と言ってしまったら、人が見てなかったら何をやってもいいという考えに陥りがちです。人が見ていなくてもちゃんと自分の良心に従って暮らせる人はいいですけど、そういう強さのない人は、むしろ「神が見たらどう思うだろうか」という感覚があったほうがいいと思います。
 でも、だから宗教に熱心になればいいかというと、そうでもありません。
 あまり宗教に深入りすると、現実を正しく認識することができなくなる場合があります。自分の周りで起こることが、なんでもかんでも神のおかげで起こったことか、悪魔の誘惑か、あるいは神の罰であるかのように思ってしまいます。
 まあ、何事も神が与えた試練だと思って前向きにとらえていくというのだったら、一種の認知療法みたいなものでいいのですが、まあ、だいたい宗教に熱心そうにしている人というのは、たいていは自分に都合のいいことは神さまのおかげ、都合の悪いことはサタンの誘惑と決めつけている場合がよくあります。そんな信仰は結局、自己正当化の道具でしかないわけで、非常に質が悪いものです。

ちょうどいい信仰

 私がちょうどいいと思う宗教心は、「心の中にいる話し相手」を想定する、というくらいがいいんではないかなと思います。
 心の中にいる話相手です。その相手は、別に「もうひとりの自分」でも悪くはないんですが、それよりは、自分を超えた大いなる者を想定したほうがいいと思います。自分がここに生きて存在している、この不思議な現象の原因となっているであろう魂の根源のような存在です。
 そして、そういう相手に常に話しかけないといけない、という事もありません。あなたは誰からも、何も強制される必要はありません。
 ただ、自分自身の力ではどうしようもない危機や悲しみ、悩みに出会ったときに、そして、こんなこと人に話したって仕方がない、あるいは人にはどうしても話せない、そんな場合に、「もし、いらっしゃるなら、聴いてください」と、悲しみや怒りをぶつける相手にしたらいいんじゃないかと思います。
 私は、すこし前に自分が慕っていた人が急に死んだとき、神に怒りをぶつけました。「なんてひどいことをあんたはするんだ」と。「やっぱりあんたは存在なんかしないんだ。あんたが存在しないから、こんなに不条理なことが起こるんだ」と泣きながら。いない相手に、おまえなんかいないんだ、と怒るのも変な話ですが。
 あるいは、ものすごく後悔せずにはおれないような悪いことをしてしまったときにも、どうか私を赦してください、と祈ったらいいと思います。
 この赦しを求める祈りでも、当たり前の事ですけど、人に謝る前から神に赦しを求めてはいけません。それは順序が逆です。まず、人に謝ることが先です。けれども、謝っても謝りきれないような状態の時があると思います。そういう人は、神に赦しを求めることで、少し心が楽になります。

苦しい時の神だのみ

 私が言っているのは、まさに、「苦しい時の神だのみ」なのですが、私はそれでいいんじゃないかと思います。
 苦しい時に、その苦しさを吐き出すことができる相手がいるというのは大事なことです。
 そうやって、しばらく神にささえてもらって、しばらくして元気になったら、祈ることも神の存在なんかもケロッと忘れてしまっても、それはそれでいいんじゃないかと思います。
 私は宗教の究極的な目標は宗教なしに生きることのできる人を育てることではないかとつねづね思っています。
 矛盾しているようですが、神なしで、すべてに感謝し、すべてを喜び、すべてを望み、すべてを耐えられれば。そして、すべての事に込められた意味を神なしで発見できれば、それに越したことはないんじゃないかな、と思います。
 そのために、時々は、「神はいる」と想定してみて、自分の支えとするのは、いいことなんではないかな、と思います。
 祈りましょう。

祈り

 神さま、今日もこうして私たちを生かしてくださってありがとうございます。
 私たちが困難にぶつかった時、苦しみの中にある時、罪を犯した時、どうかわたしたちのささげる祈りを聞いてください。
 私たちは、苦しい時にしかあなたを思い出さない者ですが、あなたを思い起こすために苦しみを与えられているのかも知れません。
 どうか、私たちを見捨てず、赦してください。癒してください。救ってください。
 願いばかりの貧しき祈りではありますが、イエス・キリストの御名によってお聴きください。
 アーメン。

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