みんなが生きてゆく権利

2009年11月15日(日) 日本キリスト教団枚方くずは教会主日礼拝説教

説教時間:約25分(前後のトークを入れて27分) お聴きになりたい方は→audio

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聖書:マタイによる福音書20章1~16節 (新共同訳・新約)

 「天の国は次のようにたとえられる。
 ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。
 主人は十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中を同じ扱いにするとは。』
 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

気前のよい農園主

 今日読んだ聖書の箇所、「ぶどう園の労働者のたとえ話」は、割とよく人に知られているお話ですが、同時に理解に苦しむという人が多いお話でもあります。
 イエスによれば、「天の国というのは、今から言うぶどう園のようなものだ」というわけです。そして、こんな話をします……。
 ぶどう園の主人が夜明けに、日雇い労働者を雇いに「寄せ場」に出てゆきます。「寄せ場」というのは、日雇い労働者、つまり、1日働いてなんぼ、というわずかな現金だけをたよりに生きている人が、仕事を見つけに来る場所。労働者を雇う建設会社や土木会社の側からみると、今日一日働いてくれる人間を買いに来る、まあいわば人身売買、あるいは奴隷市場と言ってもいいような場所のことです。
 仕事を1日の賃金は1デナリオン。1デナリオンが今のお金でいくらに相当するかははっきりとはわかっていないのですが、例えば大阪市西成区にある釜ヶ崎の寄せ場に行きますと、朝の5時ごろに単発の日雇い作業の求人をやっている車には、日払いで10,000円とか大きく書いてあります。ですから、この物語での1デナリオンも、まあ大体1万円くらいかなと考えればいいと思います。そして1万円で契約した労働者は、ぶどう園に行って働き始めます。
 で、このぶどう園の主人が9時ごろ、もう一度寄せ場に行ってみると、何もしないで立っている人たちがいました。寄せ場で9時と言ったら、もうかなり遅い時間帯です。これも釜ヶ崎でよく見かける風景ですが、何をするでもなく立っていたり座っていたり、ワンカップ片手にお酒を飲んでしゃべってたりする人たちがたくさんいます。
 ぶどう園の主人は、このような人にも、それなりにふさわしい賃金をあげるから、とぶどう園に来るよう誘います。
 この主人は続いて12時にも、3時にも、そして5時ごろにも寄せ場の様子を見に行きます。5時といったら、もうすぐ日が暮れますから、日雇い労働も終わりかけの時間帯です。今と違って電気も無かった時代ですから、なおさらのこと、日が暮れたら仕事は終わりです。そのような時間帯になって寄せ場付近でぶらぶらしている人に対しても、このぶどう園の主人は「わたしの農園においで、ふさわしい賃金を払うから」と声をかけたわけです。
 さあそれで、夕方になって仕事が終わり、その日の給料を払う時間になりました。このぶどう園の主人は、一番あとになってきて1時間も仕事していないような人たちに、1デナリオン払いました。
 それを見ていて、朝一番から働いていた人は「俺たちゃもっともらえるぞ」とホクホク期待に胸を膨らませていたんでしょうね。でも、この人たちももらったのは1デナリオンでした。
 それでこの人たちは怒ります。当然ですね。不公平じゃないかと。
 ところがそれを聞いて、ぶどう園の主人のほうが怒ります。逆ギレですね。「わしが払いたいように払ってるんや、文句あるか!」というわけです。「あの人たちにも同じように払ってやりたいんや。それとも、おまえらはわしの気前の良さを妬んでるんか」と。
 確かにここで、この主人は、自分が気前が良いということを認めています。こんな風に、いくら働いても、働かなくても、同じように1日分の給料がもらえる。天の国、神の国というのは、こういうものだなあ、とイエスは言うわけです。

不公平の公平

 こういう聖書の物語を読むと、たいていの中学生や高校生の人たちは「変や、この話」と言います。働いた人と働かない人が同じだけの給料がもらえたら、働いた人のほうが損をする。そんなんやったら、みんなが働かなくなる。そんなことになったら、社会は止まり、世界は破滅するやないか、と。
 他にも、「働いても働かなくてももらえる給料が同じやったら、人間は駄目になる」という人もいます。この世の中は競争があるから、努力して成功を手に入れようとする人が出てくるのであって、もし競争がなくて最初からみんな平等だったら、人間は努力というものをしなくなり、みんなやる気のないダラけた怠け者になってしまうんじゃないか、と。そう考える人もいます。
 あるいは、高校生になると、世界史などの授業を受けているので、「これは共産主義の話だ。イエスは共産主義者だ。共産主義の国は滅んだことで、共産主義の間違いは歴史的に証明された。従ってイエスの間違いも証明された」と言ってしまう人もいます。
 共産主義というのがそんなに簡単なものなのか。また、共産主義国が滅んだからといって、資本主義の正しさが証明されたのか。資本主義には問題はないのか。行き過ぎた競争社会のために起こる貧富の差、利益再優先による人間性の抑圧など、いろいろ問題もあるんじゃないかと私などは思うのですが、たとえば私が勤めている私立学校等では、「努力すれば必ず報われる」と、そういう単純な物の考え方を小学校時代、つまり受験時代に摺り込まれてしまった、しかもその結果、志望校合格という成功を手に入れて入ってきた人たちなので、「努力すれば、お金持ちになれる」「お金持ちになれなかった人は、努力しなかった人だ」「人間には競争が必要だ」と単純に思い込んでいる人が多いのです。
 そういう人にとっては、このイエスの話は、勉強してもしなくても合格するテストのようなもので、そんなんやったら勉強する方が損や、ということになるわけです。
 しかし、このイエスが語った物語が「寄せ場」の物語であることを考えると、簡単にそういって片付けるわけにはいかないような気がします。

あぶれた人の生きる権利

 「寄せ場」のある大阪の西成と言えば、怖いところという偏見があります。釜ヶ崎といえば酔っぱらいとホームレスの町というイメージがあります。そして、多くの親が子どもに「ちゃんと勉強せんと、あんなんなるで」と教えます。努力をしない人、働く気がない人、そういう人が昼間から酒を飲んでぶらぶらしてさぼっている。「あんな人間になったらあかんで」と、反面教師のように釜ヶ崎の人びとのことを言います。
 確かに、昼間釜ヶ崎に行くと、ぶらぶらしている人がたくさんいます。みんなさぼってるのかな、と思いそうになります。
 しかし、よく見てみると、若い人、元気そうな人がほとんどいません。ほとんどが50代以上の人、それも、体格が悪くて、身体が弱そうな人ばかりです。30代以下で、体力がありそうな人はいません。なぜかというと、そういう人はちゃんと仕事に行っているからです。
 ということは、つまり、そこで昼間ぶらぶらしている人は、働くだけの健康と体力がない、あるいは歳をとっていてキツい肉体労働ができない人たちだということです。こういう人たちを「仕事に『あぶれた』人」、縮めて「あぶれ」と言います。
 そこで、さっきの聖書の物語に戻ってみますと、夜明けに雇われた人たちは、ちゃんと「寄せ場」で仕事をゲットできているわけですが、寄せ場でのやり取りが終わって、労働者たちが働きに行ったあと、9時ごろや昼や夕方まで一日何もしないで、ぶらぶらしている人がいて、そういう人たちに「なぜ何もせずにこんな所にいるのか」と聞けば、「誰も雇ってくれないのです」と言う。これは「あぶれ」の人たちです。
彼らは、歳をとっていたり、身体が弱かったり、病弱だったり、といったいろいろな事情を抱えていて、誰も雇ってくれなかったわけです。
 人間はいつかは必ず歳を取りますから、体が弱くなったり、病弱になったり、障がいを抱えたりというのは、必ずしも本人の責任ばかりとは言えません。それは、人間が生きていれば、必ず通る道です。
 また、そこにいる人たちは、自分の意志で日雇いになった人ばかりではありません。必死で働いたけれども不況のために仕事を失った人もいますし、そもそも生き方が不器用で、騙されたりした人もいるし、たまたま運が悪かったという人もいます。
 そう考えると「何もしないで立っている」人は、本人の自業自得なんだから食べてゆく権利は無いんだ、とまで言えるでしょうか?
 あるいは、ちょっと他のところに目を向けてみても、世の中には給料をもらえるような仕事について働ける人ばかりが生きているわけではありません。
 赤ん坊も子どもも、労働することはできません。では、赤ん坊や子どもは食べてゆく権利は無いでしょうか?
 女の人は男の人に比べて、今でも社会に出るよりは家にいて家事や育児をやっている人の割合が多いです。その人たちは給料をもらっていません。でも生活費をもらう権利はあるんじゃないでしょうか?
そして、お年寄り、病気を抱えた人、寝たきりの人、知的障がい、あるいは身体障がい、精神障がいなどがあって働くことができない人。そういう人たちも、人と同じように食べて、寝て、生きてゆく権利はあるのではないでしょうか?

ぶどう園の経済学

 実際には、そういった人たちが生きるために必要なお金は、仕事をゲットして給料をもらう事ができる家族が負担したり、保険や、年金などでまかなっているわけです。
 しかし、もし働いている人にも、働けない人にも、同じだけのお金が年金のような形で支給されたらどうなるでしょうか。たとえば、ひと月数万円の手当、あるいは給付金、名前は何でもいいんですが、最低の生活ができるくらいの一定の額が、働いている、働いてないに関わらず、給付されるとしたら、どうでしょうか。
 これが、イエスの言った天の国のぶどう園の経済学です。働いた人も働かなかった人も、同じ1デナリオンです。
 実はこれを実際の社会でやろうという考え方もあるようです。これを「ベーシック・インカム」と言うそうです。日本語に直訳すると「基本所得」あるいは「基本的な収入」になりますでしょうか。
 ある計算によれば、今の日本で1ヶ月に約5万円くらいを支給することが可能じゃないかという話があります。誰にも同じく、1人1ヶ月5万円です。大人も子どもも、健康な人も健康ではない人も5万円。だから、4人家族で240万円。これにプラスして働いた給料で生活してゆく。低所得者層には悪い話じゃないですよね? この5万円が8万円でも可能だという人もいます。
 「ばか言え、そんな財源がどこにある」と言いたくなる人も多いでしょうが、もちろん扶養控除とか家族手当とか、そういうものは当然無くなります。それから、いくつかの税金の税率は増えたりすると思います。そうすれば不可能ではないと考える経済学者もおられるようです。
 また、この前の衆院選で当選した新党日本の田中康夫さんは熱心にベーシック・インカムが日本を救うんだと主張しておられます(ちなみに、私が新党日本の支持者というわけではありません)。
 あるいは、実は部分的なベーシック・インカムは、もう既に「定額給付金」とか「子ども手当」という形で始まっているんだ、と言う人もいます。
 ただ、全ての人に最低限の所得を配分する、といっても税率は上がるわけですから、お金持ちにとっては嬉しくない制度とも言えるようです。ですからこの制度を導入する事にお金持ちが反対するから、なかなか難しいだろうという見方もあるようです。
 しかし、これが実現すれば、生活が苦しくて自殺してしまうとか、失業したからといって即その日から住処を追い出されるとか、生活のためだからと言って不本意な仕事を続けたりすることが少なくなるかもしれません。
 日本は世界有数の自殺大国です。年間3万人を超えるひとが自分で命を絶つと言われ、その多くは40代、50代の人です。多くは生活、仕事、お金などの悩みであろうと言われます。その命が捨てられなくて済むようになるかも知れません。

古代人イエスの直観

 イエスの生きていた時代には、「ベーシック・インカム」という言葉はありませんでしたし、もちろん「生活保護」とか「社会福祉」という言葉もありませんでした。
 ただイエスは、ひとりの貧しい人間として、「働ける人間も、働かない人間も、働けない人間も、同じように食べていけるだけのお金が天から降ってきたら、それこそ神の国ってもんだよなあ」と、同じように貧しい人たちと一緒に語り合っていたのでしょう。「神の恵みというものがあるならば、そういうもんでなきゃいけないだろう」という、イエスの信仰的直観みたいなものでしゃべっていたんだと思います。
 ただ、残念ながら、そのような神の国は、イエスやイエスの弟子たちが思っていたほど早くは来ませんでした。そして、今も来ていません。どうやらそういう社会は、神さま任せにしていても来ない。そういう社会を実現するには、人間が何とかしないとどうにもならないということなんだろうと思います。
 ベーシック・インカムが最も優れた方法かどうかを判断する力は私にはありませんので、それが一番いいと言う事まではできません。それに、政治的な方法が神の国を実現するのだ、と言うつもりもありません。
 ただ、貧困から人間を解放することは神の御心ではないかとイエスが言ったのは確かだということです。また、労働からの解放も視野に入れているとも言えると思います。貧困からの解放、労働からの解放は、経済の究極の目的だと聞いたことがあります。経済の究極の目的は、神の御心の実現と重なってくるわけですね。
 私たちはみんなが政治家ではないし、みんなが学者というわけではありませんが、少しでも神の御心にかなった世の中を作るために、自分にできること——それは祈ることだけでもいいのだと思いますが——をする。それが良い生き方なのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 お祈りをいたしましょう。

祈り

 私たち一人一人に命を与え、「生きよ」と勧めてくださる神さま。
 今日も私たちにこの礼拝の場に集わせ、祈りを捧げる時を与えてくださいました事を感謝いたします。
 私たちが互いに支え合い、生かし合う社会を、教会の中にも外にも作り出してゆけるように、その希望と力を与えてください。
 この祈りを、イエス・キリストの御名によってお聴きください。
 アーメン。

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