良心に束縛された自由

2009年11月27日(金) 同志社香里中学校高等学校・創立記念ショート放送礼拝奨励

説教時間:約9分(前後のトークを入れて12分) お聴きになりたい方は→audio

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聖書:ヨハネによる福音書8章32節 (新共同訳・新約)

 「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

はじめに

 今日は同志社の創立を記念する礼拝です。
 本来なら特別な講師を招いて、香真館で礼拝をしたいのですが、インフルエンザの感染予防のために、全校が集まるのは避けて、こうして教室で礼拝を守ることになり、また、お話は私、富田がすることになりました。
 5分か6分で同志社スピリットについて語るというのは難しいんですが、今日はポイントをしぼって、同志社における自由とは何かについて、お話してみたいと思います。内容的には、いま中1の聖書科の授業で話していることとかぶる部分があるかも知れません。
 同志社は自由の学園だ、あるいは新島襄は自由を愛する人だった、ということはよく耳にしたことがあると思います。
 これに対して、一体この学校のどこが自由やねん、と思う人もいるでしょうし、反対にもっときちんと校則決めてほしい、その方がわかりやすい、と思う人もいると思います。

アメリカのキリスト教に基づく

 実は、新島襄の自由の考えの土台にはキリスト教があります。
 新島襄がアメリカで学び、信じたキリスト教は、プロテスタントのなかでも特に「会衆派」と呼ばれるグループのキリスト教です。
 この会衆派のクリスチャンたちは、自由というものを非常に重んじる人たちで、その結果、イギリスから出て、自由を求めてアメリカ大陸に渡った人たちです。
 そして、アメリカにおいても、イギリスの植民地として本国の支配を受けることに耐えられなくなり、イギリスと戦争して独立を勝ち取った人たちの中心にいたのも、この会衆派の人たちです。
 ですから、ここにアメリカの自由主義の恐ろしいところもあると思いますが、アメリカという国は、武器で自由を勝ち取って建国された国ですから、自由のためには戦争を起こしてもいいんだ、と真剣に信じているところがあります。だから逆に軍隊を送っておいて、それは相手の国に自由を与えるためなんだ、人々を解放するためなんだと言うと、それで通ってしまう怖さがあります。
 とにかく、新島襄にキリスト教的な自由を教えた人たちは、自由のためには命を捨ててもかまわない、あるいは自由のために命を奪っても構わないとまで信じていた人たちだったわけです。
 この場合の自由とは、権力の不当な支配を受けない。自分のことは自分で決める、といったことです。これはアメリカ合衆国という集団でもそうですし、ひとりひとりの個人でも同じです。

最良の自由を求めて

 ところで、ひとりひとりが、みんな自分の自由を、それこそ自由に主張し始めたら、どうなるでしょうか。そういうのを自分勝手とかわがままと言いますが、みんなが、俺の自由を尊重しろ、あたしの自由を尊重しろ、と言い出したら、結局お互いの要求がぶつかり合って、誰もが自由で無くなります。
 また、もっと恐ろしいのは、野放しの自由主義というのは、結局ケンカの強い者のわがままが通るということになりやすい。つまり、権力者が出て、他の人を支配して、その権力者以外の全ての人が自由を奪われるのです。
 そういうわけで、自由というのは無制限ではダメだ、無制限の自由は結局みんなから自由を奪うようだ、ということになり、めいめいの自分勝手を制限するルールが必要だということになります。
 そこで、規則を作ることになるわけですが、規則というのは大体、何々をしてはならない、という形になりやすいです。旧約聖書に書かれた紀元前の十戒でも、あなたは殺してはならない、盗んではならない…といった風になっています。
 こういう禁止命令の問題点は、たとえば、「これこれさえしなかったらいいんでしょ」という人間を生み出してしまうことです。たとえそれが、いいことだろうが悪いことだろうが、規則に書いてないことは何をやってもいい、という考えの人間が出てきます。
 そうなると、何か法の抜け穴みたいな所をついた問題が起こるたびに、もっと規則を細かくしたり、厳しくしたりしなければならなくなります。そうなると、また人間の自由は制限されてゆきますし、法の抜け穴を突く悪い奴ほど得をするというようでは、世の中は生きていても楽しくも面白くもありません。
 また、禁止命令ではなく、あれこれしなさい、という命令がもしあったとして、それがどんなにいい内容であったとしても、義務や強制でやれば、気持ちのない空しいものになり、堕落してゆきます。

良心に束縛された自由

 そこに欠けているのは何か、それは良心である、と会衆派の人たちは考えました。良心が欠けているから、規則を破る人と規則のイタチごっこになり、規則はどんどん増えて人は不自由になってゆきます。しかし、自由はできるだけ制限したくありません。そこで、皆さんも授業で何回も聞いたと思いますが、「良心に束縛された自由」という考えが出てくるわけです。
 良心に束縛された自由、つまり、自由を制限するものは良心だけでいい、それが理想だということです。
 規則で禁止されていることをしないのは当たり前ですが、規則に書いてないことでも、自分の良心でいいことだと判断したことは自由にやりなさい。良心に従ってやることは、誰にもさまたげられる必要はない。良心から行うことは限りなく自由であるべきだ。こうすれば、人間は規則を超えて自由に生きられる、と考えたのですね。
 新島襄は、このような自由の考え方をアメリカで学んで、それを日本にも広めたいと思ったわけです。
 というわけで、同志社における自由とはどんなものであるか、少しはイメージが描けましたでしょうか?
 規則に書いてあるかないかに関係なく、ひとりひとりが自分の良心に従って毎日を生きてゆけば、どんどん世の中はよくなるし、規則も最小限で済みます。
 自由な自発的で自主的な良心。その良心に従って生きることが、人間を一番自由にする。それが、良心に束縛された自由、ということです。
 我々もお互い良心に基づいて判断し、良心に基づいて行動し、良心で人と触れ合いながら生きていきたいですね。
 それでは、お祈りをします。目を閉じてください。

祈り

 私たちを愛し、命を育んでくださる神さま。
 今日もこうして生かされて、ここにある事を感謝します。
 私たちがいつも、お互いの自由を尊重し合い、守り合い、良心を十分に働かせて共に生きる生活を続けてゆくことができますように、どうかお導きください。
 この祈りを、イエス・キリストの御名によってお聴きください。
 アーメン。

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