この生きにくい時代に

2009年12月17日(木) 同志社国際中学校・高等学校 教職員クリスマス礼拝説教

説教時間:約20分(音声版はありません)

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聖書:マタイによる福音書2章9〜16節 (新共同訳・新約)

 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。
 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトかたわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。

虐殺を背景に

 クリスマスは、イエス・キリストの誕生の祝いであり、天使に選ばれた乙女マリアと、慈愛に満ちた父親である大工のヨセフという、若い二人の愛に包まれて、神の子イエス・キリストがこの世にお生まれになった……という牧歌的な風景がよく描かれる行事であります。
 その優しく柔らかな印象のある出来事のなかで、今日読んだような聖書の箇所は、あまり多くの人に注目されるところではありません。
 読んでみれば、ずいぶんひどい、残酷な話です。
 東方からやってきた、といいますから、たぶんペルシアあたりの占星術の学者たちでしょうが、彼らが「新しいユダヤ人の王を拝みに来ました」と、これも間抜けな話ではありますが、ユダヤ人を治めているヘロデ大王のところで本人に言いました。「あんたはもはや王ではないよ」と言っているようなものです。
 これに怒ったヘロデ大王が、占星術の学者たちが予言したベツレヘムという街の周辺一体の2歳以下の男児は全員殺すという暴挙に出ました。あの優しさと愛にあふれたクリスマスのイメージとは裏腹に、イエスの誕生の背後には、この大量虐殺が潜んでいるというわけです。この箇所をとって、救い主の誕生には、これほどの犠牲が必要だったのか、イエス・キリストの誕生は本当におめでたい出来事なのか、と言う人もいます。

モーセの再来

 しかし、この残酷な出来事は、おそらく事実ではありません。というのも、この物語は事実を伝えようとして書かれたものではなく、あるメッセージを主張するためのものだからです。
 イエス・キリストが大王の幼児虐殺から逃れてエジプトに行き、危険が去ってから再びパレスティナにやってきた、という物語は、救い主はユダヤ人の歴史的ヒーローのひとり、モーセの再来であるということを主張したいがために作られたものです。
 モーセという人は紀元前 1250年ごろ、エジプトで奴隷にされていたユダヤ人の先祖にあたるヘブライ人たちを解放し、民族としてまとめ、パレスティナ地方に導いた歴史的英雄でした。そして、このモーセは、彼が属しているヘブライ人の幼児がファラオに皆殺しにされたのにも関わらず、奇跡的に生き残った人でした。
 ですから、イエスが虐殺を逃れ、エジプトからやってくる、というのは、モーセにあやかっているということです。
 ただ、ヘロデによる幼児虐殺は事実ではないでしょうが、それにしてもこういう物語が書かれる背景には、「あのヘロデならやりそうだ」という感覚、その時代の気分みたいなものがあったのだろうとは思われます。このヘロデ大王という人は、非常に猜疑心の強い人で、自分に敵対的な立場の人間は徹底的に虐殺しましたし、自分の妻も、子どもたちも処刑したような人物です。ですから、福音書作家も、「あいつならやりそうなことだ」というようなニュアンスで書く事ができたのでしょう。

心病む時代

 このイエスの生まれた時代の気分、時代の感覚を読み取る上で、私が注目しているのは、「悪霊にとりつかれた人」の存在です。
 新約聖書の福音書の中に、よく「悪霊にとりつかれた人をイエスが治す」という場面が何度もたくさん出てきます。手足が麻痺している人たち、中風で苦しむ人たち、婦人家系の病気に悩む人たちに混じって、悪霊にとりつかれた人がイエスに悪霊を追い払ってもらっています。
 これを読んで私は、「ああ、イエス様はすごいな、いろんな病気を治す力があったのだなあ」とは受け取りませんで、不信仰な人間ですので、「たぶんは、これは事実の報告ではないだろう」と受け取ります。
 しかし、当時この福音書の読者が住んでいたあたりでは、「悪霊にとりつかれている」と言われた人がたくさんいたから、こういう物語が書かれているんだろうな、と思うわけです。
 今から2000年近くも前の古代人が「悪霊にとりつかれた」と表現した症状が、現在の私たちの医学のカテゴリーでどんな病気に該当するのかは明確ではありませんが、それにしても、どうやらそれは、ケガや皮膚病、あるいは身体的な障がいを指すのではなくて、心の状態とか発言や態度、振る舞いなどが病んでいる状態をさしているようです。つまり今で言うところの心の病、あるいは精神障がいのようなものではなかったかと思われます。
 そして、なぜイエスの物語の中に、たくさんの悪霊にとりつかれた人が登場するのかというと、それは実際心を病んでいる人がとても多くて、人びとの身近に存在していたからではないかと考えられるわけです。

重く苦しい社会

 では、なぜそんな風に心を病む人が多かったのでしょうか。
 それは、たとえば、自分の抵抗勢力には徹底的な虐殺で応酬したヘロデ、自分の地位を揺るがしそうだと思えば、我が子でも剣にかけたこの支配者が行った恐怖政治のもとにあれば、それはかなり大きなストレスだったことでしょう。
 また、その当時のユダヤ系住民は、自分たちのリーダーである最高法院という貴族からの支配も受けていましたので、これは二重支配でした。
 様々な種類の税金を取り立てられ、安定した生活ができる者は少なかったようです。イエス自身も大工の息子と言われていますが、当時、大工というのは、日雇い労働で日銭を稼ぐ無産階級です。農業を営む者も、自分で農地を持っている者はほとんどなく、エルサレムに住んでいる地主たちに雇われて、その日その日をやっと思いで生きています。
 それから、生活が苦しいだけではなく、各地にローマ軍の基地があり、ローマ兵による犯罪や暴力が相次いでいました。この辺りは、沖縄などで見られる基地の町の問題点と共通しています。が、現在のように住民が反対運動をするとかいうことは考えられません。というか、この時代確かにイエスの出身地であるガリラヤ地方等は、反ローマのゲリラ活動が活発だったようなんですが、そういう運動を起こしてはローマ兵に逮捕され、見せしめに十字架にかけられて、悶え苦しんだあげくに殺されてゆくという情景が日常茶飯事です。
 というわけで、とにかく栄養状態も悪いし、将来の見通しも全く無いし、身の安全も確かではない。明日、自分がちゃんとここに生きていられるかもわからない。実際、貧しい階級の人びとは30歳まで生きたら長生きだったと言います。そんな中で、正常な精神状態で生きている方が難しかったんではないかと思います。

チャレンジ

 そんな中で、子を持つ親というのは、どういう気持ちで子どもを守ったのでしょうか。
 自分の地位を守るためだったら、そこらじゅうの住民の家々に押し入って、赤ん坊を皆殺しにするようなことも辞さないような王が治めている土地で暮らしている人びとにとって、子どもを授かり、育てるとは、どういうことなのでしょうか。
 それは壮大なるチャレンジであろうと思います。それは闘いと言ってもいいかも知れません。しかもその闘いに放り込まれたのは、もちろんその当時は珍しくはなかったでしょうが、それにしても私たちから見れば若い、私たちの生徒たちのような、14歳から16歳くらいの初々しい、未熟なカップルです。
 この生きにくい世の中で、自分が生きていくだけでも大変なのに、新しい命を守って育てていかなくちゃいけない。そんな手のかかる苦労を未熟な人間が与えられた、それが救い主が人間に与えられたということなんだ、というのは、なかなか示唆に富む話ではないでしょうか。

この生きにくい時代に

 救い主というのは、私たちを助けてくれる、私たちを楽にしてくれる、私たちに安らぎと和らぎを与えてくれる。それが救い主ってもんだろう、と私たちは思いがちです。
 しかし、クリスマスの物語は、救いは実はあなたが自ら苦労を引き受けることからしか始まらないんだよ、ということを教えてくれているようです。救いを求めて、求めて、「神さまどうか救い主を与えてください」と祈った矢先に与えられたのが、新しい苦労であります。
 子どもというのは、寝ている時には天使だが、起きている時は悪魔だとよく言います。子どもの姿を見ていると自然に癒されるというのは、嘘ではありませんが、半分くらいの真実でありまして、あとの半分は報われたとは言い難い苦労、特に赤ん坊時代というのはあまりに苦労が多すぎて、あとになってその時代のことがよく思い出せないほどゴチャゴチャな毎日の積み重ねです。しかし、このゴチャゴチャの毎日にしか、救いはないのだよということです。
 翻って、私たちのこの時代と社会に目を転じると、この日本という狭い国の中で、自ら命を絶つ人が、1年間に3万人という状況です。この狭い地域で一日100人近くの人が自分から死を選んでいます。やはり、今わたしたちが生きているこの社会も、決して健康な社会ではありません。一日100人の人が自ら命を捨てるという現実の背後に、「死にたい」と思いつつも、ぎりぎりの所で踏みとどまっている人がその何倍も、何十倍もいるに違いありません。
 こんなにたくさんの人が死にたいと思っている状況で、子どもがその影響を受けないはずがありません。いま、小学生の4人に1人が、何らかの形で鬱状態を抱えていると言います。また、小学生の暴力行為が最近急増しているという報告もされています。そのような子どもたちを、これからも私たちは受け入れて、共に生きていこうとしています。
 子どもたちが傷つき、傷つけ合いながら、その命が損なわれ、ダメージを受けている状況を前にして、私たちは何ができるでしょうか。

楽はできない

 具体的な各論はともかく、ひとつ言えるのは、楽をしようと思っていては救いは無い、ということです。神は、まだ未熟なマリアとヨセフに、赤ん坊を育てる、しかもヨセフにとっては自分の子どもではない子どもを育てるという試練が与えました。
 同じように、この生きにくい時代において、私たちは必死になって自分の子でもない子を守り、養い、しつけ、教え、聴き、ほめ、叱り、慰め、助け、その他諸々の努力の結果、気がついてみたらその子が大きくなって、私たちの手を離れて、自分よりも大きくなっている。その事を長いビジョンで楽しみにするならば、その苦労はきっと報われるだろう、そこにあなたの救いはあるよ、ということだろうと思います。
 幸いにして、私たちは孤独ではありません。こうして集まり、協力する同労者がいます。このあたりはマリアとヨセフより有利なのであって、私たちはたった二人きりということはありません。なので、私たちは助け合いながら、苦労を分け合って、子どもを育てていきましょう。
 子どもが私たちのもとに送られてきて、苦労をさせてもらえるということが、私たち自身の救いにつながるんだと信じて、いっしょに邁進してゆきましょう。
 祈ります。

祈り

 私たち一人一人に命を与え、養ってくださる神さま。
 こうして私たちが、あなたから送られた子どもたちと共に学校生活を生きる事ができます恵みを感謝いたします。
 神さま、私たちの前に山積する問題に、果敢に取り組んでゆく勇気を与えてください。
 苦労から逃げるのではなく、苦労を共に担い合うことで、私たちが救われますように、どうか前向きな心を常に与え続けてください。
 イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。

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