命を捨てるために来た

2009年12月24日(木) 日本キリスト教団香里ヶ丘教会クリスマス・イヴ音楽礼拝説教

説教時間:約16分(前後のトークを入れて約19分) お聴きになりたい方は→audio

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聖書:マタイによる福音書1章18~25節 (新共同訳・新約)

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。
 母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。
 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
 そのナはインマヌエルと呼ばれる。」
 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

夢みる人ヨセフ

 みなさん。クリスマスおめでとうございます。
 今日ここに、キリストの誕生と、新しい一年の始まりを、共にお祝いできますことを歓びたいと思います。
 さて、イエス・キリストの誕生の物語、乙女マリアには天使ガブリエルがイエスの誕生を予言し、マリアの夫ヨセフにも天使のお告げが夢を通して下ります。ヨセフは、マリアの妊娠を聞いたとき、自分の子ではない子どもを宿したマリアと別れようとします。しかし、そんなヨセフを止めるために、天使はヨセフの夢の中に現れます。そして、マリアのお腹のなかの子は、聖霊によって宿ったものですよ。その子が産まれたら、イエスと名付けなさいよ、と告げます。
 この夢のお告げから始まるイエスの誕生物語で、このヨセフが何回夢を見ることになったか、みなさんはご存知でしょうか……?
 ……正解は4回です。
 1回目は、今申し上げました。マリアのお腹の中の子どもは聖霊によって宿った子なんだよ、というお告げです。
 2回目は、東の方からやってきた占星術の学者たちが、幼子イエスを拝みにきて、帰っていった後、また主の天使がヨセフの夢に現れて、「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」と告げます(マタイ2章13節)。それで、ヨセフはマリアとイエスを連れて、エジプトに去ったとされています。
 3回目の夢は、ヘロデ大王が死んだ後です。主の天使がヨセフの夢に現れて、「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」と告げます。それでヨセフは、イスラエルの地に帰ってくるわけですが、ヘロデ大王の息子のアルケラオがユダヤ地方を支配していると聞いて、恐れます。
 すると4回目の夢でお告げがあり、それに従ってガリラヤ地方のナザレという町に引きこもった、というわけです。
 なぜ、ヨセフはこんなに何度も夢を見ているのでしょうか。
 それは、「ヨセフ」は夢見る人の名前だということが旧約聖書の創世記によって伝えられているからです。
 ヤコブとラケルの息子ヨセフは夢で未来を予知し、また人の夢を解釈できる力によって、エジプトで王に次ぐ地位を得たという、ユダヤ人にとっての歴史的ヒーローです。
 そういうわけで、大工のヨセフも夢を見、夢を解釈する力で、幼子イエスの命をヘロデ大王の魔の手から救います。

モーセとダビデの再来

 ヨセフはヘロデから逃れて、マリアとイエスをエジプトに連れてゆきます。なぜエジプトなのでしょうか。それは、もう一人のヒーローの姿が重ね合わされているからです。
 お気づきの方もいらっしゃるでしょうが、幼児の虐殺から逃れてエジプトから現れた旧約聖書の人物、それはモーセです。
 モーセはヨセフのことを知らないファラオがイスラエル民族の人口を減らそうとして、イスラエルの幼児を大量虐殺したとき、奇跡的に難を逃れて生き残り、イスラエルをエジプトから解放する事に成功しました。ユダヤ人の間で今でも盛大に祝われている過越の祭は、モーセによってイスラエルが自由を得た事を祝う祭です。
 ですから、新たに生まれる救い主、キリストも、幼児の大量虐殺を奇跡的に逃れて、エジプトから現れる者でなくてはなりません。ですから、幼子イエスはエジプトに一旦連れてゆかれ、ヘロデ王の魔の手を逃れて、再びイスラエルの地にやってくる者として描かれています。
 更に、ヨセフとマリアはベツレヘムという町でイエスの出産を迎えますが、これにももう一人のヒーローの姿が重ね合わされています。これもご存知の方が多いでしょうが、ベツレヘムで生まれたダビデ王です。
 ダビデとその息子ソロモンの王朝は、イスラエル民族、後のユダヤ人の歴史において黄金時代でした。長い間、周囲の大国の支配を受け続け、自分たちの国土と自治というものを持てなかったユダヤ人にとって、ダビデ・ソロモン王朝というのは、後にも先にもない黄金時代でした。
 そして、いつかユダヤ人に独立と繁栄を取り戻してくれるメシア(救い主)は、ダビデの子孫から出るであろう、という期待が、この時代のユダヤ人の間には広まっていました。
 マタイの福音書は、イエスがこのメシア待望に応える者なのだ、ということを主張するために、ダビデの出身地と同じ土地でイエスが生まれたという物語を描きました。

メシアの発見

 しかしイエスが、ユダヤ人が待ち望んでいたタイプのメシアであったかというと、それは違います。
 ユダヤ人の多くは、強い軍隊を持つローマ帝国からの支配をはねのけ、ユダヤ人の独立を奪い返し、ユダヤ人の国に繁栄をもたらしてくれる指導者を求めていました。
 しかし、イエスはそういう政治的なリーダーにはなりませんでした。むしろ、命の危険さえも顧みず当時のユダヤ人が正しいと信じていた宗教に反抗してでも、ひたすら人を愛し、ひたすら人を癒し、ひたすら人に罪からの赦しを宣言して歩いた、実践的な宗教家でした。
 イエスは多くの人びとが望んだ人ではありませんでしたが、彼に直接ふれた人には、消す事のできない歓びと感謝を残しました。にも関わらず、イエスが捕らえられて命を奪われるとき、彼に愛された人は、誰も彼を助けることはできませんでした。いや、むしろ、ほとんどの者は彼を見捨てて逃げました。彼はたった一人で孤独のうちに、これ以上ないというほどの苦痛と恥を与えられて死んでゆきました。
 彼を慕いながら彼を見捨てた人びとは、その罪意識に苦しみました。そして、なぜイエスが死ななければならなかったのか、また、なぜ神がイエスを見捨てたのかを考え続けました。そして、彼らは自分たちの民族が代々伝えてきた聖書の中に、その答があることを発見しました。
 旧約聖書のイザヤ書53章に、人びとの罪を贖うために、つまり人びとの罪の身代わりとして罰を受け、その代わり人びとが神から赦されるために、生け贄の小羊として殺されてゆく「苦難の僕」の姿が描かれています。これはイエスだ、と彼らは確信しました。
 そこから彼らは、旧約聖書のあらゆる物語や預言がイエスの到来を予告するものだったのだという観点から解釈しなおしました。そして、そこから新しい礼拝、新しい思想、新しい実践が生まれ、キリスト教の基礎になるものができあがってゆきました。
 そして、イエスは神の子羊として、何度も礼拝の中でよみがえりました。その礼拝が基になって、誕生の物語も、十字架の死の物語も、復活の物語も次第に形が整えられてゆき、やがて私たちが知るような福音書の物語となってゆきました。

死とつながる誕生

 というわけで、キリスト教の出発点は、イエスの死についての疑問から始まったと言っていいでしょう。
 そして、私たちがクリスマスに読むイエスの誕生の物語もまた、イエスの死と分ちがたく結びつけられています。
 イエスが十字架で死んだ後、彼の遺体を引き取ったのは、アリマタヤのヨセフという人物であったとされています。彼はイエスの遺体を新しい墓におさめたとされています。そして、その様子をマグダラのマリアを始めとする女性たちが見守りました。
 当時のお墓は岩を掘って作った洞窟のような横穴の中に石のベッドがあり、そこに布にくるんだ遺体を寝かせました。イエスもそのように布にくるまれて寝かされたというわけです。
 もうお分かりの方もいらっしゃると思いますが、これはイエスの誕生の情景とよく似ています。ルカの福音書によれば、赤ん坊のイエスは布にくるまれて飼い葉桶に寝かされたと言われていますが、当時の家畜の餌である藁を入れておく飼い葉桶というのは、掘りの浅い臼のような形をした石づくりの台なのです。
 つまり、イエスは生まれた時も、死んだ時も、布にくるまれて、石の上に寝かされ、ヨセフという名の男性とマリアという女性に見守られることになるのです。
 これにより私たちは、イエスはその誕生の場面において、すでに彼が多くの人のために死ぬことが運命づけられていたのだということを知るのであり、また逆の見方をすれば、彼の死は新たな命への誕生であったのだというメッセージを読み取ることもできるのであります。
 イエスは死ぬ為に来た人です。
 彼は、私たちの罪、すなわち私たちの暴力、私たちの争い、私たちの敵意、私たちの嘘、私たちの裏切り、私たちの疑い、私たちの思い上がり、その他数え上げだしたらきりがない人間としての欠点を全て贖うために、私たちの身代わりに罰を受けて死ぬためにやって来ました。
 そのことは、彼の誕生の場面にすでに予告されているのであります。
 イエスの誕生の物語は、イエスの贖いの死を抜きには、読み取ることはできません。
 イエスの死に感謝しつつ、イエスの誕生をお祝いしましょう。
 祈ります。

祈り

 神さま、御子の誕生を祝い、私たち、共に歓びの礼拝を捧げることができます恵みを心より感謝いたします。
 あなたが尊い御子をこの世にお送りくださり、私たちはあなたの大いなる愛を知りました。そして、御子の命によって私たちは贖われ、赦され、救いを得ました。
 願わくば、私たちもあなたの愛を告げ広める者として、あなたが用いてくださいますように。
 この祈りを、御子の尊い御名によって御前にお捧げいたします
 アーメン。

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