いたはる

2010年1月5日(水) 日本キリスト教団香里ヶ丘教会新年祈祷会奨励

説教時間:約14分(前後のトークを入れて約17分) お聴きになりたい方は→audio

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聖書:創世記3章17~19節 (新共同訳・旧約p.4-5)

 神はアダムに向かって言われた。
 「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。
 お前のゆえに、土はのろわれるものとなった。
 お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
 お前に対して、土は茨とあざみと生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。
 お前は顔を汗を流してパンを得る、土に返るときまで。
 お前がそこから取られた土に。
 塵にすぎないお前は塵に返る。」

汗を流してパンを得る

 今日読んだ聖書の箇所は、人間がなぜ労働をしなければならなくなったのかを説明するための原因譚(げんいんたん)と言われています。そして、一般には、ここで描かれている労働というのは、人間にとって喜ばしくないものとして扱われていると解釈されています。
 確かに、この箇所を読むだけでは、労働の苦労ばかりが強調されているように読めます。これは、おそらくこの創世記を書いた時代のパレスティナの人びとにとって、地を耕して食料を得るということがいかに苦しかったかを訴えるものなのでしょう。そこでは、労働を喜びあるものとか、誇り高き労働者とか、そういう思想が生まれる以前の状態だったのだと思います。
 というわけで、この人間にとっての労働の始まりを記す聖書にきっかけを得て、今日は労働の
「労」という漢字に注目してみたいと思います。

「労」

 「労」という漢字には、訓読みが4種類あります。
 
「はたら(く)」「つか(れる)」「ねぎら(う)」「いたわ(る)」の4つです。
 「はたらく」という読みのあるとおり、この漢字を使った「労働」という熟語があるのは、最初にあげましたとおりです。
 「つかれる」という読みがあるのも、この漢字を使った「疲労」という熟語があることがすぐに思い出されます。
 「はたらく」と「つかれる」が同じ文字であるということから、私たちは、働くというのは疲れることをするのであって、疲れないようなものは労働とは言えない、ということを読み取ることもできます。
 「苦労」の「労」も、「はたらく」と「つかれる」の2つの意味を背負っているように思われますが、「苦労」にも最低2種類はあって、喜んでする「苦労」や心地よい「疲労」もあれば、やっていることに全く喜びも意味も見出せない、いわゆる「徒労」というものもあります。
 これに加えて、今回わたしがこの言葉に注目してみようと思ったのは、この字が
「ねぎらう」「いたわる」あるいはその形容詞形の「いたわしい」という読みに心を惹かれたからです。

いたわる・ねぎらう

「いたわる」という言葉は、お年寄りや病人あるいは困っている人に優しく接すること、大事にすることを言う場合が多いです。
また、病気の人が自分のことを守って養生する場合も「いたわる」という言葉を使います。「もっと自分のことをいたわりなさいよ」などと言ったりします。
しかし、この
「いたわる」という読みの中に、すでに「ねぎらう」の意味も入っていて、「だれそれの苦労をいたわる」と言うだけで、「苦労をねぎらう」という意味になります。
また古い日本語では、
「いたはる」という言葉の中に「苦労する」という意味が入っていたりします。
さらには、これも古語ですが、
「いたはる」という言葉が「病気になる」という意味で使われていたりします。
病気になることと、病人を大切に扱うことが、同じ言葉で表されるのは面白いですね。それと同じように、
「ねぎらう」という言葉も、人の尽力や苦労を慰め感謝することですが、「労を労う」という言い方では、同じ漢字を2回使っていますように、苦労をすることと、その苦労に感謝する事は同じなわけです。
このように、病気になることと、病人を大切に扱うことが、同じ言葉で表されるということ。また、苦労することと、苦労をねぎらうことが、同じ言葉で表されること。
逆に言うと病人を大切にすることは、自分も病気になるようなものだ。苦労をねぎらうというのは、同じ苦労を背負うようなものだ。そういうことが連想されてきます。
ここに、人の苦しみを自分の苦しみとして共に担おうとするような深い哀れみの心が、この「労」という漢字一文字に込められているような気がします。

「労」は罰か

 今日読んだ創世記の記事では、人間が苦労して生きざるを得ないのは、神の戒めを守らなかった罰だ、と言っています。
 創世記が書かれたのは今から2500年ほど前のユダヤの地ですが、その頃のユダヤ人にとっては、労働というのは忌むべきものとしか捉えられなかったのかも知れません。
 それだけ過酷な条件で生きざるを得ない人たちが多く、その人たちを納得させるために、このような物語が必要とされたのだろうと思います。
 いま現在の私たちの社会では、直接土に触れて苦労して食べ物を得る人の割合は減りました。しかし、それにしても、日々生きていくことが苦労で仕方が無い人はたくさんいます。
 仕事がない、お金がない、体の調子が悪い、心の状態も不安定だ、家もあちこちガタが来ているし、この先明るいことが起こりそうな予感もない。そんな閉塞状態の中で私たちは、どうやって生きてゆけばいいのでしょうか。
 そのような状態に置かれている私たち現代人が、聖書の言葉を読んで、何か希望のようなものが得られるでしょうか。
 残念ながら、本日お読みした創世記の記事では、私たちは納得することはできません。なぜなら、私たちは、2500年前の奴隷ではないからです。2500年前の人間が、どうしようもない自分の状況に甘んじるには、この程度の物語でよかったのかも知れませんが(あるいは全然納得してなかったのかも知れませんが)、今の私たちは、もっとよいメッセージを受け取りたいのではないでしょうか。
 これに対して、イエスは人生の苦しみや疲れに対しては、なんと言っているでしょうか。

する者は我に来れ

 マタイによる福音書11章28節以降に、こういうイエスの言葉があります。
 
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わた しの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」
 これを文語訳で読んでみますと、新共同訳では「疲れた者」となっているところが、「凡て
する者」と訳されております。「する者」、「労」という漢字です。原典のギリシア語で何と言ってるかはともかく、日本語で「疲れた者」と「する者」では意味の幅が全然違います。
 「凡て
する者」と言いますと、労働や人生の様々な苦労で疲れている人も含みますが、その他にも、病気で苦しんでいる人、毎日痛い思いをしている人、年老いた人を含みます。そして「労」の文字の意味の広がりから言えば、その病気で苦しんでいる人を労っている人、人の苦労をねぎらい、いたわっている人も含みます。
 生きている苦しみを苦しむ当事者もその当事者に寄り添う人も、凡ての人が私のもとに来なさい、とイエスは呼んでくださっているのであります。
 
「凡てする者、重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません。我は柔和にして心卑ければ、我が軛を負ひて我に學べ、さらば靈魂に休息を得ん。わが軛は易く、わが荷は輕ければなり」
 イエスが「我が軛を負いて我に学べ」と言うとき、何を学ぶのか、それは互いに
することによって、疲れや痛み、悩みを共に負うことを学びなさい、という意味に取れるような気がします。そうすれば「魂に休みを得るでしょう」ということです。
 「わが軛は易く、わが荷は軽ければなり」。そうやって、苦労を共にすることを学んだ人の集まりは、互いの苦しみを和らげ、互いの苦労を軽くすることができるでしょう。
 イエスは、そうやって共に
し、共に労い労り合う群れになりなさいよ、と私たち人間を招いてくださっているのではないでしょうか。
 祈りましょう。

祈り

 私たちに命を与え、愛してくださる神さま。
 こうして新しい歳を迎えることができ、心新たに生きなおすことができます恵みを感謝いたします。また、歳の始めに、こうして敬愛する教友の方々と祈りを合わせることができますことを感謝いたします。
 どうか、この新しい歳も、健やかに、歓びに満ちて生きることができますように、あなたの恩寵を豊かに知る信仰をお与え下さい。
 この祈りを、イエス・キリストの御名によって、お聴きください。
 アーメン。

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