神に見捨てられてもよい

2010年2月7日(日) 日本キリスト教団北六甲教会聖日礼拝説教

説教時間:約25分(前後のトークを入れて約27分) お聴きになりたい方は→audio

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聖書:ローマの信徒への手紙9章1~3節 (新共同訳・新約p.286)

 わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。
 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。

神から引き離すものはない

 今日は使徒パウロのお話をしようと思います。
 パウロは新約聖書の27の文書のうち、7つの手紙、つまりおよそ4分の1を一人で書いた人であり、また彼の名前を使って別の人が書いた手紙も6つありますので、合わせて13。新約聖書の約半分に影響を与えているわけでして、新約聖書の著者グループのうち、最大の人物であると言えると思います。
 そして、本日お読みしました「ローマの信徒への手紙」は、パウロの書いた手紙の中でも、最も新しい、彼の伝道活動の最後にあたる時期に書かれたものだとされています。
 この手紙を最初から読んでいきますと、彼が、ユダヤ人とそうでない民族との間に横たわる問題に悩みながら語っていることがわかります。
 1章の、冒頭の呼びかけから彼は、
「わたしはギリシア人にも未開の人にも……果たすべき責任がある。それでローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのだ」(1章14-15節)と話しかけています。
 この問題に関するパウロの発言を追ってみますと、この
1章16節には、「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です」
 
2章9節、10節には「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます」
 
3章29節、30節「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者をも信仰によって義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです」
 そして、パウロは神がユダヤ人に与えた律法の本当の狙いと、人間の罪というものの本質、そして罪ある人間がいかにイエスの十字架と復活によって救われるのかについて、こんこんと説いてゆきます。
 そして、その説教のクライマックスにおいて、
8章35節「だれが、キリスト・イエスの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」と彼は確信を持って断言します。
 8章の末尾、
「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(38〜39節)

神に選ばれた民でありながら

 しかし、その直後、一転してパウロの言葉の調子は変わります。
 
「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。
 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」(9章1〜3節)

 ……あれほど、天地の何ものも、わたしたちをキリストの愛から引き離すものはない、と断言していた彼が、そのキリストと離されても、また神から見捨てられてもよい、と言ってしまいます。
 ユダヤ人にもギリシア人にも、すべての人に神は救いをもたらす。しかし、本来ユダヤ人は、その祖先アブラハムが、
「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記12章3節)と言われ、地上のあらゆる民族が、彼らを通して祝福されるために遣わされる、神から選ばれた特別な民族だったはずです。
 パウロは自分自身そのユダヤ人でありながら、もはや神はユダヤ人だけの神ではない、と言わなければなりませんでした。しかし、それは彼にとっては、自らの半生を否定するかしないかのギリギリの線をまたいだ告白であったと言えるでしょう。

ユダヤ人の中のユダヤ人

 もともと彼は非常に民族主義の強いユダヤ人でした。彼がローマ帝国の属州であるキリキア州のタルソスという町に生まれ、ディアスポラのユダヤ人によくあるようにギリシア語名の「パウロス」とヘブライ語名の「サウロ」の両方を持っていた、またローマの市民権を持っていたことはよく知られております。
 彼は、ユダヤ教の勉強をするために、エルサレムのガマリエル1世という名高いファリサイ派のラビの所に留学していました。そして、彼自身の言葉によれば
「ヘブライ人の中のヘブライ人」でした(フィリピの信徒への手紙3章5節)。そして、「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(同5〜6節)と語っています。
 おそらく、これは私の推測なのですが、彼はエルサレムにいる他の律法学者やラビたちの間で、誰よりもユダヤ人らしいユダヤ人になろう、負けてはならないと必死だったのではないかと思います。
 というのも、ローマ帝国の市民権を持っているということは、帝国の中では地位が保証されているということを意味していましたが、それが逆にイスラエル在住のユダヤ人の間では摩擦の種になったのではないだろうかと。ローマ帝国によって占領され、自治・自立を奪われたユダヤ人の多くにとっては、ローマは撃退されるべき侵略者であり、ローマを追い出してユダヤ人の王国を再び実現してくれるのが、来るべきメシアでした。
 ですから、そういう空気の中で、ローマ帝国の市民権といういわば特権を持って留学してきた、ヘブライ語よりもギリシア語のほうが達者なような、そんなパウロに対する風当たりは非常に強かったのではないだろうかと思うわけです。
 そして、そんな中で、彼はユダヤ人の中のユダヤ人となり、誰よりも熱心に律法を守り、そしてユダヤ教の中で新しく起こって来たナザレのイエスの教えを信奉する者に対する迫害にも、人一倍熱心になったのではないでしょうか。

迫害者パウロの崩壊

 それは大変無理のある、バランスを失った不自然な姿勢と言えます。彼はナザレ派の者たちを「殺害の息をはずませながら」(口語訳:使徒行伝9章1節)「家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」(使徒言行録8章3節)といいますが、そういうことを誰かに強制されたわけではありません。
 使徒言行録によれば、むしろ彼の師匠であるガマリエルは、「ナザレ派からは手を引け」と言っています。
「あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」(5章38〜39節)と言ったと記録されています。
 師匠が放っておけと言っているのに、パウロはナザレ派への攻撃をやめることができません。そうすることで彼は、自分が誰よりも熱心で純粋なユダヤ教徒であることを証明しようとしたのではないでしょうか。
しかし、彼は自らの手で連行し、脅迫し、殺害したナザレ派の者たちが、苦しめれば苦しめるほど、
「イエスの名によって辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」(使徒言行録5章41節)、イエスの十字架に続くことを喜びながら、しかも自分を殺すパウロの罪を、彼に負わせないでくれと神に願いながら死んでゆくのを、何度も何度も目の当たりにしてゆき、ますます一体何が真実なのか、誰が正しいのか、自分は一体何をやっているのか、わけがわからなくなっていったのではないでしょうか。
 そして、どうしようもない自己矛盾の苦しみが限界に達した時に、彼はダマスコに向かう途上で、イエスを見、その声を聞きました。
 そして彼は救われました。

他に生きる道なし

 それからパウロはイエスのことを宣べ伝える者になりました。そのために彼は、今度は逆に、自分の同胞であるユダヤ人たちから命を狙われる者になりました(使徒言行録9章23節以降)。
 その一方で、彼はそうすんなりとはナザレ派の教会のメンバーたちに受け入れられたのでもなかったようです。何しろ、それまで誰よりも熱心にイエスに続く者を迫害していたのですから、そう簡単に信用されるはずがありません。むしろ、彼は非常に恐れられたでしょう。使徒言行録には
「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」と書かれてあります(9章26節)
 パウロ自身にしても、これまで自分が確信を持って殺害していた相手に「信用してくれ」というのは無茶だということは重々承知していたことでしょう。にも関わらず、彼は自分の回心が真実であることを訴えました。
 彼はこれまで彼がキリスト者に対して振るっていた暴力、迫害、殺人を、完全に間違っていたものとして悔い改めていることを示さなくてはなりませんでした。死ぬべきではない人を殺してしまった罪は取り返しがつきません。彼は自分自身が命を狙われるキリスト者として危険に身をさらしてゆく以外に、生きる道を見出し得なかったのではないでしょうか。そういうわけで、彼は、これまでの熱心と同じくらい、あるいはかつての熱心を越える熱心で、キリストの道を宣べ伝えるようになったのではないかと思われます。
 と同時に、彼の熱心には、常に孤独の影があるということも思わざるを得ません。彼はユダヤ人の間でも孤独であったし、キリスト者の群れにおいても孤独だったのであります。

引き裂かれるパウロ

 パウロの回心が、「ユダヤ人の選びから、異邦人への福音へ」といった単純な乗換ではありえないことは、最初からも述べてまいりましたように、彼がこの手紙において、ユダヤ人の救いとユダヤ人以外の民族:異邦人の救いを、いつも並行して述べていることにも明らかです。
 彼は10章でも
「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」と言っています(10章12〜13節)
 しかし、今や救いの歴史は変わったことを、彼も認めないわけにはいきません。ユダヤ人は神に選ばれていたにも関わらず、神から離れ
「不従順で反抗する民」(10章21節)となってしまい、かつては神を探さなかった者たちが神を見出し、神を尋ねなかった者に神は御自分を現している(20節)、そういう時代だということはパウロも否定できませんし、彼自身も異邦人のための福音を宣べ伝える者となっています。
 しかし、それでは、わが「肉による同胞」であるユダヤ人の救いはどうなるのか? ここに彼のかつてのアイデンティティの炎がまだ燃えていることがわかります。
 彼は異邦人キリスト者に対してこう言います。11章です。
 「あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います」(11章13節)、「そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです」(新改訳:14節)
 パウロは、一般的にはエルサレムのペトロやヤコブ、ヨハネなどと違って、異邦人に対する伝道にもっぱら力を入れた人であると説明されることが多い人です。
 しかし、彼の中では最後まで、自分がユダヤ人であり、同時にキリスト者として救われるとはどういうことなのか、もはや神に選ばれた民ではなくなったユダヤ人が、それでもキリストによって救われるとはどういうことなのか、ということが、彼の心を占めていたのではないかと思われます。
 そして、彼はその問題の解決を、「肉による同胞」であるユダヤ人からは裏切り者として命を狙われ、「霊による同胞」であるはずのキリスト者たちからは不信の眼差しを向けられつつ、その両方の立場の間で引き裂かれながら、探っていたのではないでしょうか。
 そして、その引き裂かれる同胞への思いを、思わず吐露してしまったのが、本日の聖書の箇所ではないのかなと思うのです。

神から見捨てられてもよい

 それをもう一度読んでみたいと思います。ローマの信徒への手紙9章1節より。
 
「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。
 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。
 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン」(9章1〜5節)

 「肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよい」というのは、言葉の上ではあまりにも言い過ぎです。また、前後の言葉とも矛盾しています。
 しかし、それほどまでに彼が自分の同胞たちを思う気持ちが激しかったということなのでしょう。
 そして、この引き裂かれた気持ちと似たような思いを、私たちも持つことがあるのではないでしょうか。
 殊に、日本では圧倒的少数者である私たちキリスト者が、自分自身まぎれもなく日本に住む者でありながら、周囲の日本人の間では異質な者とされ、それでもなお日本に住む人のために、隣人のために、地域のために、キリストを伝えようとするとき、このような引き裂かれた心を味わうのではないでしょうか。
 私たちがキリストの道を伝えようとするのは、同胞への愛があるからに他なりません。しかし、同胞たちの生きる道とキリストの道が、あまりに隔たっているとき、同胞への愛のあまり、キリスト教のスタンダードと思われている道から外れそうになることも、時々あります。
 そこまでしてでも同胞に救われてほしいのだ、という激しい情熱を、神が理解してくださらないということはないでしょう。
 パウロはつい感極まってこんな矛盾した事を言いますが、やはりそれは、
(どんなものも)わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(8章39節)、という確信が根底にあるからこそ言えることなのだろうと思います。
 私たちも、どんなものも神の愛から私たちを引き離すことができるわけはないのだと信じつつ、道を外れることも辞さない勇気をもって、肉による同胞たちのために、キリストの道を宣べ伝えてゆきたいものだと思うものです。
 その途上で、私たちが感極まって矛盾に満ちた叫びをあげてしまっても、神は決して私たちを見捨てない。神はわたしたちの心をわかってくださっているのであります。
 祈りましょう。

祈り

 私たちのもとにキリスト・イエスをお送りになり、身を切るような愛を証ししてくださいました、神さま。
 今日もこうして、あなたに愛された兄弟姉妹と共に、あなたに愛と感謝をお返しするべく、礼拝に集められましたことを心から感謝いたします。
 この教会が、世界にある全ての教会と手を取り合いつつ、私たちの肉による隣人のために仕え、あなたの愛を伝える器として、十分に用いられますように。
 この感謝と願いを、イエス・キリストの名によってお聴きください。
 アーメン。

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