意味など無くても人は生きる

2010年5月2日(日) 日本キリスト教団香里ヶ丘教会 主日礼拝説教

説教時間:約20分(前後のトークを入れて約22分) お聴きになりたい方は→audio

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聖書:マタイによる福音書6章26~29節 (新共同訳・新約p.10~11)

 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。

マタイとイエスの見解の相違

 本日お読みしました聖書の言葉は、とてもよく知られた箇所です。
 
「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか……野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6章26〜29節より抜粋)
 このイエスの言葉は、マタイによって編集される過程で、
「命は食べ物より大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」(25節)とか、「なぜ衣服のことで思い悩むのか」(28節)「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな〔口語訳では思い煩うな〕。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ」(31〜32節)といった言葉を付け加えられてしまいました。
 そのため、あたかも「清貧の勧め」というか、「禁欲の勧め」というか、衣食住に心を砕かずに、しっかり信仰に励みなさい、といった教えのように受け取っている人は多いのではないかと思います。
 しかし、空の鳥、野の花について述べているところ、そしておそらく元々イエスが口にした言葉はここだけだったのではないか、と思われる所だけを抜き取ってみると、要するに「空の鳥を見てごらん。働きもしないのに、ちゃんと神さまは生かしてくださるよ。野の花を見てごらん。働きもしないのにちゃんと神さまは花たちを着飾る事を許してくださるよ」ということを言っているのみです。
 つまり、マタイはある程度経済力のある人たちを相手にして、「贅沢なものを食べたり着たりするのはやめなさい」と言っているのに対して、イエスはおそらく、働き口が無くて、食べる物にも着る物にも事欠いている人のことを考えて、「働かない人、働けない人にも、食べたり着たりする権利があるのは当たり前だろう」と言っているわけです。

本当の労働人口

 これは、教会や学校に勤める私たちのような人間にはとてもリアルではないかと思います。
 というのも、若干の例外はありますが、たいてい日本のキリスト教会には高齢の方が多いです。もう現役を引退した人もたくさんおられます。
 逆に私が働いているような学校には、若い人がたくさんいますが、この子たちも働いているわけではありません。教会にも学校にも、労働力としてはカウントされない人が集まっています。
 労働力人口というのは、15歳から64歳までを言うそうですが、それで調査しても、1995年頃のおよそ8700万人をピークにして、今はどんどん減り続けているそうです。いま2010年でだいたい8300万人くらいだそうです。今後は更に下がってゆくと予想されています。
 15歳から64歳までの人間は労働力人口、それが現在8300万人んとして、日本の人口がだいたい1億3000万人ですから、約64%の人が労働力として見なすことができるということなんですが、これは労働可能な人の数ということであって、実際には15歳から64歳までの人がみんな仕事をゲットできているわけではありません。
 現在、日本の失業率は5%と言われていますが、失業者の中には、たぶん生徒、学生や専業主婦などは入っていないと思います。ですから、実際には労働力人口×5%以上の人が、家庭の外に職業を持っていません。
 しかし、いくら15歳以上といっても、実際には日本のほとんど全ての15歳以上の少年少女が高校に行っていると思いますので、正確にはよくわかりませんが、労働力人口の15%くらいは働いていないと仮定するのは、おかしいでしょうか?
 仮にそう計算してみると、日本の人口の約54%程度が実際に労働している人、ということになります。つまり、ほとんど半分です。
 いわゆる職業というものについて働いて賃金をもらう人は、日本の人口の約半分。あとの人は、食べさせてもらっているわけです。もちろん扶養家族として養ってもらっている人もいれば、年金で食べている人もいますし、福祉で生きている人もいますけれども、赤ん坊、児童、生徒、学生、お年寄り、病気のある人、障がいのある人、そして失業している人。みんな生きる権利があるから、生きているわけです。

パウロとイエスの見解の相違

 このあたり、使徒パウロも、イエスとは若干意見を異にしているように感じられます。
 パウロは「働かざる者、食うべからず」という有名な言葉を残しました。テサロニケの信徒への手紙(二)の3章10節です。新共同訳聖書の382ページ。
 しかし、働かない者が食べてはいけないのなら、世の中の半分の人は食べる権利がない、ということになります。もしその論理を徹底するならば、世の中の半分の人が路頭に迷います。
 働く人がその労働で得た収入を、あと半分の人たちと一緒に分かち合う。自分が働いた稼ぎが、自分とは違う世代や違う境遇の人が生きるために使われ、自分もそうやって育ててもらったし、再びいずれは誰かの働いた稼ぎによって支えてもらえる。
 そういう事が実際に行われるのが、福祉社会というもので、それでお互い納得できるから、安心して暮らしてゆけるのであって、それが「納得できない」とか「働かない者は食べてはいけないのだ」などと言い出すと、世の中の半分の人が路頭に迷います。
 しかし、この「働かざる者、食うべからず」という言葉の魔力は、私たちの心をかなりきつく拘束しているのではないかと思います。

働かない者は食べてはならないか

 たとえば、私が勤め先の学校でボランティア活動の窓口などをしていると、子どもの差別意識の中に、親から与えられた影響が非常に強いものがあるということを感じます。
 街中で路上生活を強いられている人を見かけると、「ちゃんと勉強せんかったら、あんな風になるで」と子どもの前で路上生活者を露骨に指差す親がたくさんいるのです。「あんな風になりたくなかったら、ちゃんと勉強し! サボってるとあんなんなるよ!」というわけです。
 この差別発言の根底には重大な間違いがあります。路上生活をしている人、一般にホームレスと呼ばれる人が「働いてない」と思い込むのは間違いです。実は働いているホームレスはたくさんいます。
 例えば、カバン一つ持って路上で寝ながら、あるいは運が良ければ簡易宿泊所で寝て、早朝5時になると寄せ場に出かけて行って、日雇いの労働者を集めるバスやミニバンなどの車に乗って、現場に通っている人はたくさんいます。
 私は釜ヶ崎で見ましたが、釜ヶ崎にも通勤ラッシュがあるんですね。朝の5時前、簡易宿泊所からたくさんの男の人たちが出て来て、職安の方に一斉に歩いて行きます。そこには日雇いの労働者を求める業者の車が集まっていて、そこに向かってものすごい人数が道いっぱいにひしめきながら進んで行きます。
 あるいは、そういう雇われ仕事が嫌いな人は、たとえば毎日あちこちから空き缶を集めてきて、1キロなんぼで(50円くらいでしょうか?)売って暮らしている人もいます。これも立派な仕事です。
 それを仕事と呼べないのは偏見があるからでしょう。生きるためにはホームレスと言えども働かなくてはなりません。彼らが路上生活をするのは、働きたくないからではないのですね。
 ある生徒は「お母さんが『あの人たちが働いてるんやったら、ボランティアに行ってもいい』って言いました」と言うので、私は「もちろん働いてるよ。そうお母さんに言うてくれる?」と答えました。それでボランティアに来ることを許可してもらえた子がいますが、どうもその差別意識が払拭されたとは思えず、しっくりきていません。
 こういう偏見や蔑視の根底にあるのは、「働かざる者、食うべからず」という言葉で表される思い込みです。ですから、「いや、彼らだって働いているんだ。だから食べる権利があるんだ」と言って納得してくれる人がいたとしても、それはこの問題のゴールではないのではないかと私は思います。

労働からの解放

 人間は働くから生きる意味があるのでしょうか。働かない人間は生きている意味が無いのでしょうか。
 イエスはそのような発想に対して、きっぱりと「否」を言います。鳥だって花だって、労働してないのに生かされているじゃないか、というわけです。
 若干イエスの論理は強引ではないかと、私などは思います。というのも、鳥だって働いていると言えば働いているからです。毎日食べる物を探して飛び回るのが彼らの仕事です。
 花だって、1分1秒も休まず、土から水と養分を吸い上げているでしょう。彼らも必死に生きています。
 労働とは何か、といった定義の問題にまで入りたくはないですが、鳥や花が遊んで暮らしているかというと、そうではありません。
 ですから「鳥なんか働かなくても食べているじゃないか」と言うと、ちょっと強引な論理のようにも見えます。
 しかし、あえてイエスは強引に「労働なんてしなくたって、鳥は生かされている。まして人間は鳥よりも値打ちがあるんだから、人間は労働しなくても生きてていいんだよ」と、それが彼の言いたい事なわけです。イエスの言い分は「労働からの人間の解放」です。
 働かなくったって、人間の価値には変わりがない。働かなくても、人間に生きる権利があるのは当たり前。一生懸命働いている人も、遊んで暮らしている人も、同じように養ってくださる。それが神さまってもんだろう。それがイエスの言い分です。
 このイエスの発言は、たとえば、早朝から働いた労働者と夕方にやってきた労働者に同じ賃金をあげるぶどう園の主人の話や、親からもらった財産を使い込んで遊びほうけてスッテンテンになった息子を迎えて歓迎の宴会をする父親の話などと、確かに一貫性があり、相通じるものがあります。

遊んで生きていてもいい

 また、イエスが「神の国は子どものような者たちのものである」(マルコ10章14節他)と言ったことともつながってくるでしょう。
 子どもはよく遊びますが、遊ぶことの目的や意味などを考えて遊ぶ子はいません。この遊びが脳の発達にはいいとか、そういうことを大人は考えたりしますが、子どもはそんな目的や意味を意識する事なく朝から晩まで遊び呆けます。
 イエスにとっては、一生懸命働く人も、遊び呆けている人も、神の前には同じです。「一日中遊んで、一年中好きなことをやって暮らせればいいな」「誰からも何も強制されないで自由に生きていれたらいいのにな。お金を生むか生まないかで、人間の値打ちが量られるなんてことが無くなればいいのにな」……そんなことを考えていたのではないでしょうか。
 イエスのこの見解は、「働かざる者、食うべからず」というパウロ的発想で覆われてしまったこの世界では、とんでもなく非現実的に聞こえるかもしれません。
 しかし、逆に言うとイエスは、あまりにも人間の価値が、労働力やお金で評価され、労働力として役に立たない人間が捨てられたり、路上で死んだりしてゆく現実を見て、「それはおかしい」「こんなはずじゃない」と異議を申し立てたのではないでしょうか。
 生活保護も無く、年金も無く、自立支援も無く、民間の慈善事業も無い、守ってくれる家族がいなかったら、働けなくなると同時にのたれ死ぬしかない当時の世の中でイエスは、「それはおかしい! 人間は鳥や花よりも価値あるものではないか!」と叫びたかったのではないでしょうか。

意味などなくても人は生きる

 生きる目的や意味など無くても、鳥も花も生きている。まして人間が目的や意味などなくても、生きていて当たり前である。
 天地創造の時、神はこの世に造ったすべてのものを見て、特にどんな存在の意味を問うこともなく、ただ存在しているものに対して、「良し」と言われたじゃないか。だから、私たちは目的も意味も見出せなくても、ただ生きているだけで「良し」なんだよ。
 あなたがそこに生きている。それだけでうれしいんだ!
 「生きていてくれてありがとう!」
 それがイエスのメッセージなのであります。
 感謝して祈りましょう。

祈り

 私たちに命を与え、養ってくださる神さま。
 こうして私たちを生かしてくださっていることを感謝いたします。
 私が私として、また全ての人がその人自身であることが尊重され、生きていることを互いに喜びあえる日が来ますように。
 イエス・キリストの御名によって願います。
 アーメン。

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