神さまをどうイメージするか

2010年5月9日(日) 日本キリスト教団香里ヶ丘教会 主日礼拝説教

説教時間:約26分(前後のトークを入れて約29分) お聴きになりたい方は→audio

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聖書:ルカによる福音書24章13~27節 (新共同訳・新約p.160~161)

 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村に向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」
 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻ってきました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

神さまのイメージ

 最近、トム・ハンクスという俳優さんが主演の『天使と悪魔』という映画を観ました。ダン・ブラウンという作家の同名の小説が原作で、同じこの人の『ダ・ヴィンチ・コード』という作品の続編のようにして映画は公開されましたが、実際にはこの『天使と悪魔』の方が先に書かれていたそうです。
 この2つの物語の主人公は、ハーヴァード大学のロバート・ラングドン教授という象徴学者でして、象徴学者というのはわかりにくいかも知れませんが、要するに、様々な宗教に存在するシンボルマークや絵、文字、サインなどを絵画や彫刻や建築物などの中に発見し、その隠された意味を謎解く学者です。
 このラングドン教授は特にキリスト教の歴史の表にも裏にもたいへん詳しいという設定なので、キリスト者が観ると、他の一般の日本人よりも、たいへん楽しく観る事のできる映画になっております。
 で、この『天使と悪魔』という映画の中で、バチカンのローマ教皇の秘書官で、教皇が逝去した時に教皇代理を務める、カメルレンゴという役職の男性が
(これまた、この役を演じているのが、私の大好きな『スター・ウォーズ』でオビ・ワン・ケノービを演じていたユアン・マグレガーなので、私としては大喜びなのですが)、ラングドン教授に「あなたは神を信じますか?」と質問するシーンがあります。
 そのときの教授の答は……ここで言ってしまうと映画を観る時の楽しみが半減してしまいますので伏せておきますが、普段から宗教に関わる研究をしながら、自分自身は神を信じているのか、という質問に対して、ラングドン教授が答えた、自分の理性を裏切らず、しかし質問した人の信仰を冒涜しないために、機転を利かせた答が、私は気に入りました。そのときのトム・ハンクスの表情も良かったです。
 (話がさらにそれますが、このトム・ハンクス主演でスティーブン・スピルバーグ監督の『ターミナル』というラブ・コメディ映画があります。トム・ハンクスが演じていたのは東ヨーロッパの小さな国から来た英語のできない男性だったのですが、彼がある事情で空港の椅子で寝ないといけなくなった時に、横たわってから胸で十字を切るのですが、その切り方がちゃんと東方正教会式にカトリックの逆の方向だったのには驚きました。おお、この人、ちゃんとそこまで考えて演技してるんや、と感心しました)
 話をもとに戻しますが、『天使と悪魔』という映画で宗教を研究している学者が困った顔を見せるのと同じように、日本に住む人の多くも「あなたは神を信じているか」と聞かれると、一瞬当惑するだろうと思います。
 私が運営しているインターネットの教会のほうでも、時々、「神さまは本当にいるのですか」という質問がよくメールで寄せられます。また、「最近あるきっかけがあって教会に通い始めたのだけれど、神さまというのがわからない。信じる事ができればと思うけれど、今まで考えたことがなかったせいか、どのようにイメージしていいか、わからない」という質問を最近受けました。

神さまをイメージしない

 神さまが存在するかしないかについては、これはどう言うこともできないと思います。神の存在を科学的に立証する事は今のところできていないようです。
 しかし、面白いのは、「神はいるのか」と問う人に、「いる」と言っても「それはあなたがそう信じているだけだ」と言われておしまいにされてしまうのですが、「いない」と言ってもガッカリされてしまいます。どういう答が欲しいのですか、と質問する人には言いたくなります。
 とにかく「いる」ということも「いない」ということも立証できない以上、「わからない」という他はありません。あるいは「わからないけれども、私はいると信じている」と答える他はありません。
 では、「信じる」とはどういうことなのか。
 私は、「信じる」とは、ただやみくもに無い物を「ある、ある」と思い込むように自己暗示をかける事ではないと思います。
 もちろん「信じる」という行為は、確証が無いから「信じる」のであって、証拠があればそれは「信じる」ではなく「知っている」と言うべきなのでしょうが、全く手がかりもない物を、自分の願望に引きずられて、むやみに「信じる」のがいい事なのか、私は疑問に思います。
 旧約聖書の十戒には
「主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)と書かれていますし、マタイ福音書にも「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」(マタイ7章21節)とも書かれております。
 祈る時に「主よ、主よ」と盛んに連呼する人たちが集まっている教会がありますが、そういう所に行くと、人に見てもらおうとして祈りたがる人を諌めるイエスの言葉を思い出したりもします(マタイ6章5節)。
 「神はこういう方であるはずだ!」とか、「神の御心はこうである!」「神はこう望んでおられるはずだ!」と言いきるのも、所詮は人間の浅知恵でして、つまりは浅知恵の生んだ偶像に神を閉じ込めているに過ぎません。
 形ある像だけが偶像なのではなく、人間がある属性やイメージに神を当てはめて理解したいと思った時から、神の偶像化というのは始まります。
 ですから、十戒にも「あなたはいかなる像を造ってはならない」(出エジプト20章4節)と記されてありますように、むやみに神のイメージを心に抱かない方がよい、神はどんな方かというのは、できるだけ考えない方がよい、と思うのであります。

使い古されたイメージ

 しかし残念ながら、今私がお話ししました話は、偶像礼拝の禁止における理想論でありまして、実際には人間というのは偶像:ある一定のイメージを抱く事なしには、神を思うことはできないようです。
 たとえば「父なる神」という表現があります。父という属性が、神を言い表す時の象徴になっています。「神は父のような方」というわけですが、これは父権制と結びついて、「父は一家の長であり、一番権力を持っているから、神も父のように世界で一番権力を持っている。家では怒るのが父の役割だから、神も怒りの神である。また父はいわば家の中の神のような存在だから、父の言った事には誰も逆らえない」というループができあがります。
 また、「王なるキリスト」という表現があります。「キリストは王のような方」……。これも長い間ヨーロッパでは王権と結びついて、「キリストは来るべき神の国の王であるが、同時に現在もキリスト教会の王である。そしてローマ教皇はキリストから教会を治めるよう委託された人間の王である」という風に拡大解釈されました。
 しかし、このイメージは世界的に大規模な教会組織をまとめる上で必要だった時代もあったということは否定できないのかも知れませんが、弊害もありました。王や父親が神の代理人にふさわしい人徳を持っている場合はともかく、そうではなかった場合、たいして人徳もない、あるいはいろいろと問題も多い人物であったとしても、王だから、父だからといって神によって保証された権威をほしいままに振るったとき、その王の治める国民はひどい目に遭い、その父の家族はとんでもない理不尽と暴力を味わわされてしまいます。
 また、この国民の父であり、神から委託を受けて君臨する王であるというヨーロッパのキリスト教のモデルは、明治時代の日本に取り入れられました。神の子孫である天皇に王制を復古させ、加えて全国の学校などで皇帝崇拝の様式を取り入れる際に、キリスト教の教えと礼拝の形態は、参考としてたいへん有効に用いられました。
 そして日本は、天皇を絶対化し、国家を絶対化し、国民は国家の子どもであり、国家のために命をささげ奉公するものと教育し、太平洋戦争において数知れぬ失敗を重ねて、最も痛ましい形で敗戦を迎えました。
 思えば日本は、神を「父」とし「王」とし、それを地上の王に重ね合わせた時に起こる、最も悲惨なパターンを経験したのではないではないでしょうか。
 もうこれからは、強い者、勝利する者としての絶対者を思い描いて、それを目に見える権威と二重写しに観ようとするのは、二度とやめておくべきではないかと思います。

最も弱い者のイメージ

 実は、最初のキリスト者として、イエスという人物が神ではないかと思った人たちは、そういう力強い権威に満ちたイメージをイエスに見たわけではありませんでした。
 イエスは病気に苦しみ、障がいを抱えて世の中の片隅で小さくなって暮らすようにさせられた人びと、お金の無い人、仕事の無い人、仕事があっても、その仕事の性質上ユダヤ教の律法を守れなかった人びとなどに積極的に歩み寄り、そういう人びとの友になりました。
 彼は決して、権力を持つ者と結びついて、何らかの栄光や権威を身につけようとはしませんでしたし、むしろそういう栄光や権威を身にまとう人びとに対しては批判的、あるいは反抗的でした。
 それでも、イエスの弟子たちは、最初はイエスに、「来るべきユダヤ人の王」というイメージを重ねようとしました。当時の政権に対する不満が高かっただけに、その政権に反抗するイエスに期待をしました。
 しかし、イエスの最後はあっけないものでした。彼は祭司長たちが差し向けた兵士たちによって逮捕され、逮捕されてから1日と経たないうちに十字架にかけられて死にました。
 私は不思議な事だと思うのですが、イエスだけが捕えられて、他の弟子たちが全員逮捕を免れたというのは、変わってるなと思います。最初からイエスだけを逮捕する計画だったのでしょうか。普通は、反社会的な分子は、リーダー一人だけを逮捕するのではなく、グループ全体を一網打尽に捕まえようとすると思いますが、そうではなかったのですね。
 祭司長たちが、イエス独りを血祭りにあげて、それで見せしめにすればよいと考えたのか、イエスが「弟子たちは助けてくれ」と頼んだのか、それこそユダが祭司長たちと交渉した結果そうなったのか、真相は不明ですが、ペトロのように
「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マルコ14章31節他)と言葉に出した人間が、全員捕まらずに生き延びて、イエスはたった独りで殺されていったわけです。
 弟子たちは、「なぜ自分たちは取り残されたのだろう」「なぜ、師イエスは独りぼっちで死んでゆかれたのか」という問いに苦しめられたでしょう。
 また、「イエスはなぜあんなにあっけなく殺されてしまったのだろう」「なぜ神はイエスを助けずに、死ぬに任せたのだろう」「彼はユダヤ人の王ではなかったのか」という問いも、彼らを混乱させました。それは、「王」というイメージにふさわしい、偉大さ、権威、栄光、勝利といった属性とは全く無関係の、惨めで、弱く、神に見捨てられた者の敗北にしか見えないような死に様でした。
 弟子たちは、この謎を解くために、改めて聖書を熱心に研究しました。その結果、探し当てたのが、「主の僕(しもべ)」と呼ばれている聖書の箇所でした。
 それはイザヤ書53章(新共同訳聖書、p.1149以降)に記されていました。そこを開いて読んでみましょうか。

 「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
 主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
 乾いた地に埋もれた根から栄え出た若枝のように
 この人は主の前に育った。
 見るべき面影はなく
 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
 多くの痛みを負い、病を知っている。
 彼がわたしたちに顔を隠し
 わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
 彼が担ったのはわたしたちの病
 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
 わたしたちは思っていた
 神の手にかかり、打たれたから
 彼は苦しんでいるのだ、と。
 彼が刺し貫かれたのは
 わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは
 わたしたちの咎のためであった。
 彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
 わたしたちは羊の群れ
 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
 そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」
 (イザヤ書53章1〜6節)

 以下、後半をここでは省略しますが、このイザヤ書53章を通して描かれているのは、あらゆる人に罵られ、嘲られながら、孤独のうちに死んでゆく、しかしその死によって、この世の人びとがその罪のために受けるべき罰を身代わりとなって受け、その罪が赦されるようにと命を捨てる「贖い主」の姿です。

敗北による勝利

 このイザヤ書の記事が、イエスの弟子たちの問いに答を与えました。
 イエスは人間の罪の償いをするために、命を捨てるためにこの世にやって来られた、「贖い主」なのだ、と彼らは理解しました。
 また、この世で理不尽な苦しみを受け、病を負い、貧しさに苦しみ、悩み苦しんでいる人と一緒に苦しみ、その苦しみのただ中で
「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23章43節)と言ってくださっているのだ。イエスはたった独りで苦しむ事によって、私たちの間で独り苦しむ人に、「あなたは独りではない」と言ってくださっているのだ。
 そう彼らは悟りました。
 ですから、私たちは単純に、「偉大なる神」「栄光に満ちた神」と崇めることはしません。
 「勝利者キリスト」とは、イエスが徹底的に苦しみを受け、惨めに殺されることで勝ち取った、「罪に対する勝利」なのであって、この「勝利」という言葉に乗せられて、信者があたかも自分自身が勝利者であるかのように誇るのはまったく愚かな事です。
 イエスによって示され、弟子たちが発見した、新しい神のイメージは、弱く、力無く、いじめられ、殺される者の中に、私たちの救いの秘密が宿っているという、実に逆説的なイメージなのです。
 キリストが最も弱い者となられたのですから、私たちは自分の弱さを恥じることはありません。
 キリストが最も痛い目に遭われたのですから。私たちは自分の苦しみが自分だけのものではないと悟る事ができます。
 キリストが最も恥ずかしい目に遭われたのですから、私たちは自分の恥を耐えることができます。
 そして、キリストが最も絶望的な孤独を味わわれたのですから、私たちはもはや孤独ではありません。
 私たちはキリストによって結ばれて、互いの弱さや欠けを受けとめ合い、互いに見捨てることなく、一緒に生きてゆこうと呼びかけ合うことができます。
 キリストに繋がる枝として、共に生きる者となりましょう。
 祈ります。

祈り

 神さま。
 今日、私たちがこうして共に貴方に招かれて礼拝に集う事ができました恵みを感謝致します。
 私たちの傷、私たちの病、そして悩みを、どうか労り、癒してくださいますよう、お願いいたします。
 私たちがこの世で出会う人びとに、闘いを挑むのではなく、共に生きる者として、あなたの福音を表す人生が歩めますように、どうか私たちを導いてください。
 私たちを愛し、そのことを自ら血を流して示してくださったイエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。

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