がんばらなくてもいいんだよ

2010年6月27日(日) 日本キリスト教団枚方くずは教会 主日礼拝説教

説教時間:約24分(前後のトークを入れて約27分) お聴きになりたい方は→audio

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聖書:ルカによる福音書15章11~32節 (新共同訳・新約p.139~140)

11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。
14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
された。
15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
18-19 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。
20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。
22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来 て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。
28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さん に仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったで はありませんか。
30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。
31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではない か。』」

放蕩息子

 今日読んだ聖書の箇所は、この聖書自体にも「放蕩息子」のたとえ、と書いてありますが、たいへん有名な箇所です。
 「放蕩息子」の「放蕩」というのは、好き勝手気ままに遊び倒すこと。特に酒や色気のほうにお金を使い果たしてしまうことを指します。
 その言葉の通り、この放蕩息子は、お父さんからもらった財産を遊びに使い果たしてしまうんですね。
 だいたい最初からこの息子の言う事はえげつないんですね。本当なら、お父さんが死ぬ時にもらうはずの遺産を、まだ生きて元気なうちにください、と言うてるのですから、こんなにお父さんに対して失礼なことはありません。
 でも、このお父さんは、自分の持っている財産を半分に分けて、お兄さんとこの弟にあげるんですね。この時、お兄さんもちゃんと分け前をもらっています。この時点では二人は平等なんです。
 そして弟の方はお金を全部遊びの為に使ってしまって、すってんてんになってしまう。財産を全部使い果たして、食べるものも無くなってしまった時に、初めて彼は「自分は大変な罪を犯してしまった」と気づくのですね。
 その時彼は
「我に返って言った」(17節)と書いてあります。「もう息子と呼ばれる資格は無い。雇い人にしてもらおう。それでもいいから食べるものが欲しい」と。そして彼はお父さんの所に戻ってきます。
 するとお父さんは、まだ遠くに離れているのに、向こうの方にこの放蕩息子の姿を発見するや否や、
「憐れに思い」(20節)と書いてありますが、これはこの聖書がもともと書いてあるギリシア語では、直訳すると「内臓が食われる」あるいは「内臓がちぎれる」という言葉が使われています。日本語でも「断腸の思い」という言葉がありますが、「腸がちぎれるような思い」ということ、それほど自分の息子がいとおしく、可哀想に思えたのですね。それで、このお父さんは自分から彼を迎えに走って行って、その首を抱き寄せて、何度も何度も口づけをしました。
 そしてお父さんは、この放蕩息子に一番いい服を着させて、指輪をはめさせて、履物も履かせて、子牛を1匹まるまる焼いてごちそうを作ってパーティを始めたのですね。

正しい兄

 この時、お兄さんが呼ばれなかったのが、ぼくはこのお兄さんも可哀想だなとちょっと思うんですが、お兄さんは畑でまじめに仕事をしていました。そして一仕事終えて帰って来ると、家で音楽や踊りの声が聞こえてきます。そして事情を知ったお兄さんは、こんな風に怒っています。
 
「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」(29節前半:新共同訳)「その私には、友だちと楽しめと言って子山羊一匹下さったことがありません」(29節後半:新改訳)
 この、お兄さんが
「このとおり、わたしは……言いつけに背いたことは一度もありません」と言っている言葉ですが、この「言いつけ」という言葉は、元のギリシア語では「掟」という意味の言葉です。「掟」とは、つまりその当時の人びとが信じていた宗教の戒律のことです。
 ユダヤ人はユダヤ教という宗教を信じていますけれども、そのユダヤ教にはたくさん掟があります。たとえば、豚肉を食べてはいけませんとか、タコやイカを食べてはいけませんとか、土曜日は「安息日」といって、絶対に休まないといけない。
 そのために重いものを持ってもいけないし、長距離を歩いてもいけないし、火をたいてもいけないので、料理をしてもいけませんから、前の日に作っておきます。火をたいたらいけないので、例えばエンジンも燃料を火で燃やしているわけですから、車のエンジンをかけてもあかんのですね。
 それから、トイレの電気もつけたらあかんので、前の日から点けっぱなしにしておきます。まあ他にもいろいろ、やってはいけないこと、やらなくてはいけないこと、たくさんあります。
 そして、それらをしっかり守る人が「正しい人」、立派な人とされていたわけです。
 だから、このお話に出て来るまじめなお兄さんというのは、きちんと宗教の戒律を守って暮らしている人。しかし、宗教の戒律といっても、今の日本みたいに、宗教を信じる人のほうが珍しくて、なんか熱心な人を指しているみたいなのと違って、生まれた時からユダヤ教の戒律の中で生きていて、それ以外の生き方を知らないわけですから、ユダヤ教といっても空気みたいなもので、要するにその人たちにとってみれば、単に常識に従ってまじめにがんばって生きているということです。

正直者がバカをみる?

 でも、このお話では、そういうまじめな人でも、遊んで身を持ち崩してすってんてんで帰って来た人でも、神さまの目から見たら、どちらも同じ、可愛い子どもだよ、ということなんですね。
 神さまの目から見たら、がんばってまじめに努力したから、何かその努力に応じて賞が与えられるとか、がんばらなかったから何も与えられないとか、あるいは、自分はがんばったつもりなんだけど、自分よりもがんばった人がいるから、負けた自分は何ももらえなかったとか、そういうことではないんです。
 こういう話は聖書の中にいっぱいあります。
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5章45節)とか。
 ぶどう園の労働者たちが、朝一番で働きに来て暑い中一日働いた人も、夕方5時ごろに来た人も、同じ給料をもらった話とか。
 100匹の羊がいて、1匹が迷い出ると、99匹を放ったらかしてでも探しに行って、見つけたら羊飼いは、99匹よりもこの1匹のほうが嬉しいですよ、などなど……。
 どれもこれも、生真面目な人が見たら怒り出すような文章です。
 まじめに考えたら、「なんで、悪人や、正しくない人や、頑張らない人が同じように恵まれるんですか? なんでふらふら迷い出た人や、放蕩息子の方が戻ったら喜んでもらえるんですか。そういう人は、普通は罰を受けたり、処分を受けたりするんじゃないんですか。そんなんやったら、悪者の方が得ですやん」と言う人も出てくるでしょうね。
 でも、それでも聖書が私たちに教えているのは、どんな人でも、同じように神さまにとっては可愛い子どもだという事なんです。
 いや、それどころか、本当は悪いことも、やってはいけないということもやってみたいのに、それを我慢して、ほめてもらうために嫌々まじめにがんばって、「実は嫌々やってるんだよ」という本音を見せてしまう、そんなお兄さんよりも、自分の愚かさを思い知らされて、とにかく助けを求めてお父さんの所にやってきた弟では、そんな弟の方が可愛く見えてしまうのは、当然かも知れませんよね。

死んでいたのに生き返る

 さて、このお話の中で、お父さんは2回、この放蕩息子が「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」(24節、32節)と言っています。
 お兄さんと同じだけの財産をもらったはずなのに、それを自分の楽しみの為だけに使い果たした弟。そんな人生を送っている人はいませんか、ということです。
 せっかくもらったこの命を何に使いましょうか。自分の楽しみのためだけに使えばいいんでしょうか。しかし、このように自分の楽しみばかりを優先して、せっかく頂いた命を無駄に使ってしまう人は、生きていても、死んでいるのと同じだ、とこの物語は言いきっているのです。
 でも、この放蕩息子は生き返りました。
 面白いのは、自分が悪い人間で、お父さんの息子と呼ばれる資格なんかないんだ、とわかった時に、彼が生き返ったとされている点です。
 これが神さまに命を与えられて生きている人間のことをたとえている話だとしたら、お父さんの息子じゃない、ということは人間じゃないということです。人間失格です。
 でも、自分なんて人間失格だ、とわかって帰って来たこの子を見て、お父さんは「この子は生き返った」と喜んでくれるのです。
 そういう意味では、人間、一度死ぬかと思うような経験をするのも悪いことではないかも知れませんね。本当に死んだらあきませんけど、一度や二度は大失敗をして、自分なんか生きる価値なんかない、最低の人間なんだということを味わった人間のほうが、意外と大事なことを学んだりすることもあったりするのではないかな、と思います。

「頑張り」の幻想

 しかし、残念ながら、今の日本には、お兄さんのようにまじめにがんばらないと生きてゆけないんだ、弟のように大失敗をした人は二度と這い上がれないんだ、というように思い込んだ人が大変多いです。
 がんばって競争に勝たないと生き残れないし、どんなに努力しても勝負に負けたら貧しい暮らしをしなければならない。それが世の中というものだと思い込んでいる人がとても多い。
 本当は必ずそういうわけでもないんです。大失敗した人でも生きてさえいれば運が向いて来ることもあるし、がんばったから幸せな人生が待っているのかというと、そうでもないんです、本当に。
 でも、そういうものだと子どもに思い込まそうとしている悪い大人がいます。「教育にも競争原理を持ち込め」とか、「学校も目に見える実績が必要だ」とか、「ダメな学校は消えてもらう」とか、くだらない事ばかり言っている政治家がいたりします。
 そういう風潮を作るから、たまたま勝負に負けて貧困に陥った人を指差して、「あの人はサボったからああなったんや」、「あんな風になったらあかんよ」と人のことを蔑んだりあざ笑ったりするような風潮が消えません。
 また、本当ならいつまでも仲良しの友だち同士で生きてゆくこともできるはずなのに、歳をとればとるほど、自分のまわりの人がみんな自分のライバルになってしまって、人の本当の気持ちがわからない。信用できない。どこまで心を開いていいかわからない。そういう寂しい世の中になっています。
 子どもも大人もストレスで一杯一杯です。何を信じていいのかわからない。誰を信じていいのかわからない。そんな人が満ちあふれています。みんなひとりぼっちです。そして、自分から自分の命を絶ってしまう人も、この国にはとてもたくさんいます。

「競う」のではなく「仕える」ために

 でも、本当はそれが当たり前だと思わなくてもいいと思うんです。
 それが世の中なのさ、と斜に構える必要もありません。
 ちょっと見方を変えて、「どんな人にも神さまは同じように愛を降り注いでくださるんだな」、「あの人も、この人も、同じ神に愛された大切な人なんだな」と考えることで、ずいぶん人間関係が変わってきます。
 私は……もちろん私は神に愛された人間です。
 あなたも、もちろん神に愛された大切な存在です。
 あなたも、もちろん神に愛された大切な存在です。
 みんながそうなのですね。
 人間同士が、勝ち負けの関係ではなく、助け合いの関係だとわかれば、自分がやりたいことも見つかりやすくなります。
 例えば、学校に通っている間は、勉強というのはもっぱら自分のためだけにやる事なので、つまらないことが多いです。
 でも、たとえば教師になると、人に伝えたり教えたりするために勉強することになります。これは楽しいです。
 他のどんな仕事でもそうです。自分のために働くだけだ、給料のために働くだけだ、そう思っていると、人間はだんだん生きる喜びを失ってゆきます。
 それとは全く反対に、「誰かの役に立つ」「誰かに仕える」というのは、自分のためだけにやるよりも、はるかに楽しいことです。楽しかったら、多少しんどい仕事も一生懸命できるようになります。そのとき、別に「がんばれ」とか言われなくても、ついついがんばってしまっているものです。がんばっていても苦にならないので、逆に「たまには休みなさいよ」と人に言われるくらいです。
 たとえば、この「放蕩息子」のお話の中の、まじめにやってたお兄さんは、自分がまじめにがんばってたのに、全然そのご褒美がない、と怒っていますけれども、この人が何で怒るのかというと、毎日の仕事を嫌々やってるからです。好きな事や、やりがいのある事をやっていたら、怒ったりはしません。
 好きでもない仕事が好きになるのは、その仕事を通して誰かの役に立てているという実感を感じた時です。「誰かに仕える」ということは、嫌いな仕事を好きな仕事に変える魔法のようなものです。
 みんながそういう風に、「お互いに仕え合うために」という気持ちを持っていたら、もっと世の中は住みやすくなるはずです。
 世の中といっても、世の中全体はそう簡単には変わりません。でも、少なくとも自分が関わっている狭い世界だけなら、私たちは変える力を持っていると思います。
 「私は神に愛されている。あなたも神に愛されている。だからあなたのために何かできる事をさせてくれませんか。それが私の喜びなのです」
 そういう思いで自分の周囲の人に接してゆけるように、いつも祈り求めて生きてゆきましょう。その気持ちを行動にすることができたら、「がんばろう」なんて思わなくても、打ち込めるものが見つかります。
 それを発見できた人は幸せ者です。
 最後にお祈りを捧げましょう。

祈り

 私たち一人一人に命を与え、この世に送り出してくださった神さま。
 この人生が与えられていることを感謝致します。
 あなたに与えられた命を、私たちが自分のためだけに浪費するのではなく、自分以外の人のために捧げることができますように。
 そのことを通して、より深い喜びに気づかせてください。
 この祈りを、イエス・キリストのお名前によって、お聴き下さい。
 アーメン。

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