Take It Easy(気楽に行こうぜ)

2010年8月1日(日) 日本キリスト教団大阪大道教会 主日礼拝説教

説教時間:約30分(音声版はありません)

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聖書:マタイによる福音書20章1~16節 (新共同訳・新約 p.38)

 「天の国は次のようにたとえられる。
 ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。
 主人は十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中を同じ扱いにするとは。』
 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

遊んで暮らしたい

 私は常々遊んで暮らしたいと思いながら毎日を過ごしています。特に40歳を過ぎたあたりである病気にかかり、それまではモーレツに働くビジネスマンのように暮らしていたんですけども、そのようなライフスタイルを変えざるを得なくなりまして、しかし、変えてしまうともう元には戻りたくなくなりまして、現在はまじめに薬を飲んでいれば一応順調に仕事ができるほどには病気は回復したんですが、できるだけ省エネ運転、できれば好きなことだけやって暮らしたい。
 実際にはそうとばかりは言ってはおれない現実も人並みにはありますが、それでも、それが望ましい状態ではない、やはり好きなことだけして暮らしたいという願望は捨てずに生きていきたいと思っているわけであります。
 私は自分がそういう気持ちで生きていますので、私が働いている学校でも、「がんばらなくっちゃ」「がんばらなくっちゃ」と自分を追い込みがちな生徒さんに、「まあ、無理しなや」とか「気楽にしいや」となるべく言うようにしています。最近、私の職場の壁にも「がんばらない」と大きく筆で書いて貼りました。

「がんばりなさい」

 さて、「がんばらない」と筆で書いて貼らなければならないほど、世の中には「がんばれなければ」「がんばらなければ」という風潮が漂っていて、しかもそれがどんどん強くなってきているように感じます。
 私の普段働いている学校現場でも、「ゆとり教育」の見直しということで、授業の時間数も内容も増やされる流れにあります。うちの学校では今年から土曜日も授業をやるようになりました。
 日本の学生の理系離れ、子どもの理数系の能力も下がってきているということで、政府はかなり危機感を持っているみたいですね。かつての技術立国ニッポンもリコール続きで、中国や韓国やインドや台湾にどんどん抜かれていきます。ですから、子どもも大人も「がんばれ」「もっとがんばれ」となるわけですね。
 こういう風潮に乗っかって、大阪府の知事さんなどは、「学校にも競争原理を持ち込め。ダメな学校は退場してもらう」なんてことを言っています。
 ある意味、権力を持った人の本音として分かりやすいと思うのですが、こういう権力を持った人たちというのは、エリート教育をやって、出来上がってきた一部の優秀な人たちの能力を上澄み液のようにすすりたいだけなんですね。
 「暴れる生徒は本人が悪いから退場」「面白くない授業をやっている教師もダメ教師だから退場」そんな事も言っているみたいですが、テレビ番組みたいに一部のヒーローだけをもてはやして、それで大阪や日本がよくなったみたいに幻想を抱かせて、気に入らない人間は退場……。
 しかし、退場させられる人間も人間ですから、生きていかなければなりません。そういう人間の命も守ってゆくのが政治ってもんじゃないのかな、と。あの人は政治家としてはどうなのか。
 少なくとも、出来の悪いと言われる子とも一緒に生きるのが教育というものなんで、そうそう権力者に「がんばりなさい」と言われて、「はいはい、頑張ります」「頑張らせます」とは言いたくないな、と。

真面目な人が納得できない

 日本には真面目な人が多いので、頑張って、頑張って、毎年3万人以上の人が自ら命を絶ちます。これは欧米先進国と比べるとダントツに高い数字です。一番よく自殺しているのは50代後半から60代前半です。一番責任の重いポストにおられる方が多い年齢層ではないでしょうか。
 逆にラテンアメリカでは自殺率は大変低いそうですね。ですが、他殺率が非常に高いそうです。他殺率は、日本は格別に低いらしいです。ですから、日本人は人を殺すよりは自分が死ぬ、という考え方をする人が多いのかも知れません。
 そういう真面目な人たちが、今日のような聖書の箇所を読むと、たいていの人は「この話はおかしい」と思うはずです。
 夜明けに雇われた人が一日1デナリオンの約束で、ぶどう園で働く。ところが9時ごろに雇われた人も、12時ごろに雇われた人も、3時ごろに雇われた人も、5時ごろに雇われた人も、みんな同じ1デナリオンの賃金をもらったという話ですね。
 それで早朝から雇われた人が怒りだす。当たり前です。アルバイトでも、12時間働いた人と1時間働いた人が同じお金をもらえるなら、最初から働いていた自分たちは馬鹿を見るわけで、「明日からは5時に来ようぜ」ということになるでしょう。

日雇い労働者の物語

 私は、学校でこの聖書の箇所を授業で取り扱うときは、「これは日雇い労働者の話やで」という風に解説しています。
 ぶどう園の主人が、その日働く労働者を雇うために出て来るというのは、これは寄せ場で日雇いの労働者を拾いに来る場面です。
 こちらの最寄り駅は寺田町ですね。ここから2駅行くと新今宮。新今宮には釜ヶ崎と呼ばれる日雇い労働者の街があることはみなさんご存知ではないかと思います。
 夜明け目、朝5時前の釜ヶ崎、シェルターに寝ていた何百人もの日雇い労働者たちが一斉にカバン1つ持って出てきます。そして街の真ん中を、ざく、ざく、ざく……と駅前のあいりんセンターの方へ歩いてゆきます。道一杯の人の波です。釜ヶ崎の通勤ラッシュですね。
 そして、それぞれの工事現場へと向かう車に黙々と乗り込んで、出発を待ちます。労働者を運ぶ車はバスのような大型車であったり、ワンボックスの車であったりします。そういう車のフロントには「一日1万円」といった風に、その日の労賃が書いてあります。
 1日1デナリオンという約束でぶどう園に連れて来られた労働者というのは、まさにこれと同じ状況です。
 そんな釜ヶ崎の朝の様子を見ていると、なんだか居住まいを正されるというか。「今日一日働いて、今日一日生きるための日銭を稼ぐんだ」という、労働の原点というか生きるということの気迫が感じられます。ものすごい緊張感が漂っています。

あぶれた人びと

 ところが、たいていの人はそういう必死の気迫が漂う、釜ヶ崎の出勤風景を見たことがありません。たいていの人が見ているのは、太陽も上がってしまって、昼の日中から缶ビールやワンカップを片手にぶらぶら歩いていたり、だらしない格好でしゃべっていたりするおじさんたちの姿です。路上に寝転がっている人もいます。
 そういう姿を見て、人は蔑んだ視線を送ります。「毎日サボってワンカップとはええ身分やな」とか、「ホームレスも3日やったらやめられへんらしいな」と嘲笑ったりします。
 うちの生徒さんたちも、親御さんたちから、「ほら、見てみ。ちゃんと勉強せえへんかったら、あんなんなるよ!」と言われて育ちます。それで、「あの人たちはサボっていたから、あんな風に貧しい生活をしているのだ」という偏見を植え付けられています。そして、「がんばって勉強しなさい!」と言われてきています。
 でも、釜ヶ崎でぶらぶらしているおじさんたちをちょっとだけ観察すると、若者がいないことに気づきます。だいたい60歳前後に見える、ちょっと老けた人が多いです。あるいは身体が弱そうな人ですね。若手から中堅の、それも体力のある人はみんな働きに出ているわけです。そこに残っているのは、激しい肉体労働に耐えられないので、雇ってもらえない人たちです。
 つまり、聖書に書かれている、ぶどう園の主人が9時に——9時というのは日雇い労働者の寄せ場の時間感覚で言うと、かなり遅い時間ですが——に出て行って、広場で何もしないで立っている人を見たというのは、このように身体が弱いとか、体調が悪いとか、歳をとっているために、肉体労働には雇ってもらえなかった人たちということではないかな、と思うわけです。だからこの人たちは
「だれも雇ってくれないのです」(7節)と言っていたわけですよね。
 そこでこの主人は、9時だけではなく、12時にも、3時にも、5時にも行って、仕事にあぶれた人を拾ってきます。そして、肉体労働者の一日の賃金と同じ金額を払ってあげるわけです。

弥生時代の福祉

 「これは、いわば2000年前の社会福祉です」と私は授業で言います。イエス様が生きておられた2000年前、というと実感がわかないみたいなので、「日本の歴史で言うと弥生時代中期です」と言います。すると、「えー、弥生時代?」と驚かれます。
 弥生時代の日本に生活保護に当たるような制度があったのか、詳しくは知りませんが、家族全員で行う稲作農耕が生活の中心なので、体の弱った人も年寄りも家族の中で面倒を見るということにはなっていたんじゃないかと思います。
 イエスが生きていた時代のローマ帝国にも、それなりの福祉はあったようです。ただし、それはローマ市民で首都に住んでいる人を対象にしたものです。ローマ市民権を持っていて、首都に住んでいれば、貧富の差に関係なく全員平等に小麦が配られたといいますから、これは今で言う所のベーシック・インカムというものにあたるかも知れません。
 しかし、ローマ帝国の端の端、辺境の地、属州ユダヤではどうでしょうか。属州ユダヤで、そのような福祉が成り立っていたという話は聞いたことがありません。むしろ、貧富の差が非常に激しく、圧倒的多数の貧困層を、一握りの富裕層——その富裕層はユダヤ教の宗教的指導者で、宗教的な権威と政治的権力と裁判権も持っていて金持ちという、そういう人びとが治めているという状況です。ベーシック・インカムどころか、生活保護なんて発想はまずありえません。
 だいたい、貧困層の人びとの平均寿命はたいへん短かったようです。イエスのように30歳を迎えることができた人は2割程度しかいなかったと言います。だからイエスは、当時としてはかなりの熟年だったんですね。いかに厳しい状況で人間が生きていたかということだと思います。
 そういう状況で、イエスは「天の国は次のようにたとえられる」と言って、さっきのようなぶどう園の労働者の話をしました。夜明けから雇われた人も、仕事にあぶれて夕方にやってきた人も、みんな同じように生活費が払ってもらえる。「これが天国ってもんだろう」と言うわけです。
 イエスは2000年前の人ですから、「福祉社会」という言葉も、「生活保護」という言葉も知りません。しかし、その代わりに「天の国」という言葉で、理想の社会を思い描いたのですね。

リングに上がりたくない人たち

 でも、実際の釜ヶ崎などを引き合いに出すと、余計に反感を買う時があります。
 子どもたちの頭の中は、努力主義に基づく偏見が居座ってしまっています。お金持ちは頑張った人、偉い人。お金のない人はサボった人、ダメな人。本当は世の中そんな簡単なものではありませんけど、子どもたちの中には、そういう図式ができあがっています。そして、貧しい人は怠けた人だから、豊かになってはいけない。手を差し伸べる必要はない。負け組は自業自得だから死になさい、ということになるわけです。
 これに対して、イエスは真っ向から異を唱えます。
 「働かなくたって、暮らしていけたら、それに越したことはないじゃないか!」
 私は、このイエスの主張は「いいな」と気に入っています。この世が働かなくても食べてゆける世界になればいいのにな、と思います。
 「そんな事をしたら、人間はどんどん堕落してゆく。ダメになる。人間には競争が必要だ」と反対する人はいるでしょう。
 しかし、本当に競争がないと人間はダメになるでしょうか。私はそんなことはないと思います。もちろん競争があったほうがエネルギッシュに働ける人はいるでしょうが、全く反対に、競争させられると実力が発揮できない人もたくさんいます。実は私も、そんな人間のひとりです。
 あるいは、お金のためになる事よりも、お金をもらえないからこそ一生懸命になれる事を持っている人がいます。好きなことではお金をもらいたくないと言う人もいます。また、お金をたくさんもらわなくても、やりたい仕事というものがあって、それであえて選んで働いている人もいます。
 競争があって、勝ち組と負け組があって、勝った人の報酬はお金で、負けた人は貧困に陥っても自業自得です……とか。世の中そんな価値観が当たり前になってしまったら、それこそ、お金を稼ぐ欲望の強い人が正しい人、偉い人ということになってしまい、またお金の儲かる仕事が良い仕事という事になります。
 そして、勝負に勝てなかった人、弱い人、病気や障がいを持つ人、勝負事が嫌いな人、個性的な人、ゆっくり生きたい人、などなど、色々な理由で、最初から闘いのリングには上がりたくない人は、自分の生きる価値や意味を社会から否定されてしまいます。
 でも、そんなふざけた事があっていいでしょうか? 私たちは古代ローマのコロシアムで闘わされる剣闘士ではありません。

働かなくても食べていきたい

 「闘わなくても、食べていけたらいいのにな」
 「汗水たらして働かなくても、食べていけたらいいのにな」
 そんな事を言うイエスの目に映っていたのは、元気な若者ではなくて、年寄りや、体や心に差し障りのある人だったのでしょう。
 あるいは、畑仕事で汗水たらしても、ローマへの税金とユダヤ教の神殿への税金に取られ、収穫は地主に取り上げられ、日雇い労働者に出て、ぶどう園の仕事をしたり、建設工事や土木工事に出たりして、そして体を壊して、「楽をする」という感覚をひと時も味わわないまま、長生きもできず死んでゆく。
 イエスもそんな底辺労働者の一人でしたが、そんな人間の一人として、大きな声で「あーあ、働かずに飯が食えたらいいのにな」と言ったとしたら、周りの人たちは思わず笑ったのでないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 「天の国ってのは、働いても働かなくても1デナリオンもらえるような国のことだな」と。
 イエスとイエスの話を聞いた人たちというのは、欲の少ない人たちだったのだな、と思います。特別お金持ちになりたいとか、大きな家が欲しいとか、そういう事を言ったのではありません。
 頑張らなくたって、みんなが食べていけるだけのお金がありゃいいでしょう。欲望を燃やして闘うこともなく、のんびりしていても食いはぐれることもなく、みんなが安心して暮らしてゆけたらいいのにね、ということですね。

がんばらない

 今の日本の世の中の風潮に流されて、「がんばる事はいい事だ」なんて真に受けていたら、殺されかねません。
 休める時には休んで、適当に手を抜ける所は抜いて、自分が好きで一生懸命やりたいと思う事はまあ一生懸命やってみて、多少わがままに生きていくぐらいの気持ちでいないと、せっかくの一生がもったいないです。
 最後に、私の学校にも外国から来たネイティブの英語の先生たちが何人かいますが、日本人がよく言う「頑張れ!」という場面で、英語圏では「頑張れ」とは言わないそうですね。訊いたら、そんな英語はない。“Hang on there!”と言う言葉はあるらしいですが、あんまり使わないそうです。
 そのかわり何というかというと、“Take it easy!”と言うそうなんですね。「気楽に行こうぜ」というわけです。勝負時にも、「頑張れ!」と緊張を高める方向ではなくて、「気楽に行こうぜ!」と緊張を解く方向で応援する場合が多いそうです。
 イエスが唱えた理想社会には、まだまだ現実は遠く追いつきません。追いつかないどころか、イエスの生きた苦しい時代に逆戻りしているんではないかと思わされるような現実を私たちは突きつけられていますが、あくまでイエスの唱えた天の国:人間が労働から解放される社会を作る希望を諦めたくはありませんし、少なくとも、頑張らなくてはいけない場面に立たされてしまっても、「気楽に行こうぜ」と言って、お互いの緊張をほぐし、疲れを労い合うような関係を世に広めることができたらな、と思うのです。
 したがって、私たちはイエスの言葉にこめられた反骨精神に押し出されて、「さあ、がんばらないぞ!」と言いながら生きてゆくのもよいのではないかと思います。
 自分も人も大切に。
 日々、気楽に生きてまいりましょう。
 祈ります。

祈り

 愛する神さま。
 今日ここに、あなたの御前に集められ、礼拝を捧げることができます恵みを感謝いたします。
 私たちの日常は、決して楽ではなく、またお互いに傷つけ合い、生きる力を削り合うような現実にまみれていますが、神さま、あなたの御子イエスが教えてくださったように、互いを憐れみ、互いの命を大切にして、生きやすい世の中を作ってゆけるように、私たちをどうか支え、導いてください。
 イエス・キリストの名によって祈ります。
 アーメン。

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