行って、あなたも同じようにしなさい

2010年9月12日(日) 日本キリスト教団はりま平安教会 主日礼拝説教

説教時間:約27分(前後のトークを入れて約29分) お聴きになりたい方は→audio

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聖書:ルカによる福音書10章25~37節 (新共同訳・新約p.126~127)

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。
 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
 イエスはお答えになった。
 「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
 ところが、旅をしていたあるサマリア人が、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。
 『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」
 そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

隣人愛の宗教?

 キリスト教は愛の宗教であると、よく世の中では言われています。そしてその愛は「隣人愛」の精神であるとまとめられたりもします。
 しかし、イエスが唱えたのは、果たして隣人愛だったのでしょうか。彼が私たちに訴えようとしたのは、隣人に優しくしなさいという道徳だったのでしょうか。
 今日は、イエスが示そうとした「愛」がどのようなものだったのかについて、少し思いを馳せてみたいと思います。
 そのために、本日のテクストを最初から読み進めてゆきましょう。

永遠の命が欲しい者

 まず、ある律法の専門家がイエスを試そうとして、このように言った、と記されています。
 
「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(25節)
 私、何度か私が勤めている学校の授業で、「永遠の命って欲しいか?」と高校生に聞いてみたことがあります。「永遠の命が欲しい人」と聞いて、手をあげる人はほとんどいません。
 念のために「じゃあ永遠の命なんかいらない、という人は?」と聞いてみると、ほとんどの子が手を挙げます。
 「なんでいらへんの? 長生きしたくない?」と言うと、「あまり歳はとりたくない」という現実的な意見が出てきます。それから多いのは、「自分以外の周りの家族や友だちがみんな死んでしまったら、自分だけ生きていても仕方が無い」と言います。
 永遠の命なんか誰でも欲しいやろうと思っていた私は、早速ここでつまづきます。そして逆に、なんでこの律法の専門家は永遠の命などが欲しいと言ったのかなあと疑問を抱いてしまいます。
 実は私は小学生の頃、永遠の命が欲しいと思っていました。死んで自分という存在が無くなるのが怖くてしかたなかったんです。その時、大変魅力的な事を教えてくれる友だちがいました。
 その友だちが言うには、「エホバの証人の王国会館」という所に行けば、そうすぐやってくるこの世の終わりにも生き延びて、永遠の命を手に入れる事ができるというのですね。
 そのエホバの何とかという団体が出している小冊子を読んでみると、人はみんな20歳の若さで年齢が止まるらしいんですね。これはいいと思いました。
 それで、私は猛然と聖書の勉強を始めました。
 それが私と聖書の初めての出会いでした。
 永遠の命が欲しかったこの律法学者。ひょっとしたら、いつまでも若々しいままで、この世の生を楽しんでいたいと都合のいい事を夢見ていたのかも知れません。

律法を守りなさい

 これに対してイエスの返答は、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読むか」という質問でした。質問に対して質問で返すのがイエス流です。しかし、まあ律法の専門家に対しては、多少侮辱的な質問かも知れません。イエスはこういうちょっと皮肉の利いた切り返し方をする、少々食えない男という印象があります。
 律法の専門家は、
「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」(27節)と答えます。
 これは、当時にはよくある要約であったと言われます。つまり、キリスト教にオリジナルな答ではない、と言われております。
 膨大な数にわたるユダヤ教の律法の条項を、あえて一言で要約するとすれば、お前は何と答えるか、という問いに対して、一つには、
申命記6章4節にある「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という言葉、もう一つには、レビ記19章18節にある「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉で応えるというパターンは、当時には珍しくなかったのですね。
 まあ、ある意味、優等生的な答、しかしそれ故にこの律法学者にとっては聞き飽きたような何の面白みも無い答。こちらもイエスを試そうとして様子をうかがっているのがありありとわかります。

共観福音書における隣人愛

 さて、この「神への愛」と「隣人への愛」による律法の要約は、新約聖書の記者たちのお気に入りの教えであったようです。
 ご存知の通り、新約聖書には、この「神への愛」と「隣人への愛」による律法の要約が、イエスの口から語られるという場面があります。
 ひとつは
マルコ12章(28節以降)。もうひとつはマタイ22章(34節以降)です。どちらも質問者がイエスに対して、「あらゆる掟の中で、どれが第一でしょうか」(マルコ)、あるいは「どの掟が最も重要でしょうか」(マタイ)と訊きます。するとイエスが「神への愛」「隣人への愛」を答えるわけです。
 しかし、マルコとマタイでは場面の状況設定が全く違います。
 マルコ版では、イエスの立派な受け答えを見て感銘を受けた人が、更にイエスに質問するという形になっています。しかしマタイ版では、イエスのライバルであったファリサイ派の律法学者がイエスを試そうとして質問した事になっています。全然逆の設定ですね。
 そして、今日のテクストにしたルカ10章では更に複雑化した問答になっています。
 この律法学者の答えに対し、イエスは
「正しい答だ、それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」(28節)と言います。
 
「すると彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とは誰ですか』と言った」(29節)
 これ、律法学者が
(愛を実行するのが面倒だという心理を隠して)自分を正当化しようとして」言ったことになっていますけど、深い質問ですよね。こういう形で隣人愛について深く追求しているのはルカだけです。
 このように、3つの共観福音書の間でも、伝えられ方が全然違うので、一体本当はイエスがこの発言を、どういう状況で口にしたかは、はっきりわかりません。

初期キリスト教会が抱えていた隣人愛の問題

 なんでそういう細かい問題にこだわっているのかというと、実は福音書よりずいぶん先に書かれたはずのパウロの手紙には、この「神への愛」と「隣人への愛」というセットは出て来ないのですね。出てくるのは、「隣人への愛」のほうだけです。
 
ガラテヤの信徒への手紙(5章14節)ローマの信徒への手紙(13章9節)で2回記しています。どちらでも「律法全体、すべての掟は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされます」と言い切っています。
 また、面白いことに、パウロよりも、福音書よりも後に書かれたはずの
ヤコブの手紙(2章8節)でも、「『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法」を実行しなさいと書かれています。
 ですから、初期のキリスト教会においては、確かに「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の2つが重要であるということは、ユダヤ教的な伝統から受け継いでいたにせよ、その中でも専ら関心は「隣人を自分のように愛すること」とは、どういうことなのか、ということに集中していたのだろうと思われるのであります。
 ということは、つまり、本日のテクストであるルカ10章の律法学者の質問、
「わたしの隣人とはだれですか?」(29節)という問いは、実際のイエスとの問答で発せられたかどうかの史実性は別にしても、それは当初からキリスト教会が抱えていた問いだったと考えることができるわけです。
 
「わたしの隣人とはだれですか?」。それはイエスにとって隣人愛とは何であったのかを問う、クリスチャン自身の問いでもあるわけです。

「隣人」とは誰か

 そもそも、レビ記19章の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉の「隣人」とはどの範囲の人を指すのか、というのはユダヤ人の間でも論議の的でした。
 特に、ローマ帝国に占領されて独立を奪われ、幾たびかの反乱を起こすもののローマの強固な軍隊に鎮圧され、しかし各地では小規模なテロが起こっているという時代ですから、非常に民族主義的な気運が高まっている時代です。
 そのような風潮の中で、愛すべき「隣人」とは、同朋であるユダヤ人以外にはあり得ないという論調が強くなっていました。
 そういう事も前提の上で、イエスは何と答えるか。これがルカ福音書の著者の問題意識です。
 そしてルカは、おそらくイエスにおける愛のあり方を見事に明らかにして見せたと私は思っています。

「隣人」を見捨てる

 ルカは律法学者の「わたしの隣人とはだれですか?」という質問につないで、「善いサマリア人」のたとえ話を続けます。
 ある人が旅の途中で追いはぎに襲われます。このある人というのは、何の断りもありませんから、ほぼ間違いなくユダヤ人でしょう。このユダヤ人は追いはぎに身ぐるみはがれて、暴力を受け、半殺しにされてしまいました。
 そこに祭司が通りかかる。しかし、道の向こう側を通って、去ってしまう。レビ人も同じように、去ってしまう。
 祭司とレビ人というのは、ご存知の通り、神殿に仕える聖職者です。普段、人に神の掟を守って生きよと命じ、神の前に何が正しいことであるかを教える、民の指導者です。
 その立派な方々が揃って、半殺しにされた「隣人」を見捨てて行く。その理由は、例えばレビ記に記されているように、祭司は親族以外の遺体に触れてはならないことになっているから(21章1節以降)といった律法があったためとも考えられますが、ここではむしろ、ユダヤ人がユダヤ人を見捨てる。同朋を見捨てる。「隣人」を見捨てるという事が強調されているのでしょう。
 イエスはここでも強烈な皮肉を込めています。「隣人とは誰のことかを言い立てるお方に限って、隣人を見捨てるもんなんだよ」という皮肉ですね。
 実際、同じユダヤ人であったとしても、祭司階級の人びとというのは、病人も障がい者も貧困者も、律法を守りきれるだけの生活の条件が整っていない者も、「汚れた者」として「隣人」からさっさと除外しているじゃないか、という批判です。
 宗教の熱心な信者というのは、しばしば神の裁きとか神の命令に背く者といった理屈で平気で人を差別したり、ひどい場合には殺害することもあります。真面目な信者が平気で人を切り捨て、排除する、そういう宗教の危険性を、イエスは突いています。

あなたが隣人になりなさい

 さて、半殺しにされたユダヤ人を助けたのはサマリア人でした。
 これも多くの方がご存知だとは思いますが、サマリア人とユダヤ人は非常に仲が悪かった。特にユダヤ人にとってサマリア人というのは、共通の祖先を持つだけに、ユダヤ人のような民族の「純血」を保てなかった連中として、「汚れた民」として見下げ果てた存在でした。
 「おまえはサマリア人か」というのは立派な侮辱の言葉、差別発言で、イエスもそういう言葉で侮辱されたとヨハネ福音書にも記録されています(8章48節)し、また、本日の聖句の2ページ前、ルカ9章51節以下では、イエスの弟子たちも差別意識を丸出しにして、
「彼らを焼き滅ぼしましょうか」(54節)などと言っています。
 隣人であるどころか、敵ですらもありえない、敵以下の存在であるサマリア人が、半殺しにされたユダヤ人を見て憐れに思い。応急手当をし、宿屋に連れて行って介抱し、宿屋に怪我人を預ける費用まで支払ってくれた。「隣人」でも見捨てた人を、みなさんが「敵」以下、人間以下として見下げ果てている人が助けてくれたんだそうですよ、と。
 ここまで話して、イエスは律法学者に質問します。
 
「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思いますか」(36節)
 絶妙の切り返しですね。ここでイエスは質問者の問いのポイントをすり替えています。
 「私の隣人は誰か」という質問に対し、「隣人になったのは誰か」と切り返す。誰を愛せばいいんですか、と言って保身に走る人間に対して、「ちがう。あんたが隣人になるんだよ」と、ピシャっとお灸をすえたような格好です。
 律法の専門家は、「そのサマリア人です」と言って民族名を口にするのも嫌なのか、
「その人を助けた人です」と言いました。
すると、イエスは言いました。
「行って、あなたも同じようにしなさい」(37節)

敵を愛する

 もう、最初の永遠の命に関する問いは吹っ飛んでいます。
 そんな事はイエスにとって、どうでもいいのですね。
 イエスの心にあるのは、「隣人を愛せ」と教えている宗教の皆さんが、実は都合よく自分の「隣人」の範囲を決めて、都合良くおつきあいしながら、本当に困っている人のことは簡単に切り捨てているじゃないですか、という宗教批判です。そんな隣人愛に何の意味がありますか? という問いです。
 それでも人を愛せと言うなら、あなたがたが「隣人」の範囲から除外しているような「敵」を愛してみてはどうですか、という痛烈な問いかけであります。
 ここで、
マタイ福音書5章43節以降の、「敵を愛しなさい」というイエスの言葉とも一致してきます。「隣人を愛し、敵を憎め」と言われている。しかし、敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
 だって、神さまは善人にも悪人にも、律法にかなった人にもかなってない人にも、同じように太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるじゃないか。あなたもそんな神さまのことを見習ってみたらどうですか、ということです。
 こうやってルカは、他の福音書記者とは違い、「神を愛せ、隣人も愛せ」というお題目を突き抜け、「敵をも愛せ」と言ったイエスの思いを描き出すことができたわけです。

行って、あなたも同じようにしなさい

 しかし残念ながら、「敵をも愛する」というイエスの教えを実行するのは大変難しいです。
 キリスト教会も最初からこのイエスの言葉を真に受けることには困難を感じていたのでしょう。ですから、パウロもヤコブも「敵を愛しなさい」と教えることはできず、「隣人を自分のように愛しなさい」という教えに集中したのではないでしょうか。
 「隣人を愛しなさい」というユダヤ教の教えから飛び抜けたようなイエスのアイデアを、キリスト教会は正面から受け止めきる事ができずに、またユダヤ教の枠内に戻っていったと言う事もできます。
 しかしルカはこの「敵を愛してみよ」というイエスの、枠からはみ出たような言葉を「あなたの方から隣人になりなさい」という言葉に置き換えて、少し具体的な方向へと進めたのではないかと思われます。
 「私の隣人とは誰なのか」と問うた時点で、「隣人」と「隣人でない者」との境界線を引くことになります。そして、その境界線はしばしば自分に都合良く引きなおされるのです。そんな事でいいのか、とイエスは問いかけています。
 これまでのキリスト教会2000年の歴史のなかで、一体何人のクリスチャンが、敵を愛することができたか。全くいないわけではありませんが、非常に少なかったでしょう。そして、キリスト者はむしろ多くの戦いを引き起こしてきたということも否定できません。
 しかし、何度過ちを犯しても、私たちはこのイエスの問いを無視してはなりません。それが私たちにはほとんど不可能なことであったとしても、イエスは諦めていないということを覚えておかなければなりません。
 そして、このイエスの問いをいつも胸に抱き続けることで、いつか自分以外の全ての人に対して、自分から隣人になろうとすることができるだろうという希望を信じたい。
 それを信じて祈りつつ、昨日よりも前へ進むのが、キリスト者です。
 イエスからの問いを忘れず、自分が、そして社会が変わることを信じて、進んでまいりましょう。
 お祈りいたします。

祈り

 私たちに命を与え、今日も生かしてくださる神さま。
 こうしてあなたの御前に集められ、共にあなたに礼拝を捧げることができます恵みを心から感謝いたします。
 イエスが示してくださった愛を、この世の中で実現する勇気と力を、どうか私たちに満たしてください。
 いつもあなたからいただいた愛を、自分以外の人と分け合うことのできる私たちであらせてください。
 イエス・キリストの名によって祈ります。
 アーメン。

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