We Are Not Alone.

2010年9月19日(日) 同志社女子高等学校 修養会 聖日礼拝説教

説教時間:約30分(音声版はありません)

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聖書:マタイによる福音書18章20節 (新共同訳・新約 p.35)

 二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
 

我思う、故に我あり?

 デカルト、という名前の哲学者がいた事を知ってますか?
 ルネ・デカルト(1596-1650)。フランスの哲学者で「我思う、故に我あり」という有名な言葉を残しました。
 「我思う、故に我あり」。
 超カンタンに、かなり荒っぽく意味を説明しますと、「この世で存在しているものは本当に存在しているのか、それとも実体のない幻のようなものなのか」というテーマを考えていく中で、全ての存在を疑うわけです。ということは当然、自分自身の存在をも疑います。
 「本当は私は存在しているのではなく、存在していると思わされているだけではないか」と。
 しかしデカルトは考えました。「自分の存在を疑っている自分自身の存在は否定できない。『自分はなぜここにいるのか?』と考えること自体が、自分がここに存在していることの証明である。だから、『我思う、故に我あり』だ」。
 わかります?

汝を知る、故に我あり?

 ところが最近、このデカルトの「我思う、故に……」というのは違うんじゃないかということが、実験的に言われ始めています。
 生後間もなくの赤ちゃんは、最初「自分」というものが認識できないそうです。
 鏡を見て、自分の顔が映っていても、それが自分の顔であるという意識がないんですね。自分の顔を見ても、それを他人の顔のように認識します。自分というのがないんです。
 実際には生まれてすぐ鏡をのぞき込む赤ちゃんはまずいないんであって、赤ちゃんが最初にまじまじと見つめる事のできる他者は、通常はお母さんの顔です。
 赤ちゃんはまずお母さんの顔を認識します。そのお母さんが自分をあやしてくれて、おっぱいをくれて、お世話をしてくれます。お母さんとのつながりが赤ちゃんの生命線です。
 そして、やがて成長するにつれて、他人とは違う、自分というものがあることに気づいてゆきます。自我の芽生えですね。それは反抗期と昔は呼ばれていました(今でも言うますかね?)。
 というわけで、人間はまず他人から出会います。そのあとで、自分と出会います。他人をちゃんと認識できなければ、他人とは違う自分の存在にも気づけません。
 つまり、他人がわからない人は、自分もわからないんです。
 故に、デカルトの言う「我思う、故に我あり」は実際には逆であると。
 では、何と言いなおせばいいでしょうか。「他者を知る。故に我あり」でしょうか。なんだかしっくりこないですね。

我とそれ

 そこで、もうひとりの哲学者を紹介します。マルティン・ブーバー(1878-1965)という人です。
 このブーバーという人は、「我とそれ」「我と汝」という言葉を使って、「対話の哲学」というものを広めた事で知られています。「汝」というのは、「あなた」という意味の古くからの言葉です。
 「我とそれ」と「我と汝」。
 「我とそれ」というのは、自分以外の存在を、対等に自分と関わる相手として見ていない状態です。
 「それ」というのは、人間であったり、自然であったり、物体であったりしますが、それを「私」は利用したり、支配したり、役に立たなくなったら交換したりすることができます。
 わたしたちが自然現象や物を利用したりするのは、まあ当たり前で、この「我とそれ」の関係も絶対に必要なんですが、この利用と支配の関係が、人間に対しても行われると、いろいろ問題が生じます。その一番ひどい例が差別であったり、暴力であったりします。
 差別や暴力は、自分以外の人間を「それ」としか捉えてないために起こります。そしてそれが民族や国家などの集団になると、テロや戦争といった形をとります。
 でも、それは最悪な形をとった場合の話であって、実は私たちは、ごく普通の日常生活でも、たいていの人と「我とそれ」の関係でしかつながっていません。

断絶への順応

 例えば、いっしょにお弁当を食べるのは楽しいけど、いっしょに買い物やカラオケに行きたいとは思わない。この場合、洋服やアクセサリーを取り替えるように、場面場面で相手を取り替えています。
 あるいは、試験前にノートを借りるだけの友だち。そういう時だけ仲良さそうに振る舞う。試験が終わったらまた冷たい関係に戻る。この場合、友だちはただ単に利用するだけの対象です。もっとひどいのは自分がノートを借りたくせに、それを返さないで持ち主を困らせる。
 でも、反対に自分自身が「それ」としか見られていないと気づく時、わたしたちはショックを受けます。
 私の親は、自分が果たせなかった夢を私に果たさせようとしているだけではないか。この先生は、私のためというより、学校の評判のために張り切っているんじゃないだろうか。私の恋人は私が美しいからという理由でそばに置いておきたいと思っているのだけではないだろうか。
 私は甘えられているだけか? 私は飾り物か? 私は利用されているだけか? 私は取り替え可能な存在か? 私は本当にこの人にとってかけがえのない存在なのか? 私は……?
 そういう疑問が頭を巡り始めると、私たちはとんでもなく自分が孤独に感じられ、何のために生きているのかさえもわからなくなります。
 そして、そういう思いを味わい続けると、次第に人は、無感覚になってゆきます。自分がかけがえのない存在かどうかなんて、どうでも良くなって、「どうせ人間は互いに利用し合って生きているだけでしょ」と割り切り、冷めた心で生きるようになります。そうしておけば、もう傷つかなくて済むからです。
 でも、そうなると、もう今度は「我」「わたし」というものさえも「それ」になってしまって、「生きてたって、死んだって大差ないよ。私なんか死んだって誰も困りはしないよ」。そんな風にしか考えられなくなってしまいます。

我と汝

 でも、ブーバーによれば、別の生き方があります。
 それが「我と汝」の関係です。
 「汝」あるいは「あなた」は、利用したり、支配したり、役に立たなくなったら取り替えるような相手ではありません。
 他の何にも替えることができない、かけがえのない一人の人格として「わたし」が関わっている相手が「汝」すなわち「あなた」です。
 「あなた」と関わる時「わたし」は、相手を大切な人と思い、相手のことをよく考え、相手の話をよく聴いて、ありのままに受け止め、理解しようとします。そうすると、自分と相手の間に信頼関係ができ、心の扉が開きます。
 しかし、そういう努力をしても、「わたし」が「あなた」を完全に理解しきることはできません。人間の全体を完全に把握する事は不可能なので、自分は相手を支配することはできません。
 でも、だからこそ、その人は誰とも違っており、取り替える事が不可能で、かけがえのない存在なわけです。かけがえのない人として、大切に対話をすること。それが「我と汝」の関係です。
 そして、そういう「我と汝」「わたしとあなた」という深い結びつきがまずあって、それからだんだんと私は「わたし」という存在に目覚めるんですね。
 これ、さっきの赤ちゃんの話と同じです。赤ちゃんには最初「自分」というものが無くて、お母さんとの「我と汝」の結びつきしかありません。そして、この「我と汝」の結びつきの中で育てられる中で、やがて「我」というものが芽生えてきます。
 「我」というものがしっかり芽生えてくると、やがて自分以外のものを「それ」としてとらえる事もできるようになってくるのですが、あまりに「我とそれ」の関係ばかりやっていて、「我と汝」の関係を見失うと、ひとりぼっちになり、孤独と空しさに苦しむようになってしまうんですね。
 ですから、私たち人間が、本当に生きる手応えや意味を感じながら生きてゆこうとするなら、どうしても「我と汝」「わたしとあなた」という結びつきが必要になってきます。
 そして、その結びつきを本当に取り戻せた時、「わたしとあなた」は一つになり、「わたしたち」になります。
 お渡ししているプリントを見てください。

〔A New Creed〕

              1968, 1980, 1994. The United Church of Canada
We are not alone,
  we live in God's world.
We believe in God:
  who has created and is creating,
  who has come in Jesus,
    the Word made flesh,
    to reconcile and make new,
  who works in us and others
    by the Spirit.
We trust in God.
We are called to be the Church:
  to celebrate God's presence,
  to live with respect in Creation,
  to love and serve others,
  to seek justice and resist evil,
  to proclaim Jesus, crucified and risen,
    our judge and our hope.
In life, in death, in life beyond death,
  God is with us.
We are not alone.

新しい信条

 「We are not alone.」という言葉から始まっていますね。
 これは、カナダ合同教会(The United Church of Canada)という、カナダのキリスト教団が掲げている、「新しい信条」というものです。
 「信条」というのは、「信仰告白」とも言いますが、要するにその教団が何を信じているか、その内容を言葉に表したものです。
 その一番最初の言葉が「We are not alone.」、「わたしたちは一人じゃない」から始まっています。
 「信条」というのは、教会に行った事がある人なら、聴いた事もあるかも知れませんが、例えば「我らは天地の造り主〜♪、全能の父なる神を信ず〜♪、我らはその独り子〜♪、我らの主イエス・キリストを信ず〜♪……」てな具合に、礼拝で唱えるものだと多くのクリスチャンが思っています。
 「信条」というのは、「わたしはあなたを信じます〜」ということを神さまに向かって唱えているんだと思っている人が多いんです。
 でも、実は「信条」は、同じ時代に生きている、クリスチャン以外の人たちに対して宣言する、世の中に対して呼びかけるという役割もあるんです。
 つまりこのカナダ合同教会の「新しい信条」は、世の中の一般ピープルに対して、「わたしたちは一人ではないんですよ!」と呼びかけているんですね。
 この「新しい信条」を、ぼくなりの訳し方で、日本語で言ってみます(私訳であり、公式の日本語訳ではありません)……。

We are not alone.

「わたしたちはひとりぼっちではありません。
  わたしたちは神さまの世界に生きています。
わたしたちは神さまを信じています。
  神はこの世を創造し、今も創造し続けています。
  神は肉体となった言葉であるイエスにおいて、この世に来られ、
    この世と和解し、この世を新しくされました。
  そして聖霊によって、
    私たちや他の人たちにおいて働かれています。
わたしたちは神さまを信頼します。
わたしたちは教会となるために、
  また、神さまがおられることを祝い、
  神に造られたものに敬意を払いつつ生活し、
  他者を愛し、仕え、
  正義を求めて、悪を退け、
  十字架につけられ、復活された、
  私たちの審判であり希望である、
  イエスを讃えるために招かれました。
生きている間も、死んでからも、死後の命においても、
  神さまはわたしたちと共におられます。
わたしたちはひとりぼっちではありません。
  神さま、ありがとうございます」。

わたし以外に一人でも

 ここでは、教会にいる人たちが、教会に来ていない人たちに対して、相手がキリスト教を信じるとか信じないという事と関係なく、「あなたを愛し、仕えたいのです」「わたしたちは一人ではありませんよ」と呼びかけています。
 なぜそんな事を言わないといけないのかと言うと、今の世の中は「我と汝」の関係がものすごく少なくなってきているからです。
 経済の場面では、ものを売る人と買う人の関係。学校では、教える人と教わる人の関係。そしてついには親子や夫婦、兄弟姉妹の間でも、「我と汝」の関係が霧のように薄れて、おたがいに「それ」としてしか相手を見ていないような、互いに利用したり、利用されたりするような関係しか持てない、そんな現実が広がっています。
 そのために、「孤独」が疫病のように蔓延しているんです。
 でも、そんな状況に負けないで「我と汝」「わたしとあなた」の結びつき、支え合いを作っていきましょう。「わたしたちはひとりぼっちじゃないんですよ!」「あなたはわたしにとって大切な人なんですよ!」と呼びかけているんです。
 今日読んだ聖書の箇所には、「二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ福音書18章20節)と書いてあります。
 2人または3人ということは、「わたし」一人では何も起こらない、ということです。「わたし」以外に誰か1人でもいい、2人でもいい、という最小単位。その最小単位の人数であったとしても、きちんとした「つながり」ができれば、そこから元気が出てきます。
 「それを信じて、生きましょう」と呼びかけているのです。

お願い

 最後に、みなさんにお願いがあります。
 みなさんのさっきの全体発表で、同志社女子高校がどんなに素晴らしい学校なのか、そしてみなさんがどんなに素晴らしい時間をこの学校で共有したのかがよくわかりました。
 でも、間もなくみなさんは、卒業してバラバラになりますよね。そして、それぞれ自分にしか歩けない道を進んでいくことになりますね。
 言っておきますけど、自由というのは孤独なものですよ。
 でも、いつまでも誰かとべったりつながっていようとすると、自由を失ってしまいます。それも自分の人生を破壊する事です。
 ですから、いずれにせよ、みなさんは自分自身の道を歩まざるを得ないと思いますし、世間で苦労というものを人並みに味わって、人並みに孤独を味わうことになるんだろうと思います。
 でも、その孤独を味わうというのが実は大事なんです。孤独を知らない人は、孤独でないことの喜びがわかりませんからね。
 ぜひ孤独を味わうことを恐れないで、自分の道を進んでください。
 そして、歳をとってから、再会してください。
 ぼくは今年、中学の同窓会で、実に30年ぶりに同級生と再会しました。30年間一度も会わなかったのに、会えば一瞬で30年前に逆戻り、中学生気分に戻って、大騒ぎしました。
 いや、単に過去に戻っただけではなくて、仲の悪かった人も、自分をいじめてた人さえも、大切な人、愛すべき人に思えました。
 なぜそう思えるのか。それは、お互い離ればなれになって、孤独にそれぞれ自分の道を歩んできた、苦労を経験した者どうしが「同志」のように思えるからだと思います。
 その時、改めて「わたしたちはひとりぼっちじゃない」ということが身にしみてわかります。

 ですからみなさん、お願いですから、長生きしてください!
 絶対に自分から命を捨てないでください!
 死なないで、長生きして、そして、歳をとってから是非再会してください。
 その時、きっとみなさんは、今よりももっと深く、心の底から「We Are Not Alone!!」と言えるはずです。
 お祈りしましょう。

祈り

 わたしたちに命を与え、愛してくださる神さま。
 あなたがわたしたちに、心を与えてくださったことを感謝します。
 ここにいる人たちが、あなたに与えられた命を精一杯に生き抜き、豊かな絆を信じながら生きることができますように。
 イエス・キリストの名によってお願いいたします。
 アーメン。



※ このメッセージは、実際の礼拝では、当初用意していた原稿から大幅に離れてお話してしまいましたので、当初の原稿と実際の説教の内容とを組み合わせて、アレンジしなおしたものです。

※※このたびの修養会のテーマに即して、カナダ合同教会の「新しい信条」を紹介してくださったのは、iChurch.me-三十番地キリスト教会の協力牧師トマスさんです。深く感謝いたします。

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