自由と恐れ

2010年11月21日(日) 日本キリスト教団枚方くずは教会 主日礼拝宣教

説教時間:約30分(前後のトークを入れて約35分) お聴きになりたい方は→audio

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聖書:ルカによる福音書10章38~42節 (新共同訳・新約p.127)

 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタのという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。
 マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。
 「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
 主はお答えになった。
 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただj一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

草食系

 男の子は、女の子と恋愛感情抜きに、純粋に友だちになれるでしょうか? あるいは女の子は、男の子と恋愛感情抜きに、全くの友だちになれるでしょうか?
 最近は「草食系男子」みたいなのが流行っているそうで、あんまり女性に対してギラギラしていない男性が増えているとか言われています。ですから女性を恋愛対象じゃなくて、友だちとしてのみ見る事のできる男性が多いらしい。逆に女性の方が肉食系に変わってきているみたいな話を聞いた事もあります。
 でも、若い人はそうかも知れませんが、私はどっちかというと、昔から肉食系の方で、異性に関してはよく勘違いします。
 ちょっと女性に優しくされたり、親しげにされたりすると、「あ、この人俺のこと好きなんちゃうかな?」と期待するのですね。若い頃はこれでずいぶん痛い目にあいました。
 さすがに今年からアラフォーでもなくなってみますと、世の中そんなに自分に都合良く回っているわけではないということもよくわかりましたので、そういう勘違いに振り回されることも少なくなりました。
 というわけで、今日読んでいただいた聖書の箇所は、イエスと女性の友人たちのお話です。

マグダラのマリア

 イエスの女性たちとの関係……というと私は、今から7年前、2003年にアメリカのダン・ブラウンという作家が出した『ダ・ヴィンチ・コード』という小説を思い出します。トム・ハンクスの主演で映画にもなりました。読んだ方、または映画を観た方、いらっしゃいますか?
 この作品は大変な反応を世界中のキリスト教会に巻き起こしました。というのも、この『ダ・ヴィンチ・コード』という作品の中で、ダン・ブラウンは「イエスには妻がいて、子どもまでいた」と書いているのですね。イエスとマグダラのマリアは夫婦だったと。そしてイタリアのミラノにあるダ・ヴィンチの『最後の晩餐』の絵で、イエスの隣に描かれているのは、実は使徒ヨハネではなくてマグダラのマリアだと。
 これには、カトリック、プロテスタントに限らず、保守派のキリスト教徒が猛然と反発しました。曰く、「イエスは神の子だから人間と結婚するはずが無い」とか、「イエスは神だから人間の女性と結婚して子どもができてしまうと、その子どもは神なのか子どもなのかわからなくなる」とか、反対派の本も読んでみたのですが、言いたい事を言ってるだけで話がかみ合ってないというか、まあはっきり言って水掛け論ですね。
 で、私自身は、別にイエスが結婚していても、子どもがいても困らないのですけれども、聖書の中にイエスの結婚と子どもについての証言が全くありませんし、聖書を1巻にまとめるプロセスで排除されていた、いわゆる「外典」「偽典」というものにも、イエスの結婚について書かれたものはありません。
 『マグダラのマリアの福音書』という外典もあるのですが、そこでも特にイエスに愛された弟子としてマグダラのマリアについて述べられていますが、結婚と出産については何も書いてありません。
 それに、あの『ダ・ヴィンチ・コード』という作品の落ちは——まだ小説を読んだり、映画を観たりしていない人のために、ここでは伏せておきますけど——ちゃんと「あ、これはフィクションだな」とわかるようになっているんです。小説の中に「これは事実である」といった語り口が出てくるのでみんな本気にしてしまうんですが、最後まで小説を読んだり、映画を観たりすれば、これはフィクションだとわかります。
 マグダラのマリアの名前はよく福音書に登場しますので、イエスにとっては大事な女性の弟子だった可能性は高い。そして、ひょっとしたら『マリアの福音書』にもあるように、イエスはマグダラのマリアを特に愛したという事もあったかも知れない。
 しかし、だからといって、結婚したかどうか、子どもが生まれたどうかについては、かなり眉唾だなと思っています。むしろ、イエスはその当時の男性としては型破りなほど、いろいろな女性と会って、話し、友人となったのではないかと思います。

マルタとマリアとラザロと香油

 イエスと女性たちとの関係のことを考える上で、マグダラのマリアに次いでよく取り上げられる人物は、マルタとマリアであろうと思います。
 ただ、この2人についての福音書のなかの伝承は、それぞれ食い違いがあり、何が事実なのか判別するのは難しい状況です。
 今日お読みしたルカによる福音書でのマルタとマリアのお話は、このルカ福音書にしか収められていないものです。
 ここ以外にこの2人が登場するのは、ヨハネによる福音書12章で、マルタが食事のお世話をしている間に、マリアが300デナリオンで売れるような高価な香油を持ってきて、イエスの足をそれで拭いたというエピソードが記録されています。そしてそれはベタニアというエルサレムに近い村であったと記されています。
 マルコとマタイには、この2人の姉妹の名前は出てきませんが、イエスと弟子たちがベタニア村からエルサレムに通っていたという記述があります。つまり、ベタニアはイエスと弟子たちの、エルサレムに通うためのベースキャンプみたいになっていたということですね。
 そして、このベタニア村であった事として、1人の女性が香油を、今度はイエスに頭に注いだ話がマルコとマタイには載っています。
 その代わりルカには、ベタニア村ではないんですが、あるファリサイ派の人の家で食事をしている時に、一人の「罪深い女」と呼ばれる女性がイエスの足を涙で拭き、香油を塗った、というエピソードが収められています。
 また、マルコとマタイには、その香油の事件が起こったのは、ベタニア村の重い皮膚病を患っていたラザロという人の家だとしか書いていないのに対して、ヨハネ福音書ではそれは死んでイエスに復活させてもらったラザロの家で、マルタとマリアとラザロは兄弟姉妹であったとなっています。
 こうして一気にお話ししても、わけがわからなくなった方もおられるのではないかと思いますが、要するに福音書が書かれた順序で言うと、マルコとマタイの福音書ではベタニア村にイエスのシンパがいて食事や宿を提供していたこと。そこでイエスの頭にある女性が香油をかける事件があったことが伝えられた。
 そしてルカ福音書は、イエスの足を香油で拭った罪深い女の話を伝え、それとは無関係にマルタとマリアの姉妹がイエスと親しかったことを述べている。ただしベタニア村という地名は出てこない。
 そしてさらにヨハネ福音書は、それらを統合して、ベタニア村にマルタとマリアとラザロの3人がいる家があり、そこでマリアが香油を持ってきてイエスの足にかけて髪で拭いた、というエピソードに組み立てたということなんでしょうね。

家事の分担

 そのようなややこしい伝承の関係の中で、今日のテクストであるこのルカ福音書10章38節以降は、マルタとマリアという2人の女性の対照的な個性と感情が生々しく描かれた、面白いお話だと思います。
 よくまことしやかに解説されるのは、「マルタは世俗の雑用に追われているが、マリアはイエス様のお話を聴く事が一番大切だとわかっていました。だからみなさん、何よりも信仰が大事です。マリアを見習いましょう」という教訓話ですが、これは、マルタが可哀想だろうと私などは思います。
 マルタがやるべきことをやってくれているから、イエスもお弟子さんたちも食事ができて、寝る所も用意してもらえるわけです。目立つ仕事ではありませんが、その仕事を誰かがやらなかったら大変困ります。
 私のこと一つを取っても、うちではやはり、食事の用意と片付けは、圧倒的に妻がやることが多いです。特に、こうクリスマス前の超忙しい時期は、職場から帰るのが毎晩遅くなるので、子どもたちのためにも食事を用意するのは妻です。そして、くたびれきった私の代わりに食器を片付けたりするのも彼女です。
 ですから、私も多少彼女には後ろめたい気持ちがあります。二人とも働いているのに、片方が一方的に家事をやっているのはどうかと。
 そう思うのは、別にぼくが立派な事を考えているというのではなくて、ずっとやってくれていたら有り難いんですが、相手の怒りがいつ爆発するか怖いんですよ。
 だから、マルタが怒る気持ちもわかります。マリアも調子乗ってると痛い目に遭うよと。そう思ってしまうわけです。

女性の低い地位

 マルタという人は、まじめな人だと思います。彼女はその当時、女性に期待されていた役割を一生懸命にこなしていたわけです。
 2000年前のユダヤ人社会での話ですが、当時女性は料理ができて、その他の家事もできて、子どもを産んで育てればよし。基本的には家の中から出ないで、夫や男の子などの世話を焼いておればいいという位置づけでした。
 一言で言えば、男性の私有財産。結婚する前は父親の私有財産、結婚したら夫の私有財産です。
 旧約聖書に収められている「十戒」の10番目の掟にも、こう書かれています。
「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト記20章17節)
 つまり、家、奴隷、牛、ろばに並べられるのが妻だったわけです。
 こういう事からも、十戒というのが基本的にユダヤ人の男に対して守る事が求められたものであり、女はその男の持ち物に過ぎないと見なされていた事がわかります。
 私有財産なので、当然、男の一存で処分することができます。その処分のことを「離縁」というのですが、これについては旧約聖書の申命記24章1節以降に書かれてあって、
「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24章1節)とあります。
 そこで、どんな出来事が「恥ずべきこと」として離縁の理由として認められるかという解釈論争がイエスの時代にも既に伝えられていて、その中には「夕食の料理を焦がすのは恥ずべきことである」とか、「夫の承諾無しに夫以外の男と話すのは恥ずべきことである」とか、そういう手前勝手な律法学者たちの議論が記録されています。
 また、子どもが産まれない、というのはじゅうぶん離縁の理由になりえたでしょう。今では、子どもが産まれない時の不妊治療というのは、女性にも男性にも原因を見つけようとしますが、昔は産まれないのは一方的に女性側の問題とされましたし、子孫に恵まれないのは神に祝福されてないしるしとされましたから、そういう妻が離縁を夫や親族から要求されるというのは、じゅうぶん考えられる話です。
 実際に離縁がどれくらい頻繁に行われていたかという事ははっきりとはわかりません。離縁されたからといって、女性が一人で仕事を見つけてゆけるような社会ではありませんから、実際問題実家に戻るか、再婚するしか生きてゆく道はありません。
 ですから、そんなに簡単には離縁は起こらなかったのではないかと思うのですが、その代わり「おまえみたいな女は、いつでも離縁できるんだぞ」というような類いのハラスメントを日常的に受けていた可能性は高いと思います。

ジェンダー・ロール

 そんな時代、そんな社会ですから女性に期待されていた事は、子どもを産んで、家事をこなす、良妻賢母であることだけだったわけですね。
 最近、日本のある政治家が女性のことを「産む機械」と言って問題になりましたが、その人は、今から2000年前のユダヤの感覚に近いのかも知れません。
 マルタとマリアがイエスと弟子たちの世話をしながら、イエスと話していたということは、おそらくこの姉妹は結婚してはいなかったのでしょう。
 しかし、マルタは当時女性に求められていた役割を一生懸命こなそうとしていました。一行の足を洗う水と手ぬぐいを用意し、食事を用意し……とやっていたわけです。それが当時、女の人がやるべき事とされていたわけで、そういう仕事が好きか嫌いかは関係ないのです。
 ところがもう1人のマリアはそれをやらない。イエスの話に聞き入っている。それを見てマルタは怒りにかられました。
 この場合、イエス様と話している姉妹に直接声をかけ、引っ張ってゆく方がイエスに対して失礼なのか、あるいはイエスに直接声をかける方が失礼なのか、私にはよくわかりませんが、物語ではマルタはイエスに直接話しかけています。
 
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(ルカ10章40節)
 するとイエスは、
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(同41〜42節)
これに対してマルタがどう反応したのかは書かれていません。
 みなさんなら、どう思いますか?

隔ての壁を越えて

 このイエスの態度に納得いく人は、一般社会では少ないんじゃないかと思います。
 まず性別によって役割を押し付けるのはやめましょうという立場からすると、このイエスの言動は間違っています。
 この場合は、イエスはこう言うべきだったんです。
 「マルタ、マルタ、悪かった。私たちも一緒に食事の用意をしよう」と言って立ち上がる……。そしてみんなでお互いのために奉仕し合って楽しい食事ができました。めでたし、めでたし……。
 なのに、聖書の中のイエスのこの物言いは、まるでこれまでマルタが一生懸命こなしてきた仕事を馬鹿にするような態度ですよね。「マリアは良い方を選んだ」なんて言ったら、マルタの面目丸つぶれです。
 でもイエスはそういう言葉を発してしまった。「必要なことは一つだけなんだ」と言いました。
 なぜでしょうか?
 マリアがやっていることは、その時代、その社会の中では「はしたない行為」です。
 女でありながら、多くのお客さんのいる中で、もてなしもせず、全部もう1人の姉妹にやらせて、自分は男の客と話している。
 この姉妹の家には父親の存在が感じられませんが、もし父親が健在だったら、このマリアのはしたない行為に激怒して、マリアをイエスから引き離したでしょうね。そして、客人であるイエスにも、礼儀をわきまえず、ご迷惑をおかけしたと謝るかも知れません。
 しかし、イエスは実はそんなマリアの礼儀知らずで品格のない態度がうれしかったんです。
 女とはかくあるべき、男とはかくあるべき、そんな風に人間に鋳型をはめ、女と男を隔てている壁を打ち壊し、自由に出会い、自由に心を開いて話し、自由に友人となる。そんなつながりの方を、快適なもてなしでくつろぐよりも大切なこと、必要なこととしたわけです。

自由なつながりの再発見

 考えてみれば、マルタも自分に押し付けられた性別役割:ジェンダー・ロールが気に入っていたわけではなかったんでしょうね。だから自分だけやらされている、という被害者意識にかられたんでしょう。
 そして、マリアとイエスのしている事をみて、自分の守っている伝統的な役割を冒涜されたような気がして、心が乱されてしまったのでしょう。
 一方、イエスのやり方は、大体いつもこんな調子です。
 一緒に手伝ってあげたら、すべて丸く収まるかも知れないのに、そういう事はしない。いつも、古い生き方に縛られている人が、ぎょっとしたり、むっとしたりするようなやり方で、問いを投げつけてしまう。それがイエス流です。
 ショックの大きいやり方ですが、イエスは人間と人間を隔てる壁を壊して、人間を解放します。ここでは、女と男の壁、とりわけ女性に課せられた重圧を、やや荒っぽくではありますが、取り払いました。
そして、女と男の対等な友情という、当時誰も思いつきもしなかった人間関係を生み出しました。
 残念ながら、このような形でイエスが女性たちを解放していった結果、イエスには何人もの女性がついてゆくことになりましたが、このためにイエスは、世論を構成している男性たちに、「伝統的な家庭や社会の秩序を揺るがす者」として恐れられるようになりました。
 イエスを「十字架にかけろ」と叫ぶ群衆を構成していたのも、そのようなイエスに憎しみを抱く人たちでした。
 またその後、およそ2000年近くに渡って、キリスト教会は男性支配的な教会組織を築き、女性の尊厳を認めず、良妻賢母型の女性になることを奨励してきました。そして、女性に鋳型をはめることは結局、男性にも男らしさという呪縛をはめてきました。
 イエスが行なった自由な人とのつながりの意義が再発見されてきたのは、つい最近のことです。
 私たちは、もう一度聖書を読み直し、イエスの自由にならって、自らも自由に生き、自由に人と出会い、自由に人とつながる一歩を踏み出してもよいのではないでしょうか。
 それではお祈りしましょう。

祈り

 愛する天の神さま。
 私たちを今日もこうして生かしてくださってありがとうございます。
 私たちが、こうしてあるがままに生きる事を許してくださり、誠に感謝いたしております。
 神さま、どうか、私たちが、自分以外の人の自由を大切にし、自分自身も自由に生きる喜びを与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。
 アーメン。

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