誰がまことに幸いか

2010年12月24日(金) 日本キリスト教団香里ヶ丘教会 クリスマス・イヴ音楽礼拝説教

説教時間:約13分(前後のトークを入れて約17分) お聴きになりたい方は→audio

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聖書:ルカによる福音書1章46~56節 (新共同訳・新約p.101)

 そこで、マリアは言った。
 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
 身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。
 今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、
 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。
 その御名は尊く、
 その憐れみは代々に限りなく、
 主を畏れる者に及びます。
 主はその腕で力を振るい、
 思い上がる者を打ち散らし、
 権力ある者をその座から引き降ろし、
 身分の低い者を高く上げ、
 飢えた人を良い物で満たし、
 富める者を空腹のまま追い返されます。
 その僕イスラエルを受け入れて、
 憐れみをお忘れになりません、
 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
 アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
 マリアは、三ヶ月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

わたしは幸いな者

 イエスの母とされたマリア。
 マリアが天使ガブリエルから受胎告知を受けた時、ガブリエルはマリアに
「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。……神にできないことは何一つない」と告げます(ルカ1章36節)
 そこで、マリアがエリサベトの所に行ってみると、ガブリエルの言ったとおり、エリサベトは妊娠しており、マリアが挨拶をすると、そのお腹の中の子が踊ったといいます(41節)。
 そしてエリサベトが、
「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは」と喜びの声を上げると(43節)、マリアは後に「マニフィカート(Magnificat)」という名で歌われることになった「マリアの賛歌」という言葉を発します。
 
「わたしの魂は主をあがめ、
 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
 身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。
 今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう。
 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」(47〜49節)

 彼女は「私は幸いな者だ」と言いました。貧しくても、身分が低くても私は幸いだ。そのようにマリアは叫んだのでした。

逆転への期待

 しかし、このマリアの賛歌は、後半部分にさしかかると、何やら穏やかではない雰囲気を漂わせます。
 
「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(51〜53節)
 マリアは自分のことを「身分の低いはしため」と言いましたが、神はそのような身分の低い者を高く上げ、権力ある者を引きずり降ろすだろうと期待しているのです。
 このような物言いに、反感を感じる方はおられると思います。他にもルカによる福音書には、「貧しい者は幸い。豊かな者は不幸」という言葉もあるくらいですが、私が学校でこういう聖書の箇所を授業で取り上げると、たいていの子が「権力ある者を引き降ろして、身分の低い人を高く上げたり、お金持ちを引き降ろして、貧しい人を引き上げても、今度はその新しいお金持ちをまた引きずり降ろすのか? そんなことを堂々巡りになるだけだろう」とか、「なぜ貧しい人をえこひいきするのか? どうしてお金持ちは貧しくならないといけないのか? お金持ちも貧しい人も、どちらも幸せにと言うならわかるけど、どうしてお金持ちばかり攻撃するのか? もっと聖書は公平に全ての人の幸せを願った言葉が書いてあるものだと思っていた。正直がっかりした」とも言われた事もあります。
 みなさんはどう思われますか? なぜ聖書にこんなお金持ちや権力者に対する恨み言のような事が書いてあるのでしょうか。

領土と食糧と子孫

 更にこのマリアの賛歌を読み進むと、こんな事が書いてあります。
 
「(主は)その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」(54〜55節)
 イスラエルに対する憐れみ。先祖アブラハムに対する、土地と食べ物と子孫を与えるという約束。これは、完全にユダヤ人の民族主義的な主張、すなわち「パレスティナは我々の土地だ。そこは神が私たちに与えた約束の地なのだ」という言い分が織り込まれていますね。
 ユダヤ人は歴史上ずいぶん長い間、この約束の地を周りの大国に占領されていて、イエスの時代にもローマ帝国の属州として支配されていました。また、紀元73年にはローマとの戦争に破れ、国土を失いました。
 ルカによる福音書が書かれたのは、それからほんの10年か20年後の事です。だからこそ余計に、彼らの苦悩が、このマリアの賛歌に投影されているのではないかと思われます。
 ユダヤ人は、その後、1900年近くも固有の領土を持たない流浪の民として世界中に散らばりましたが、1948年のイスラエル国の独立以来、現在に至るまで、今度はユダヤ人がパレスティナ人を、アメリカやイギリスの後ろ盾を得ながら虐殺し、排除しています。
 ユダヤ人は、これまで長い間、差別され、国土を奪われ、そして虐殺されてきた恨みを晴らそうとしているのでしょうか。

奪われた者の叫び

 神さまは「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返」す方だ、と歌うマリアの賛歌には、国土と食糧を奪い尽くされた暮らしをする者の嘆きがこめられています。
 しかし考えてみると、マリアが望んでいるものは、とてもシンプルです。要するに思い上がる者に不当に支配されたり、食べ物が無くなってしまったりしないような世の中に生きていたいということです。
 国内外の権力や財力や警察力や軍事力などによって不当に支配されないこと、すなわち「自由」であるということ。そして飢えた人がいなくなること。それは単純に食べ物があるというだけではなく、当然着る物、寝る場所があるということ。すなわち「安心」して暮らせるということ。それを何より望んでいるということです。
 「自由」と「安心」。その望みを、「私のお腹から生まれる主が実現してくださるでしょう」とマリアは喜びを先取りしているのです。そのような世界がやってくるために、自分はこの上なく大切な役割を担うことができる、こんなに幸いな事があるでしょうか、とマリアは喜びに満たされています。

世界を変える

 クリスマス:イエス様のお誕生。この喜びをマリアと共に分かち合うために、私たちは何ができるでしょうか。自由で安心して暮らせるというシンプルな暮らし。それを実現するために私たちは何ができるでしょうか。
 マリアが夢見た、このささやかな幸いを実現するために、イエス様は武器を使おうとはしませんでした。むしろ、乏しいものを分け合うこと、与えること、愛すること、赦すことなどによって、世界を変えようとしました。
 そんなイエス様の誕生をお祝いするのがクリスマスです。私たちも、イエス様にならって、愛で世界を変えてゆきたいですね。
 それは決して楽な道ではありませんが、同じ道を歩む者どうしの信頼と絆は、この上ない幸いを私たちに与えてくれます。
 そんな生き方を教えてくれたイエス様のお誕生を心からお祝いしたい。
 メリー・クリスマス! クリスマス、おめでとうございます。
 お祈りをささげましょう。

祈り

 私たち一人一人にこの世の命を与えてくださった神さま。
 私たちは皆、あなたに同じ命を与えていただいた者どうしであるのに、争い、傷つけ、奪い合いながら、この地球で生きています。
 しかし、今宵私たちは、その罪を悔い改め、あなたの御子イエス様の誕生をお祝いしています。
 イエス様が、受けるより与えることを、奪うより分け合うことを、争うより平和を造り出す事を教えてくださいました。
 この事を感謝しつつ、難しい環境にあっても絶望する事なく、いつも希望をもってイエス様についてゆくことができますように、どうか私たちを導いてください。
 イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。

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