理由などいらない

2011年4月17日(日) 
 日本基督教団 徳島北教会 聖日礼拝説教

説教時間:約21分(司会者による聖書朗読を含む。前後のトークはありません) お聴きになりたい方は→audio

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聖書:ヨハネによる福音書9章1~5節 (新共同訳・新約p.184)

 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
 弟子たちがイエスに尋ねた。
 「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
 イエスはお答えになった。
 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行なわねばならない。
 だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」

地震

 もう1ヶ月以上の時がたってしまったのが信じられない思いなのですが、先月の11日に起こった東日本は、私たち直接被災していない者にも大きな衝撃を与えましたし、ひょっとしたらここにおられる方でも、家族や親族あるいはご友人などのなかに、被災して天に召された方や、家を失った方、仕事を失った方がおられるかも知れないと思っています。
 私は、自分の両親が阪神淡路大震災を直接経験しており、私自身も震災の直後に現地にいる親に会いに行き、被災地を目の当たりにしましたので、今回の震災についても——もちろん同じ苦しみを味わっているわけでは到底ないのですが、それでも——他人事とは思えない気持ちです。
 私の父親は、町が破壊されて、人がすっかり入れ替わってしまったためにお客が離れてしまい、商売がうまくいかなくなって、最終的には多額の多重債務を残して死にましたが、これも震災がなければそうはならなかったように思われ、震災が人の暮らしを破壊するというのは、地震や津波が起こったその瞬間だけではなく、後々何年もかけて蝕んでゆくものなのだと思わされます。
 今回の震災は、地震のエネルギーとしては阪神淡路の1000倍もの破壊力があったと言われていますが、それ以上に、これから先長い時間をかけて数え切れないほどの人が、その暮らしも仕事も人の絆も、そして教会さえもが、つぶされてゆくのではないかと思うと、やりきれない思いに捕われそうになります。

神義論

 このような現実の中で、私は最近、何通かの問合せのEメールを頂きました。それは「神さまはなぜ、こんなに惨いことをするのか」とか、「この事を通して神は人間に何を言いたいのだ」とか、「この災害は人間の罪の結果なのか」、「本当に神はいるのか」といったものでした。
 「『神は人間を愛しておられる』と言いながら、なぜこのような惨い災害を起こし、多くの人を殺し、苦しめるのか」、「一体神の義はどこにあるのか」……こういった問題の事を、ご存知かも知れませんが神学では「神義論(しんぎろん)」と言います。しかし、神義論には実は合理的な答がありません。
 たとえば聖書の中でも神義論について専ら語っているといわれる書物に旧約聖書の『ヨブ記』というものがあります。
 『ヨブ記』では、主人公のヨブが、家畜や召使いなどの財産を奪われ、子どもたちの命も奪われ、自分もひどい皮膚病にかけられます。そのような災いに遭っても、ヨブは、
「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ記1章21節)と言ったり、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(同2章10節)と言って、どのような悲惨な運命をも甘受しようとしているように、ヨブ記の2章までは描かれています
 しかし、3章から最終章である37章に至るまでは、ヨブの泣き言と恨み節が続きます。ヨブが神を呪うと彼の友人たちがそれを諌める、という論争が続き、38章でやっと神が登場して、有無を言わさずヨブの恨み節を否定します。

神に怒る

 神の怒りに対して、ヨブはひれ伏すしかありません。最終章の42章の前半までに、ヨブは神の圧倒的な力でねじ伏せられ、そして最後にその後半で、ヨブは赦されて元通りの境遇に戻されて「めでたし、めでたし」となるわけです。
 ここに描かれているのは、「結局人間が受ける災いは、全く神やサタンの自由意志、あるいは気まぐれによるものであり、人間はそれに抗議したり、『神が間違っているのではないか』と問いを投げかける事すらあってはならない」という考え方です。
 
「主は与え、主は奪う」(1章21節)、「幸福をいただいたのだから、不幸もいただこう」(2章10節)。そう言って、人間は自分の運命を甘受する以外にないのだ、というあきらめのようなものが感じられます。
 しかし、私たち人間は、誰もがそのような悟りを得られるわけではありません。実際にこの世で私たちが体験する災い、苦しみ、悩みにおいて、私たちはしばしば神を恨まずにはおれない気持ちに追い込まれます。
 ヨブ記では結論的には退けられてしまっていますが、ヨブが神を恨み、怒りの声を上げる、そこにこそ人間の事実/真実というものがあるのではないかと思います。
 神を恨んだり、神に対して怒りをぶつけたり、神に泣き言を聴いてもらえなかったら、私たちはどうやって自分の中の納得いかない気持ちを処理できるでしょうか。
 幸いにして、実際にはヨブ記のように神が私たちに直接語りかけることはなく、神は沈黙しておられます。しかし、沈黙しておられるからこそ、私たちは神に祈る時、何を言っても叱られないわけで、私たちは思った通りのことを神さまに打ち明ければよいのだろうと思います。
沈黙はそれだけで既に赦しであります。

天罰などない

 地震や津波といったような災害が起きますと、必ず「神の怒り」だとか「人間の罪」といった事を引き合いに出す人が出てきます。
 今回の東日本大震災では、東京都知事が「天罰だ」などと言って物議をかもしました。なぜ問題発言だと言われるかというと、そのような発言が非常に深く人を傷つけるからでしょう。自分自身命を失ってもいないし、ケガひとつしていないのに、よくもぬけぬけと被災者の犠牲に対して「天が与えた罰」などと言い切れるものだと、開いた口が塞がりません。
16年前の阪神淡路大震災でも、当時私は同志社大学の神学生でしたが、住んでいたアパートに2人、ある新宗教の信者がいて、その2人が「キリスト教の教会はぎょうさん壊れはったけど、うちらの神殿はひとつも潰れてないで!」と言ってきた時には、心底から憤りを感じました。
人が災いに遭った事を、神とか天といった、人間の手の届かない、人間を超越したもので理由づける事ほど卑劣な事はありません。それは絶対にやってはいけないことです。
それは根拠なく人を裁き、根拠が無い故に反論も通じないという、鈍感かつ問答無用の、最低な人の傷つけ方です。
私たちは、人や自分の不幸を、神のせいにしてはいけないのです。

なぜ私が?

 「ではなぜ?」と問いが残ります。
 人間は、何か不幸や災いがあった時、「なぜ自分がこのような目に遭ったのだろう?」と、必ず理由を求めます。
 たとえば末期がんなど、死に至る病を負うた時、あるいは災害や犯罪に巻き込まれた時、信じていた人に裏切られた時……人は「何か自分が悪い事をしたせいだろうか」、あるいは「自分は何も悪い事をしなかったのに、なぜ?」と思います。
 その「なぜ?」という問いがあるために、そして誰もそれに合理的な答を見出す事ができないが故に、先程の新宗教の信者さんのような「宗教もどき」のような発言をして、説明したような気になる輩が現われ、その人間の力を超えた原因を取り去ることができるのだ、と言って傷ついた人を勧誘するわけですが、元々そんな宗教に入る気の無い者に対しては、同じ理屈で「あんたが間違った信心を持っとるからじゃ」と容赦なく攻撃するのです。
 本日のテクスト、ヨハネによる福音書の9章にも、同じような人間のメンタリティがよく表れています。
 イエスが通りすがりに生まれつき目に障がいがある人を見かけます。すると弟子たちがイエスに尋ねます。
 
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」(ヨハネ9章1〜3節)
 これは、何か人間に説明のつかない災いが起こるとき、必ず姿を現す物の考え方です。そして、それを拾い上げて、「汝の罪を払ってやろう」「先祖の罪を払ってやろう」「そのために何々をせよ」と言ってマインドコントロールしたり金を集めたりする宗教家が現れます。
 この「なぜ私が?」という問いには、時代社会に関わり無く、必ず人間が落ち込んでしまうものなのだろうと思われます。

神のわざが現れるため

 しかしイエスは、弟子たちの問いに応答しました。
 
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(同3節)
 これは因果応報という考えをスッパリ捨てた物の捉え方です。罪があるから災いがある、という考えを真っ向から頭ごなしに否定しています。
 「罪があるから災いがあるのではない!」
 しかしそれだけでは、「なぜ私が?」「なぜこの人が」という疑問に対する十分な答にはなっていません。
 その災いがこの人に起こったのは、
「神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」(同3〜5節)
 ここで注意しなければならないのは、この人に目の障がいを与えた事が神の業だとは言っていないことでしょうね。そうではなくて、神の業が現れる為に、この時この場にいる、この人にその災いが存在しているということです。
 そしてイエスは、それは神の業だと言いながら、その業は『日のあるうちに』、すなわち生きている間に、死んでしまわないうちに、『わたしたち』が行わねばならない、と言っているのです。
 そこに災いがあるのは、「私たちが」神の業を行うためです。災いに理由があるのではなく、災いが私たちの行動の理由になるのです。
 すなわち、災いのある所に現れるべきは、「愛」という一文字で言い尽くすには足りないような、私たち人間の出会いであったり、助け合いであったり、共感であったり、共に泣き、共に笑い、共に生きるということができるではないか、という問いかけなのではないでしょうか。

十字架

 最後に、イエスの弟子たちが「なぜ私が?」「なぜこの人が?」という問いに最も苦しめられた悲劇は、イエスの逮捕と十字架による処刑だったでしょう。
 「なぜ私たちが当局に追われなければならないんだ?」「なぜあの人が犯罪者として十字架にかけられなくてはならないんだ?」
 昨日も今日も、誰がどう考えても間違った事をしたとは思えない人が、政治権力や警察や軍隊などによってとらえられ、処罰されます。
 ただ、ひたすらに弱者の側に寄り添い、力づけ、癒し、与え、力ある者たちに抵抗してくれた人が、犯罪者として裁かれ、裸にされ、これ以上ないというほどの恥と孤独と苦痛の中で死んでゆかねばならなかった。
 「なぜこんな事になるのですか?!」と弟子たちは神に問うたであろうと思います。何か先生が悪いことをしたのですか? なぜ先生はこんな罰を受けないといけないのですか?
 しかし、それは既にイエスが否定した問いです。人に苦しみが与えられるのは誰の罪のせいでもない。ただ神の業がそこに現れるために苦しみがあるのだ、とイエスは言い残しているのです。
 弟子たちはむしろ、自分たちの罪悪感につぶされそうになっていたかも知れません。イエスを裏切ったのはペトロやユダだけではありません。他の弟子たちも皆イエスを捨てて逃げました。イエスは彼らの身代わりとして一人で殺されたのです。
 罪の無いイエスを棄てて、逃げた自分たちは生きている。死ぬべき罪を抱えているのは自分だ。自分こそ罰せられるべきだ。しかし、実際に殺され、罰を受けたのはイエスでした。そのイエスが「誰の罪のためでもなく、ただ神の業が現れるために」と思っているとしたら、弟子たちはこれをどうとらえる事ができたでしょうか。ここに現れた神の業とはどういうものだったのでしょうか。

理由などない

 それは、人間は生まれながらに罪人である、という性悪説を完全に否定することでした。この世に苦しみや悲しみがあることは、人の罪のせいでも、天罰・神罰でもなく、理由などない。ただそこに苦しみや悲しみがあるから、私たちは愛し合わなければならないということ。
 
「わたしは、世にいる間、世の光である」(ヨハネ9章5節)、とイエスは弟子たちに言いました。
 世にいる間……。あなた方は私がこの世に生きている間に、私とどれだけのものを分かち合えただろうか? 私たちは生きている間に、どれほどの神のわざを行うことができただろうか? 
 光のあるうちに神のわざを実行しなさい。夜が来ると誰も働く事ができなくなるよ。
 生きている間に、苦しみ、悲しみ、悩みがある人とつながりを持ちなさい。そしてできることをして、共に泣いて、共に笑い、共に喜んで、共に生きなさい。
 それが、あなた方が行うべき神のわざである、とイエスは十字架の上から語っているのであります。
 祈りましょう。

祈り

 全能の主なる神さま。
 今日こうして、徳島北教会において、敬愛する兄弟姉妹と礼拝を共にすることができます恵みを、心から感謝いたします。
 神さま、私たちは思いもかけないような災いや、全く予想外に自分をどん底に突き落とす悲劇に見舞われる時があります。
 しかし、いついかなる時にあっても、悲しみを喜びに変えてくださるあなたの全能の力を信じて、人生を歩むことができますように、どうか優しく強い心と体を与えてください。
 イエス・キリストの名によって祈ります。
 アーメン。

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