土の器にある宝

2011年5月22日(日) 
 日本基督教団 徳島北教会 主日礼拝説教

説教時間:約25分(司会者による聖書朗読を含みます) お聴きになりたい方は→audio

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聖書:コリント人への第二の手紙4章7~11節 (口語訳・新約p.281)

 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。
 その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものではないことが、あらわれるためである。
 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。


苦しい話は人にはしない

 本日お読みいただきました聖書の箇所、コリント人への第二の手紙の4章7節以降は、私自身が窮地に陥った時、行き詰まった時に読んで、励まされる言葉であることから選ばせていただきました。
 皆さん、自分の人生がお先真っ暗だ、もうどうしようもない、と実感した経験をお持ちでしょうか。
 私は、意外とそういう修羅場をくぐった方というのは、たくさんいらっしゃるのではないかな、と思っております。ただ、それを敢えて人に語る人が少ないだけで、人は皆それぞれに、どう言葉で表現していいのかわからないような苦しい体験を持っていたりします。
 しかし、そのような体験は、話し始めると長い話になりますから、まあ長話に付き合わせても悪いなあと思ったり、また自分にとっては苦しかったけれども、他の人が聴いたら「なんだ、そんなん大した事ない、私の方が大変やわ」と思われるんじゃないだろうか、などと考えてしまいがちです。ですから、余計に人に話せなくなってしまうのですよね。
 そして、「自分の苦しみ、悩みは大した事ない。もっとしんどい人がいるんやから。……でも、大した事ないはずやのに、なんでこんなにしんどいんやろう。自分は弱い人間やなあ」と思い、自分を低めたまま悩みを抱えつつ生きている人がたくさんいます。
 あるいは、もっと我慢強い人ですと、明らかに理不尽としか言いようのない、自分には恐らく全く責任の無い災いを加えられたにも関わらず、それでも、何か自分に非があったのかも知れない。自分ではわからないけれども、神さまから見れば何か咎められる事があるに違いないとか、自責の念にかられてしまって、その事で、苦しみの本当の原因を追求することさえも遠慮し、断念してしまう人もたくさんいると思います。

パウロの苦労

 今日はパウロによる、コリント人への第二の手紙を読んでいますが、この第二コリントは、パウロが福音の宣教において、どんなに苦しい思いをしてきたかが、切々と訴えられている文面が特徴です。
 例えば、6章4節以降(口語訳p.283、新共同訳p.331)、
「すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、真理の言葉と神の力により、左右に持っている義の武器により、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている」(第二コリント6章4〜8節)
 人から暴力を受けることもあったし、あるいは直接的な暴力を受けてない時でも、眠れないことが多々あったのだということがわかります。肉体的に拘束されたり、暴力を受けると、精神まで傷だらけに痛めつけられますし、その逆もまたあります。精神的に追いつめられることで肉体の健康を崩します。
 また、11章23節以降(口語訳p.290、新共同訳p.338-339)には、もっと具体的にパウロ本人が受けた重荷について告白されています。
 
「苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある」(第二コリント11章23〜28節)
 ……と、ここまで、まあ愚痴とまでは言わないまでも、「苦しかった、しんどかった」という話を延々と述べるパウロの言葉をこうして読んでみると、別に私たちも、自分がしんどい事があった時には、それを「しんどかったわ。大変やったわ」と話してもいいのではないかなと思います。

我弱き時に強し

 ただ、パウロの本意は自分の苦しみをわかって同情してくれ、という事ではありません。もしそうだったら、逆効果ですよね? 「なんだ、キリストの福音とか『良い知らせ』とか言ってるけど、そんなに苦しい事ばっかりやったら、キリスト教なんかどこに魅力があるの、ということになってしまいますよね。
 パウロはこうやって自分の苦労話を延々続けた最後に、先程読みましたように、「日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある」と述べます。そしてそのすぐ後に、
「だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう」(11章29〜30節)と続けるのです。
 パウロは自分自身がこれまで思い切り苦しい思いをしてきたからこそ、弱っている人、つまずく人がいると、他人事ではいられなくなるのですね。
「わたしの心が燃えないでおれようか」(29節)「心が燃える」という言葉も、「共に苦しさを分かち合いたい」という思いで、居ても立ってもいられないという状態を言っています。
 自分はこれだけ酷い目に遭ってきた。だから、あなたたちの気持ちはわかるよ、と。もっと言えば、あなたたちの苦しみがわかるために、神は私に自分が弱いという事を思い知らせたんだろう、という人生の振り返りですね。こうやって、お互いの痛みや弱さに深く触れ合うことで、人と人は分ち難く結び合わされるわけです。
 12章7節以降には、パウロが抱えていた病気のことも語られています。その病気のことを彼は「自分の身に与えられた一つのとげ」だと表現しています。その「とげ」が具体的にどんな病気かははっきりしていませんが、その「とげ」を取り去ってくださいとパウロは神さまに願ったようです。その部分を読みますと……
 
「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせてくださるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全に現れる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、私は強いからである」(第二コリント12章7〜10節)

ここに神がおられる

 この強さはどこから来ているのでしょうか?
 ありきたりな答とお思いになるかも知れませんが、それがイエスから与えられる力、です。
 イエスという人自身が、苦難に合い、欠乏に苦しみ、行き詰まり、危機の場面にあって周囲の弟子たちが眠ってしまっているのに、独り眠れずに神に助けを求め、しかしたった独りで逮捕され、偽の裁判で冤罪をなすりつけられ、鞭打たれ、侮辱され、そしてその肉体に釘を打たれて磔にされ、槍で貫かれ、しかし、最後まで自分を殺す人びとのために祈り、隣で自分と一緒に殺されようとしている受刑者に愛の言葉をかけながら、死にました。
 イエスという人自身が、この世の人間が味わいうる最大の苦しみを自ら負ってくださった。それでも彼は人を愛する事をやめなかった。だから、私たちは自分がどんな苦しみに遭っている時でも、「イエスなら私の苦しみは確実にわかってくださるはずだ」と信じることができるし、イエスなら私と一緒に苦しんでくださるはずであり、一緒に死の苦しみにある時でも、自分に愛の言葉をかけてくださるはずだと信じることができます。
 そんなイエスのような事ができる人間はいません。そんな力は人間からは出てきません。だから、「ここに神がおられる」と最初のクリスチャンたちは確信しました。

土の器にある宝

 そして、どんなに絶望的な状況にあっても、イエスと共に生きる力が、実は私たち自身に既に与えられています。どん底に落ちた時になお、そのどん底の下から、光るものが上がってきます。これは象徴的な言い方ですが、光が下から上がってくるような感覚を覚えます。
 その時、「ああ、私は見捨てられていない。たとえ、全ての人間に疎まれ、見捨てられても、神は私のことを捨てないでいてくれるんだな」と感じる時が来ます。
 自分自身の力ではどうにもならない。全く自分には絶望せざるを得ない。その絶望の果て、底の底まで行ったところで、自分の力ではない力がふわっと下の方から湧いてきます。その力、その光は自分から出そうと思って出せるものではありません。しかし、絶望的行き詰まりの状況にあって、ふいに自分の心の奥底に現われるのです。
 それをパウロも体験したから、今日のテクストのような言葉が出てくるわけです。もう一度、本日のテクスト、第二コリント4章7節以降(口語訳p.281、新共同訳p.329)をお読みします。
 
「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである」(4章7〜11節)

為ん方尽くれども望みを失わず

 私は、この聖書の箇所を、文語訳の聖書で読むのが好きなんです。なので、ちょっとここを文語訳で朗読してみますね。
 
「われら四方より悩みを受くれども窮せず、
  為ん方尽くれども望みを失わず、
  責めらるれども棄てられず、
  倒さるれども滅びず、
  常にイエスの死を我らの身に負う。
  これイエスの命の我らの身に現われん為なり。
  それ我ら生ける者の常にイエスのために死に渡さるるは、イエスの命の我らの死ぬべき肉体に現われん為なり」(コリント人への後の書4章8〜11節)

 いかがでしょうか。私は特に2行目の
「為ん方尽くれども望みを失わず」という言葉の響きが好きです。

畑の中の宝

 さて、最後に、この私たちの内面に隠されていながら、苦しみのどん底になって現われてくるキリストの力を、パウロは「土の器に納めた宝」という言葉で表現しております。
 この御言葉に触れたとき私は、以前から意味がわからなくて困っていた別の聖句について、ヒントが与えられたような気がしました。
 その聖句というのはマタイによる福音書だけに記されておりますけれども、マタイの13章の44節(口語訳p.21-22)です。ちょっと読んでみます。
 
「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである」(マタイ13章44節)
 これ、おかしいと思いません? 畑に宝が隠されているのを発見したら、そのお宝をゲットすればいいんじゃないかと思うわけです。しかし、このたとえでは、その宝が隠されている畑を買うのですね。これの意味が全然わからなかったのです。けれども、この畑というのが、人間だと考えたら、少し腑に落ちる気がしました。
 畑、すなわち土から作られたものである人間の中に、神さまから与えられた神の国の種が隠されていると。しかし、それは畑の中、すなわち人間の中に無ければ何の意味も無い。人間の中にあって初めて価値のある宝なのであって、宝だけ人間から取り出しても意味が無い。ですから、宝を見つけた人は宝だけを買うんではなくて、畑ごと買うわけです。
 まあ、それが本当にマタイの言おうとしている事かどうか確証はないのですが、パウロが言うところの「土の器に納めた宝」も、マタイの言うところの「畑の中の宝」も、同じように土の中にある宝の事であり、そもそも聖書には「人間は土の塵から造られた」という考え方が聖書の最初から伝えられております。
 あるいは、福音書の中には他にも、人間の事を、種が蒔かれる地面に喩える記事があります。農夫が種を蒔きますが、良い地に落ちた種と、渇いた地面や、荊が覆うような地面など、いろんな畑があるわけです。これも、神からの宝を受け取る人間のあり方を譬えていると読む事ができるならば、やはり、畑は人間を喩えたものだという読みが可能ではないかと思われます。
 そして更に、本日お読みしましたパウロのコリントの信徒への第二の手紙にも、やはり相通じる表現が出てまいります。6章の16節において
「わたしたちは、生ける神の宮である」(第二コリント6章16節)と言われています。また、コリントの信徒への第一の手紙においても、3章16節に「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(第一コリント3章16節)とも言っています。
 神からの偉大な力は、神から私たち自身の中に隠されている。私たちはその力の容れ物なのだ、とパウロは言っています。

Never Give Up

 そういうわけですから私たちは、たとえ自分が心身ともに衰え、疲れ、病を負うたとしても、あるいは自然による災い、人間による災いが襲ってきても、絶対にあきらめない。絶対に希望を捨てない。ネヴァー・ギヴ・アップなのであります。
 どんなに絶望的な状況でも、神は私たちが苦境から立ち上がる力を、私たち自身の中に予め与えてくださっているはずなのです。
 「なぜそんな楽観的になれるのか。どこにそんな明るい見通しがあるのか」と人は問うかも知れません。しかし、明るい見通しなどありません。そんなものがあったら、神に頼る必要はないのです。
 明るい見通しなど一切見つからなくても、私たちは根拠も無く希望を抱くことができます。一方的に、強引に、希望を抱くのです。
 これは他人から見れば、非常に愚かしいというか、はっきり言ってバカに見えるかもしれません。しかし、バカと言いたい者にはバカと呼ばせておけばよいのです。私たちはバカだから楽観的になれるのではありませんが、そんな事は分かる気の無い人には分からないからです。
 私たちはバカだから、あるいは現実逃避をして、根拠も無く希望を抱くのではありません。そうではなく、人間の知恵と力では如何ともし難く絶望するしか無いと思われる状況にあって、自分がどん底だと思っている更に下から、人間からのものではない光が湧き昇ってくるという事を信じるからです。
 私には力など無いが、神には力がある。その力を信じてゆだねれば、きっと何とかなるはずだ、と信じるのです。
 故に、
「為ん方尽くれども望みを失わず」であります。絶対に希望を捨てずに、神に運命を委ねて、生きてまいりましょう。
 お祈りをいたします。

祈り

 私たち一人一人をお造りくださった神さま。
 今日もこうして生かされ、敬愛する兄弟姉妹とあなたのもとに集い、あなたに礼拝を捧げる事ができます恵みを、心から感謝いたします。
 私たちが、いかに苦しい経験をしようとも、常にあなたがそばにおられ、私たちに力を与えられる事を信じる勇気をお与えください。
 また、願わくば私たちが、自分以外の人にもその信じる勇気を分かち合い、広めることができますように、どうか力をお与えください。
 この祈りを、イエス・キリストの名によってお聴きください。
 アーメン。

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