自由と暴力

2011年6月21日(火) 
 同志社大学今出川校地 火曜チャペルアワー(クラーク・チャペル)奨励

説教時間:約16分 お聴きになりたい方は→audio

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聖書:マルコによる福音書11章15〜19節 (新共同訳・新約p.281)

 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
 そして、人々に教えて言われた。
 「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった。」
 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのように殺そうかと謀った。群集が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。
 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。

危険な男

 ナザレのイエスは、「危険な男」です。
 ここにいる皆さんがキリストと呼ばれるようになったイエスというユダヤ人男性に対して、どのようなイメージをお持ちなのか、人それぞれではあるでしょうけど、普段私が授業している学校の生徒さんたちは、私の授業に参加してみて、「イエスのイメージが変わった」と口々に言ってくれます。
 というのは、イエス・キリストと言えば、誰に対しても優しくて、いつでもニコニコと微笑みかけてくれている人、と思っている人が多いんですけど、ちゃんと聖書を読んでゆくと実はそうじゃないんですよね。
 たとえば今日お読みした聖書の箇所では、イエスがユダヤ教の神殿で暴れたと……。イエスが商売人たちの机や台などをひっくり返して回り、商人たちを神殿から叩き出しています。
 イエスが暴れる、という場面があることに驚く人は多いようです。もちろん彼の生涯の中でほんの一回だけであるように書かれてはいますが、それでも福音書の記者はその事を隠してはいません。隠してはいないということは、そういう事件が実際にあったという事が人びとの記憶の中にちゃんと残っているので無視するわけにはいかなかったということですから、やはりイエスとその仲間たちによる暴動は本当にあったのだろうと考えることができます。
 イエスがなぜ暴動を起こしたのか、その理由についてはいろいろな説があって、「これだ」という断定はできないようです。
 ただ確実な事は、この暴動によってイエスは当局に、彼を逮捕する理由を与えてしまったということです。彼は単なる新しい教えの説教者であるだけでなく、暴力をふるう危険人物なのだと見なされる証拠として、この事件は使われてしまったのですね。

言論は自由か

 どのような主張であれ、何かを主張する時には、決して暴力的な手段をとってはいけない、というのは今や私たちの常識になっています。何か意見があるなら言論によって述べなさい、そう言われます。何かを主張するために暴力を使ってしまったら、その主張の善し悪しとは関係なく、暴力をふるったことだけが責められて犯罪者扱いされ、主張は誰にも届きません。暴力ではなく言論。それが正しい方法。それが常識です。
 しかし、これは一見正しい理屈のように見えて、実は全く公平でも自由でもないのですね。言論によって主張せよと言っても、1人の人が自分の意見を広く世間に聞いてもらうというのは、大変難しい事です。
 お金がたくさんあって、テレビやラジオなどを使ったり、印刷媒体を使ったりということが出来る人や企業や政府の方が、自分たちの主張を広く世の中に浸透させる事については圧倒的に有利です。
 しかも、ただ世論に受け止めてもらうのに有利なだけではなく、そのようなメディアを掴んでいる人たちは、情報を意図的に隠蔽したり、偽の情報を流したりして、世論を操作する事も可能です。
 加えて、そのように圧倒的多数の世論を味方につけることで、異なる主張をする個人や小さなグループのほうが誤った特異な考えの持ち主だというネガティヴ・キャンペーンを張ることもできます。
 ですから、「言論の自由」とはお題目だけで、実際にはものすごい不公平と格差がこの世の中には現実にあるのです。暴力を肯定してはいけませんが、暴力でしか自分たちの存在と主張を表現せざるを得ないほどにまで権利を奪われ、仲間を殺され、追いつめられた人間が現実にいるということを私たちは考えなければいけないのではないかと思います。

非暴力による抵抗

 ここで二人の牧師のお話をしようと思います。どちらも人間の命と自由のために闘った牧師です。一人はアメリカのマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)、もう一人はドイツのディートリッヒ・ボンヘッファーです。
 ご存知の方も多いと思いますが、キング牧師は「非暴力的抵抗」を貫いて、たとえ人種差別主義者からいかなる暴力を受けようとも、自分たちは絶対暴力は使わない、ただし文書、演説、デモ行進、座り込み、ボイコットなど、あらゆる手段を使って抵抗を続け、黒人の公民権を得るために闘いました。
 非暴力というと穏やかな運動を思い浮かべる人もおられるかも知れません。しかし、キング牧師の非暴力というのは、例えばデモ行進一つしても、両側から石が投げつけられるわ、ガラス瓶が投げつけられるわ、ひどい場合には小型の爆弾が飛んで来るわ、放水銃でなぎ倒されるわ、警察犬を差し向けられて襲われるわ。その中をひるまずに主張を叫びながらどんどん歩いて行かなくてはならないのですから、 それは生きるか死ぬかの危険な闘いだったわけです。殴られようが、蹴られようが、撃たれようが、爆破されようが、絶対に報復しない、しかし要求は曲げないし、運動も止めないという壮絶な闘いです。
 暴力を使わないといっても、相手は暴力をふるってくるのですから殺される危険もありますし、結果的にキング牧師はアトランタで銃弾に倒れました。しかし、「敵を愛しなさい」という聖書の言葉を実際に生き、非暴力の抵抗を続けたことで、殺される直前にノーベル平和賞を受賞していますし、今でも多くの人に影響を与え続けています。

暴力を使おうとした牧師

 これに対して、同じキリスト教の牧師でも、その行動の評価が分かれる人物がいます。ディートリッヒ・ボンヘッファーです。
 トム・クルーズが主役を演じた『ワルキューレ』という映画がありましたが知っていますか? これはドイツ軍のシュタウフェンベルクという人がヒトラー暗殺計画を遂行してゆく姿を描いていますが、最終的にはそれが失敗に終わるのですが、この「ワルキューレ作戦」という暗殺計画に加わっていた牧師がボンヘッファーです。
 聖書には
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5章44節)と書いてあります。また「殺してはならない」(出エジプト記20章13節)という戒めもあります。ですからキリスト者は、まして牧師は人を殺してはならない。たとえその敵がヒトラーであったとしても、それは破るべきではなかった、と言う人がいます。でも逆にボンヘッファーがやった事を評価する人もいます。
 ボンヘッファーにしても、簡単な決意で暗殺計画に加わってはいませんでした。「殺すな」「敵を愛せ」そんな事は十分わかっています。しかし、ヒトラーが各地で戦争を繰り広げ、ユダヤ人をこの世から絶滅させるために大量虐殺を進めている。それを目の当たりにして彼は、「目の前で多くの人を轢き殺してゆく車の暴走を止めずに、人びとが殺されるのを傍観しているのが、本当に隣人を愛することになるのか」と悩み抜いた結果、彼はヒトラー暗殺計画に参加します。
 最終的には、彼も逮捕されて収容所に入れられ、ドイツが敗戦してヒトラーが自殺する直前に絞首刑で殺されてしまいました。本当にもうあと半年でも彼が生き延びてくれていたら、貴重な証言が得られたでしょうけど、それももう叶いません。

血を流す覚悟

 イエスとキングとボンヘッファー。
 3人の抵抗者をあげましたが、3人とも最終的には処刑なり暗殺なりされて殺されています。それを思うと、言論の自由とか社会への批判というものは血を流す覚悟がないと貫く事はできないのかと思わされます。
 私自身はかなり強く自由を求めるタイプの人間なのですが、それでも自分の命を落とす覚悟で自分たちの権利や自由のために闘えるかというと、今はまだその勇気はありません。
 ただ人間は、いつかはかならず死ぬものですから、どうせ死ぬのなら皆の自由のために役立つような死に方をしたいと思います。子どもも大きくなって、仕事も後の人に全部渡して、年寄りになって身軽になったら、少しは勇気が出るだろうか、なんてことも考えたりします。
 この世の中で何か意見を主張するということは、たとえ殺されなくても、ある程度の反論、誹謗中傷、攻撃にさらされる事は避けられません。
 ですから私たちは、何がしか意見を主張する時に、多少攻撃されてもへこたれないような精神力を身につけないといけないでしょう。
 私は皆さんに、「自由のために闘って死ね」とかそんな事は言えません。けれども、世の中はお金と政治とメディアを握っている人たちによって支配され、もうかなり人間の自由は踏みつぶされてしまっています。私たち自身の多くもそれを無意識のうちに感じ取って、周りの人に合わせて目立たないように生きる癖が身に付いてしまっていると思います。
 でも、それを放置しておくと、持っている者はますます太り、持っていない人は痩せ、不公平と格差が固定化され、あたかも生きる資格のある人間と死んでもいい人間が振り分けられ、一人一人のたった一度の命が、力を持つ者の捨て駒として消費される社会が大手を振ってやってきます。私たち一般市民がそれに対して“No!”を突きつけないと絶対にそうなります。

一粒の麦死なずば

 私は皆さんに「血を流せ」とは言いません、でも自由を本気で求めたら、物理的であれ言葉の上であれ暴力を受けることは必至です。あるいは無言のうちに加えられる心理的な暴力もあります。それは覚悟して欲しいと思います。
 みんなの命と自由を守るために、自分の自由を、あるいはひょっとしたら命をも犠牲にせねばならなくなる事があるかも知れません。しかし、程度の差はあっても、そういうものだと覚悟しておいた方が良いと思います。聖書に収められているイエスのたとえ話で、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ一粒のままである。しかし死ねば多くの実を結ぶ」と言っているのは、そういう事です。
 それを覚悟した上で、それでもこの世で自由を求めて生きるのか、それとも自由を犠牲に差し出して流れに任せ、周りに合わせて平穏無事に生きるのか、それを選択するのも、全くみなさんの自由だと思います。
 自分にとって、「この世で自由に生きる」とは何なのか。少しでも考えてくれたらうれしいなと思います。
 それでは、お祈りをしましょう。目を閉じてください。

祈り

 神さま。あなたの尊い恵み、赦し、導きに心から感謝いたします。
 「真理は自由を得させる」とあなたは福音書記者に書かせました。
 しかしこの世は、自由を踏みにじり真理を脅かす力に翻弄されています。
 このような世にあって私たちが、あなたに与えられた尊い命をお互いに大切にし、守り合い、支え合い、あなたが産んでくださった本性のままに自由に生きる人生を過ごすことができますように、他者への配慮と赦しと愛を持てるように、どうか導いてください。
 この感謝と願い、イエス・キリストの名によってお聴きください。
 アーメン。

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