真理の囚人

2011年6月26日(火) 
 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝説教

説教時間:約24分 お聴きになりたい方は→audio

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聖書:ヨハネによる福音書8章31〜32節 (新共同訳・新約p.182)

 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。
 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたがたは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

3冊の書物

 私は普段は同志社香里中学校・高等学校で聖書の授業をしているのですけれども、特に中学1年生では聖書そのものではなく、同志社の創立者である新島襄という人の生涯と同志社の創立までの歴史を教えています。新島襄の生涯と同志社を創立するまでの顛末というのは、同志社における創世記の天地創造物語みたいなもので、まずこれによって同志社スピリットを新入生に叩き込むのが私の役割です。
 新島襄という人は若いときの名前を新島七五三太(しめた)と言いまして、幕末の江戸に生まれて、学問好きな藩主から蘭学を勉強する優秀な学生の一人に選ばれたのですが、その藩主が急死して家督を継いだのがその弟でして、この弟というのが大変酒好き、色好みでして、七五三太にとってはとてもそんな大名の命令に従いたくないと思うような、全く尊敬に値しない藩主でした。
 加えて幕末の日本では攘夷と開国の間で政治が揺れ動き、徳川将軍家もとても頼りにできないと感じられました。
 そんな中で「何か自分に出来る事は無いのか」と探し求めている最中に、彼はある蘭学者から3冊の書物を紹介されます。
 1つは『漂荒記事』という題名で、これは実はイギリスの『ロビンソン・クルーソー物語』なんですが、これを漢語に訳したものが清の国から入ってきたわけです。新島はこれを読んで、キリスト教の神さまに初めて出会います。というのもこの小説の主人公ロビンソンが窮地に陥った時に神に祈ろうとするのですね。それで新島はキリスト教の神が、いつでもどこでも祈りによって呼びかける事ができる、いつでもどこでも側にいる神さまだということを知ります。
 2つ目の本は『聯邦志略』。アメリカの歴史や地理を分かりやすく解説した入門書です。これも漢文に訳したものです。この本を読んで新島は「脳みそが頭からとろけ出るほど」驚いたと言い残しています。何にそんなに驚いたのかというと、大統領選挙のやり方ですね。人民一人一人が投票で自分の意思表示ができることにビックリしたそうです。当時、武家社会の世襲制が不本意でたまらなかった彼は、こんな事をやっているアメリカは凄い国だということで、アメリカに行きたいという思いをつのらせます。
 そして3つ目の本が、漢文に訳された聖書です。もっともその時は旧新約全書ではなく、主だった所を抜粋した本でした。漢訳とは言え、それは当時の日本ではあってはならない宗教の本ですから、それを読むのは相当スリルがあったでしょうね。
 七五三太は聖書を読んで、「創造主」としての神、「天の父」としての神に出会います。そして、この地球上の全てがこんなにうまくできあがっているのは、確かに作り手の意図があるからだと感じることができましたし、それが天の父だというなら、自分は人間の父よりも、藩主よりも、将軍よりも、この全ての上に立つ天の父に従って生きてみたいと思うようになりました。
 ですから、新島七五三太にとって、神を信じ、神に従うということは、世襲制、封建制といった儒教的な上下関係、また鎖国でがんじがらめになっていた日本から脱出して自由を手に入れるということと直接結びついていたのですね。

国家からの自由

 その新島七五三太が国禁を犯して日本を脱走し、アメリカに向かう船の船長から「ジョー」というニックネームをもらって新島ジョーになり、アメリカで高校、大学、神学校で学んでいる最中に、日本では明治維新が起こって大日本帝国が興され、その政府代表として岩倉具視に率いられた使節団がアメリカにやってきて、新島を通訳や欧米の文明を調査する補助に雇ったことがありました。
 この時、この岩倉使節団の中で教育政策の調査を担当していたのが、田中不二麿という文部官僚でした。田中は新島をかなり頼りにしていたようで、本来はこの田中が書くはずの教育調査の報告書の草稿を書いたのは、実は新島であったと言われています。
 新島を大変気に入った田中は、一緒に日本に帰って文部省で働かないかと誘います。しかし、新島の心には「キリスト教主義による学校を建てたい」という決意が既に芽生えていたので、これを断りました。
また、牧師になる為の勉強をしていた神学校を1年間休学して岩倉使節団に協力していたので、もう一度神学校に戻ってきちんと卒業するまで神学を修めたかったのですね。ですから、彼は田中の誘いを断りました。

耶蘇の奴隷

 やがて新島は神学校を卒業し、宣教師として日本に派遣される形で帰国します。そして、両親の住む群馬県の安中でおよそ1ヶ月過ごした後に、東京に戻って文部省の田中不二麿を訪ね、帰国を報告しました。
 田中は新島との再会を大層喜んで、彼を自宅に招きました。そして、再び新島に「一緒に文部省で働いてくれないか」と誘います。
 しかし新島はこれを丁重に断ります。田中は新島の教育への情熱を買っていて、それを新しい日本の教育制度を作るために活かせばよいではないかと懸命に説得するのですが、新島は「キリスト教主義の 学校を作りたいのです(すなわち私学でなければなりません)」と言って、どうしても首を縦に振りません。
 ついに折れてしまった田中不二麿は、最後に新島に呆れたように言い放ちます。
 「もう勝手にしろ。君は耶蘇の奴隷じゃ!」
 しかしその言葉は、新島にとっては最高の褒め言葉だったのですね。
 「ありがとうございます。私は耶蘇の奴隷になりたいのです」
 耶蘇の奴隷、イエスの奴隷になることこそ、真に自由に生きることであるという信仰を、彼は身につけていました。
 その翌年にはもう彼は同志社英学校という最初の私塾を開業します。学生の数は当初6名からという小さな塾です。と同時に彼は兵庫、大阪、京都地区での伝道活動も活発に行っています。平日は学校、土曜日は休日(といっても日曜日のための準備の仕事はしていたでしょうが)、そして日曜日は伝道という毎日です。
 彼はある礼拝説教でも、「真理の囚人」という言葉を使って、「耶蘇の奴隷」という事と同じ意味のことを語っています。
 「真理の囚人こそ、真の自由人なり」と。

自由の過ち

 なぜ「イエスの奴隷」「真理の囚人」こそが真の自由人なのか……。
 世の中一般の人びとは、自由とは自分の意志の通りに行動したり、自分の主張を思い通りに表現したり実現したりすることだと思っているでしょう。それが間違っているとは言えません。それも確かに自由です。そしてその自由はとても尊いものだと思います。
 そして、世界中で歴史の要所要所で、人間は自由を手に入れるためにたくさんの血を流して来ています。自ら血を流してでも手に入れる価値があるもの、それが自由であると言い切る方もおられます。
 しかし、その自由は時に過ちを犯すこともあります。いったん自由が手に入ると、自分の思い通りの言動ができるために、品性の無い言葉や振る舞いを行ったり、自分以外の人間を傷つけ、尊厳を踏みにじり、権利を奪うような言動をする人も出てきます。
 無制限の自由、本当に何をしてもよい自由というのは、実は多くの人の自由を奪うのですね。何をやってもよいと言っても、個々人や集団の力量はそれぞれ違うので、結局弱肉強食の世界になって、力を持つ者の支配によって、力のない者の自由や権利が奪われる社会になります。
 そのような社会では、力を持つ者や偶然恵まれた境遇に生まれた者が「この社会は自由だ。素晴らしい」と言っている一方で、自由を奪われた人たちが、自分の権利を主張する場所もチャンスも奪われています。
 そんな状態で本当に「人間は自由だ」と言えるでしょうか?

欲望の奴隷

 仮にも天の主なる神さまを奉じる者として、また神さまがこの世の全てを見通しご存知であると信じる者にとって、弱い誰かの犠牲の上に、強い者が自由を謳歌するということが、神さまに喜ばれるだろうか、と疑問を持つ方が自然なような気がします。
 時には駆け引きで、また時には暴力によって自分の勢力範囲を広げようとする時、その根底にあるのは、自分の欲望であることがほとんどなのではないでしょうか。
 「もっと自由をくれ。自由をくれ」と言っている人の多くは、「もっと自分の欲望を満たしたい」という欲求に支配されているのではないでしょうか。そして、ある欲求が満たされると、次にはもっと大きな欲望を抱き、それを満たすために再び闘いを始めます。
 そういう生き方で比較的恵まれた地位を獲得した人の中には、「欲望が人間を進歩させる。欲望こそが人間の生きる力だ」とはっきり言い切る人がいます。「欲望が努力を生み、努力が成功を生み出す。故に欲望こそが生きる原動力である」というわけですね。
 それは勝負に勝ちたい欲望、何かを手に入れたい欲望、人を思い通りに支配したい欲望に支配されているだけなのではないか。また、その欲望を達成できなければ、自分は否定されるのだと思い込む、実に不自由なしんどい生き方なのではなのではないか。
 ですから私は、世の中の多くの人が言っている自由というのは、実は単に自分の欲望の奴隷になっているに過ぎないのではないでしょうか。

真理の囚人

 権力の不当な支配、暴力や虐待からも守られ、加えて自らの欲望からも解放されていて、しかも人間ならば誰でも享受できるような自由は無いものでしょうか? 「真の自由人」とはそういう人のことを言うのではないでしょうか?
 その問いに対して、聖書は
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ福音書8章32節)と答えてくれています。
 そして、先ほどから引き合いに出している新島襄もその聖書の言葉を踏まえて、「真理の囚人こそ、真の自由人なり」と言っているのですね。
 この聖句における「自由にする」という言葉は、「解放する」と読んでもいい言葉です。私たちを奴隷にするあらゆる縛りから解き放ってくれるという事です。
 「イエスの奴隷」「真理の囚人」、それがなぜ真の自由人なのか。それはイエスが示してくれた真理は、
「神は愛である」(ヨハネの手紙(一)4章7節)ということ、また「人のために自分の命を捨てること以上に大きな愛はない」(ヨハネ福音書15章13節)ということ、あるいは「一粒の麦が地に落ちて死ななければ一粒のままであるが、死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ福音書12章24節)ということ……つまり、自分と愛するように人を愛し、あるいは自分を犠牲にして人を愛することで、人は本当に自由になるということ、それがイエスの真理であるからです。

「自分を愛するように」から「自分の命をささげて」へ

 普通の人間は、生き続けるためには様々な欲望を満たさないといけません。食欲を初めとする人間の三大欲求、また寒さ・暑さを防ぎ、清潔で健康でありたい、また安全に安心して暮らしてゆきたいと思います。格別欲の深い人間でなく、慎ましく暮らそうと思っていても、それくらいの欲求は満たしたいものです。
 そんな人間に対して、イエスは「自分を愛するように、人をも愛しなさい」と言っておられます。自分を愛することを否定していません。自分に必要なことは、自分以外の人とも分け合いなさいよということです。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ福音書7章12節)という言葉も同じ趣旨です。
 ところが、キリスト教というのは、「自分を愛するように人を愛しなさいよ」という言葉がその中心的な教えで、「隣人愛の宗教」と呼ばれたりもするのですが、実はイエスの言葉というのはそこを更に突き抜けています。
 例えば
「隣人を愛せと言われているが、あなたがたは敵を愛しない」(マタイ福音書5章43〜44節)とか、「人のために自分の命を捨てることが最大の愛である」(ヨハネ福音書15章13節)という風に、ちょっと無茶な事を言っているのですね。
 当初の「自分を愛するように人を愛せ」と言っている段階からもう何歩か進んで、最終的には自分が敵に殴られても殺されても愛する、ということにイエスの関心は進んでゆきます。
 でも、正直に言って私たちは、このイエスの言葉をその通りに真似ることは不可能に近いでしょう。歴史上一人もできなかったというわけではありませんが、ほとんどの人間には無理です。

与えることで豊かに与えられる

 しかし、そのかわりに私たちは、自分の人生のある程度の時間と労力を、自分以外の人の為に捧げるということはできます。自分にとって大して得にもならない事でも、人のためにちょっと頑張ってみる。そうすることによって私たちは自分の欲望への執着から解放され始めます。
 時には、「ワシは何でこんな事してるんやろ、アホちゃうか」と思えてしまうことでも、長い目で見るといい経験をさせていただいているのですね。それがわかってくると、何か嬉しい気持ちが湧いてきて、かえって自分が得をしたように感じることもあります。
「受けるよりは与えるほうが幸いである」(使徒言行録20章35節)と書いてある通りです。
 また、損得勘定だけで動いているようなこの世の中で、受けるよりも与える方が大きいようにしようと試みる生き方は、とても個性的なものになります。人のために善かれと思ってやる事こそが、一番自分らしさを発揮する事になるのですね、不思議なことに。
 ですから、自分らしく生きようと思えば、「私だったら人のために何が出来るだろうか」と考えるのが早道です。

愛するために解放され、解放されるために愛する

 というわけで「イエスの奴隷」になる、または「真理の囚人」となることとは、人に仕えることによって、自分の欲望や執着から解放されるということです。
 最初は「自分を愛するように人を愛すること」を目指し、やがては「自分を捨ててでも人を愛する事」に向かって成長する。成長するに従ってだんだんと欲望から解放されてゆくことです。
 「イエスの奴隷になる」というのは、イエスという人を一生懸命崇拝してひれ伏すとかそういうことではなく、教会単位でも個人単位でもいいから、世に出て行って、世の人を愛しなさいということです。
 イエスご自身が自分を完全に捨てて命を捧げられたのですから、そのようなイエスに従うという事は、イエスと同じように自分を捨てなさいということになります。
 しかも、自分を捨てて人に尽くそうとすることで、一番自分らしい個性のあふれた生き方、命の使い方をする事ができるわけです。これが解放された「真の自由人」ではないでしょうか。
 私たちが完璧にそれができなければいけないと裁かれる事は無く、私たちの弱さは知られ、赦されているのですけれど、成長の可能性も開かれている。それを信じて、日々精進の道を進めればよいのではないかと思うのです。
 説き明かしは以上です。では、みなさんから、ご自由にご意見、ご感想、ご質問など発言なさってください。

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