根拠などありません

2011年7月17日(日) 日本キリスト教団枚方くずは教会主日礼拝説教

説教時間:約25分間 音声版はありません。

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聖書:コリントの信徒への手紙(一)13章1〜13節 (新共同訳・新約p.317)

 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人に使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから、完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきりと知られているようにはっきり知ることになる。
 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。


「どうして私が好きなの?」

 恋人どうしの会話です。
 「ねえ、なんで私の事が好きなん?」とか、あるいは「俺のどこが気に入ったんや?」とか、そんな言葉を交わした事はありませんか?
 私にとっても、そろそろ遠い記憶のかなたの話になりつつありますが、「なんで俺のことが好きになったんや?」と訊いてみたりしていた時期もありました。
 こういう質問をされて、たとえば「目がきれいやから好きやで」とか「性格が優しい所が好きなんよ」とか具体的に言ったりすると、「ほんなら他の所は嫌いなん?」という風に問い返されてしまう場合があります。
 「そんな事ないよ。目も好きやけど、鼻も口も好きやで」と言ってあげたりするんですが、すると今度は「何なん? 結局顔だけなん。そうやんなあ、あたし太ってるし、二の腕も太いし……」みたいな。切りがないんですよね。
 それで、最終的には「君のすべてが好きなんや」なんて言ってしまいますと、「ふん」と鼻で笑われたりなんかして。そんな経験はありませんか?
 私はそうやってバカ正直にいちいち具体的な事を言って失敗するのですが、その点女性の方は上手い事を言う人が多いですね。
 「俺のどこが好きになったん?」と訊くと、「さあ」とか言ってはぐらかしますね。すると男性としては余計に気になるわけで、問いただしていくと、「何がとか、何でとか、そういう風には言えない」と。
 全ての女性がそうだとは決して言えませんが、私が今までつきあった事のある人は、だいたいそんな感じ。私の妻もそんな感じです。もっとも夫婦間では、永く連れ添っている内に、もういろいろお互い失望する事も多く、あきらめたことも多く、そんな浮いた会話をすることは最早ありません。

根拠の無い愛

 本日お読みした聖書の箇所、コリントの信徒への手紙(一)13章には、私たちにとって大切な愛についてのパウロの教えが凝縮されています。結婚式でこの箇所を採り上げる人も多くいます。
 愛、それがキリストの道において、また特定の神を信じることの無い人たちにとって、最も大切であることは間違いないと私は思っていますが、「なぜ愛が大切なの?」、あるいは「なぜ(この人を)愛するの?」と問いただしても、はっきりした具体的でわかりやすい理由を説明するのは難しい気がします。
 結論的に申し上げるならば、人を愛さなければならない根拠などありませんし、人を愛する理由など説明できません。「どこが美しい」とか「どこが素晴らしい」とか、具体的な理由を説明しても、どうしても不十分になるのです。
 そうではなく、「あなたがそこにいるから、あなたを愛する」、「あなたは愛されるべき人なのだから、愛されているのだ」としか言いようのないものではないかと思います。

愛は廃れない

 この第一コリント13章全体で、愛というものがいかに尊いかを繰り返し語っている中で、10〜12節だけが、いわゆる「終わりの時」について話していますね。
 
「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(1コリント13章10〜12節)
 
「完全なものが来たとき」と10節にありますが、終わりの時というのは、全てが滅亡する時というよりは、完成する時という意味が強いですね。Endというよりは、GoalあるいはFinishというニュアンスです。
 8節と関係づけて考えると、預言も異言も知識も部分的なものに過ぎず、それは「幼子」のように話したり、思ったり、考えたりする事に似ているんだと。それは鏡に映ったおぼろげなもので、それは一部でしかかない。しかし、この世が完成する時、私たちは決して滅びない本当の愛に出会う。あるいは愛そのものである神と対面するようになるだろう、という希望を語っているのであります。
 ちょっと考えてみると、預言も異言も知識も、言葉に関することですよね。だから、解釈が必要な言葉なのか、そのまま理解できる言葉なのかは違いますが、とにかく言葉です。しかし、言葉に関する事は一部分であって、やがては廃れるものである。しかし、愛は決して滅びないということであります。

信じる、希望を抱く、愛する

 これに対して、決していつまでも廃れないものも、ちゃんと3つ最後にまとめられています。
 それは信仰と希望と愛です。
「この三つは、いつまでも残る」(13節)と記してあります。
 この3つには、言葉による根拠の説明が要りません。
 信じるのは、何か根拠があるからでしょうか。根拠のあるものを「信じる」というのは言葉上おかしくて、根拠があるのであれば、それは「信じる」ではなく「知っている」ということなのでしょう。けれども、「信じる」というのは、はっきり根拠なんか無くてもいいから、望みをかけるということです。
 
ヘブライ人への手紙11章1節にも、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という言葉が収められています。そうなると、信仰と望んでいる事柄、すなわち希望というのは、かなり意味が重なっていることがわかりますね
 信仰とは希望を確信することで、見えない事実:つまり根拠の無い未来:すなわちこの世の完成を、先取りして確かめるということです。

バカみたい

 信じること、希望を抱くこと、それらには根拠などありません。
 根拠なんか無くてもいいんですね。ただ信じる。ただ希望を抱く。それが私たちを明るくし、強くします。
 根拠無く信じたり、希望を持ったりすることを恐れる人がいます。それは期待していた予想が外れたり、信じていた人に裏切られたりしてガッカリさせられるかも知れないと思うからですね。もしそんな事になったらバカみたいだと考えるからでしょう。
 でも、バカみたいでいいんじゃないか、と私は思います。
 信じること、希望を抱くことは一種の賭けですから、賭けに負けても「そういうこともあるだろう」という気持ちを持っておけばいいのではないでしょうか。信じる、望むというのは「期待する」という事とは違います。裏切られても構わないくらいの気持ちで、楽観的になってみるのはいかがでしょうか。
 「きっといつかはうまくいく」、「決して自分は見放されていない」、「きっといつか感謝する時がくる」、「今日が私の人生の最後の日だから(当たり前のことですけど)、きっといい日にしてみせよう」……そんな風にポジティヴ・シンキングの姿勢で毎日を生きていると、実際に運も巡ってくるような気がします。
 なんでそんな風に思えるのか、しつこいようですが理由はありません。体験的にそういうものだと思えます。
 「武士は食わねど高楊枝」ではないですけど、別に特に面白いことがなくても、わけもなく笑っている方が、病気にもかかりにくいし、人との関係もうまくいきますし、いい事が起こりやすくなります。「笑う門には福来たる」とも言われますけど、それは本当の事なんですね。

問答無用の愛

 そして、愛にも理由は必要ありません。
 神さまが私たちを愛しているという、その愛も問答無用です。
 あなたが美しい容姿に恵まれているから、あなたが優れた能力を持っているから、あなたが道徳的に優れた人だから、などの理由はどうでもよいのです。
 
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ福音書5章45節)という言葉がマタイ福音書にあります。また、「放蕩息子のたとえ」(ルカ福音書15章11〜32節)では、親を裏切って財産を踏み倒して、すってんてんになった息子が、真面目に働いた息子と同じ、あるいはそれ以上の歓待を受けます。
 これは真面目な人、地道に努力を重ねて成功を目指す人にとっては面白くない話です。真面目にやっても、不真面目に生きても、神さまは同じように愛してくださるというのであれば、真面目にやっている方がバカを見る、という発想です。
 でも仕方がないんです。神が人間を愛する時、どんな悪人も、不真面目な人も、だらしない人も、問答無用に愛してくださっているのです。「無償の愛」とはそういうものです。

根拠などありません

 ですから私たちも、根拠もなく人を愛するものでありたい。
 「私はあなたを信じているよ!」
 「私はあなたに希望を抱いているよ!」
 「私はあなたを愛しているよ!」
 問答無用にそう断言することが人を勇気づけたり、生きる力を与えることにつながります。もちろん自信のない人にプレッシャーを与えることもあるでしょうが、そういう効果も含めて、相手の人間の中に隠れているはずの、神さまから与えられた力を引き出すきっかけを与えます。
 殊に、
「最も大いなるもの」(1コリント13章13節)と言われた愛については、「あなたは神さまに愛されているんだぞ」、「私もあなたを愛しているよ」、「あなたは大事な人なんだぞ」というメッセージを送ることは、相手の人に「自分は生きている価値のある人間なんだ」と気づいてもらうための大切な奉仕です。
 もちろん、例えば深く傷ついている人や病を抱えた人には、1回や2回愛を伝えたくらいでは、すぐにはよくなりません。また、最初から自分に対して敵意や反感を持っている場合は、なお難しいでしょう。
 しかし、急がず、焦らず、気長に、しつこく、粘り強く、言葉によっても、言葉によらなくても、愛を伝えることは、確実に人を癒し、成長させてゆきます。
 その目に見える変化は、ゆっくり現れる場合もあれば、何年も変化が起こらないと思っていたら、突然大化けしたような変化を起こす事もあります。しかし、いずれにしても、人の心の見えない所、本人も意識できない深みで、ゆっくりと変化は進行しています。そのエネルギーの注入は、徒労のように見えて、徒労でなく、ちゃんと積み重なっています。
 それを「信じて」、「希望を抱きつつ」、「愛する」こと。それが私たち人間の一番の務めではないかと思います。
 その行いと祈りとによって、少しでも私たちの生きているこの世界を、神にも人にも喜ばしい、愛の支配による完成へと近づけることができるように、努めたいと思うのですが、いかがでしょうか。
 祈ります。

祈り

 私たち一人一人を愛してくださる神さま。
 今日のこの礼拝の時を感謝いたします。
 私たちもあなたに愛をお返しし、人を愛する者となれますように。
 イエス・キリストの名によって祈ります。
 アーメン。

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