耶蘇の奴隷

2011年7月31日(日) 
 日本キリスト教団 香里ヶ丘教会 主日礼拝説教

説教時間:約31分 お聴きになりたい方は→audio

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聖書:ヨハネによる福音書8章31〜32節 (新共同訳・新約p.182)

 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。
 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたがたは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

神に従う=自由になる

 私は自分の職場の学校で、中学1年生に同志社の創立者である新島襄の生涯と同志社の創立の歴史を教えています。新島襄の生涯と同志社を創立するまでの顛末というのは、同志社における創世記の天地創造物語みたいなもので、まずこれによって同志社スピリットを新入生に叩き込むのが私の学校での役割です。
 ご存知の方もおられると思いますが、新島襄という人は幕末のまだ鎖国が解かれていなかった頃に、日本を脱出してアメリカに密航した人です。なぜそんな事をしたのかというと、日本の鎖国政策、封建制、世襲制などあらゆる縛りが嫌でたまらなくて、自由の国アメリカに行って学びたいと思ったからです。したがって、この人の一番の関心事は「自由」でありました。
 日本を脱走し、アメリカに向かう船の船長から「ジョー」というニックネームをもらって新島ジョーになり、アメリカで高校、大学、神学校で学んでいる間に、日本では明治維新が起こって大日本帝国が興され、その政府代表として岩倉具視に率いられた使節団がアメリカにやってきて、新島を通訳や欧米文明を調査する補助に雇ったことがありました。
 この時、この岩倉使節団の中で教育政策の調査を担当していたのが、田中不二麿という文部官僚でした。田中は新島をかなり頼りにしていたようで、本来はこの田中が書くはずの教育調査の報告書の草稿を書いたのは、実は新島であったと言われています。
 新島を大変気に入った田中は、一緒に日本に帰って文部省で働かないかと誘います。しかし、新島の心には「キリスト教主義による学校を建てたい」という決意が既に芽生えていたので、これを断りました。
 また、牧師になる為の勉強をしていた神学校を1年間休学して岩倉使節団に協力していたので、もう一度神学校に戻ってきちんと神学を修了したかったのですね。ですから、彼は田中の誘いを断りました。

耶蘇の奴隷

 やがて新島は、宣教師の助手として日本に派遣される形で帰国します。そして両親の住む群馬県の安中でおよそ1ヶ月過ごした後に、東京に戻って文部省の田中不二麿を訪ね、帰国を報告します。
 田中は新島との再会を大変喜んで、彼を自宅に招きました。そして、再び新島に「一緒に文部省で働いてくれないか」と誘います。
 しかし新島はこれを丁重に断ります。田中は新島の教育への情熱を買っていて、それを新しい日本の教育制度を作るために活かせばよいではないかと懸命に説得するのですが、新島は、キリスト教主義の学校を作りたい(すなわち私の学校は私学でなければならない)と言って、どうしても首を縦に振りません。
 ついに折れてしまった田中不二麿は、最後に新島に呆れたように言い放ちます。
 「もう勝手にしろ。君は耶蘇の奴隷(イエスの奴隷)じゃ!」
 しかしその言葉は、新島にとっては最高の褒め言葉だったのですね。
 「ありがとうございます。私は耶蘇の奴隷になりたいのです」
 その翌年にはもう彼は同志社英学校という最初の私塾を開業します。学生の数は当初6名という小さな塾です。と同時に彼は兵庫、大阪、京都地区での伝道活動も活発に行なっています。平日は学校、土曜日は休日、そして日曜日は伝道という毎日ですが、土曜が休みと言っても日曜のための準備の仕事はしていたでしょうから、実質休み無しですね。
 そして彼は、ある礼拝における説教でも、「真理の囚人」という言葉を使って、「耶蘇の奴隷」と同じ意味のことを語っています。
 「真理の囚人こそ、真の自由人なり」。

自由の過ち

 なぜ「イエスの奴隷」「真理の囚人」こそが真の自由人なのか……。
 世の中一般の人びとは、「自由」とは自分の意志の通りに行動したり、自分の主張を思い通りに表現したり、実現したりすることだと考えているのではないかと思います。それが間違っているとは言えません。それも確かに自由です。そしてその自由はとても尊いです。
 世界中の至るところで、歴史上なんども、人間は自由を手に入れるためにたくさんの血を流して来ています。自ら血を流してでも手に入れる価値があるもの、それが自由だと言い切る人もいます。
 しかし、その自由は時に過ちを犯すこともあります。いったん自由が手に入り、思い通りの言動ができると、品性の無い言葉や傲慢な行動をとったり、自分以外の尊厳を踏みにじり、権利を奪うことがあります。
 「誰でも本来は自由なのだ」と言葉で言うのは簡単ですが、本当に「全ての人は完全に好き勝手して良い」ということにすると、個々人や集団の持つ他者への影響力というのはそれぞれ違いますから、結局強い者が弱い者を食ってしまう。弱肉強食の世界にしかなりません。
 そのような社会では、力を持つ者や偶然恵まれた境遇に生まれた者が自由を謳歌する一方で、弱者が自分の権利を主張するチャンスは奪われ、そんな弱者がいなかった事にさえされてしまいます。

数字で計る欲望

 自由を謳歌する人の多くは、自分の欲望を満足させる権利と能力を「自由」と呼んでいるに過ぎないのではないか、と私は思うことがあります。
 たとえば、「欲望が人類を進歩させた。欲望こそが人間の生きる原動力だ」と言い切る人がいます。そういう風に生徒さんたちの教えている先生が実際にうちの学校にいたりなんかもします。
 「欲望を満たしたいから満たすための努力をし、その努力が成功を生み出す。そうやってどんどん人間は進歩してゆく。故に欲望こそが生きる原動力である」というわけです。
 それは、ある面では間違ってはいないと思います。例えば「勝ちたい」という欲望、「強くなりたい」という欲望、「豊かになりたい」、「何かを成し遂げたい」など……そういうものが無ければ張り合いがなく、生きていても面白くないのではないかと思います。
 しかし、欲望というのは増大するに任せておくと、とんでもない災いを引き起こします。特に今の世の中は、あらゆるものの価値がお金の金額に換算されて評価されるので、成功とはお金がたくさん儲かることだと思っている人が大半を占めるようになりました。その行き着く先が、たとえば原子力発電所の事故であったり、高速鉄道の衝突落下事故という形で、今現れているのではないかと思います。

欲望のツール

 それは単に、政府関係者や大企業の経営者たちが、欲望の奴隷、金銭の奴隷になっているというに留まりません。確かに、あれだけ放射能をまき散らしておきながら、まだ原発を事業の柱にすると言っているのを聞くと、欲望の奴隷とはこういう物かと思います。
 しかしそれ以上に、たとえば日雇い労働者の町、釜ヶ崎に行って話を聴くと、特に事故が無い時でも、定期点検の際には、放射能まみれの原子炉の炉心部分を雑巾で拭いてまわるといったような非常に原始的なメンテナンスが必ず必要なのですね。
 そういう事をやらされるのは当然電力会社の社員ではなく、下請け、孫請け会社でもなく、ひ孫請け以下の派遣業者に雇われた日雇い労働者で、釜ヶ崎からも各地の原発に人が送られています。
 原子炉が安全か危険かという論議に対して、私自身も素人なので責任のある事は言えないのですが、それでもやはり確実に危険だと思うのは、この点です。つまり、どんなに原子炉を開発した学者や技術者が優秀で、その設計が完璧であったとしても、実際に現場の作業に従事するのは、言葉は悪いですが、ド素人の労働者だという事です。
 ド素人の労働者が、全身を覆う作業服とマスク、そして線量計を付けて現場に入りますが、どこのボルトを締めろとか、どこのパイプの感覚を調整しろとか、部品を交換しろとか説明だけされて、放射線量が高い領域に入らされて、よくわからないなあと思っている間に線量計のアラームが鳴ったら作業を中断して出てこないといけません。また、マスクもすぐに視界が曇るので間違った作業をすることもあります。
 私は、会社員時代、建築現場に何度も足を運んだことがありますが、普通のビルを建てるだけでも、現場ではミスや食い違いなどはしょっちゅう起こります。ケーブルを通そうと思ったら、図面にあるはずの配管が入れられずにコンクリートが入ってしまってるとか。ひどい時は、そういう事をわざとやって別の会社の労働者をいじめたりとかいったことも起こります。ですから、原発の安全性を企業のトップや学者が言っても、全く意味が無いとしか私には思えないのです。

奴隷の上の繁栄

 それで、原発の仕事に行った人は、たいてい2年くらいで、ガンに侵されたり、遺伝子が破壊されて体中の細胞の再生が狂って、顔も体も直視するに耐えないような姿に変形し、苦しみ抜いて死んでゆきます。
 「原発の仕事を受けるな! 殺されるぞ!」と釜ヶ崎ではポスターやチラシで呼びかけられたりもしているのですが、労働者の中には「それでも誰かが行かんと電気が止まるんやろう?」と言う人がいるわけです。特に、「どうせワシはもう歳やし、老い先短いから、行ったるで」と年配の方がそうおっしゃる。そういう人の善い、慎ましい人たちの屍の山の上に、私たちの文明が築かれているわけです。
 もうこれはまさに、旧約聖書に書かれている、ヘブライ人の奴隷労働の上に成り立っていたエジプト文明と同じですね。出エジプト記は、神がモーセを選んでヘブライ人のリーダーにし、エジプトに幾つも災いを下してヘブライ人を解放したと伝えていますが、長年、奴隷労働を使って発展した社会の構造は、今の日本でも何も変わっていません。
 「奴隷制」という制度こそありませんが、実質的には奴隷労働によって私たちの社会は維持されています。これが罪ではなくて、何でしょうか。私自身もその繁栄に与って生きており、私はその事を自分自身の罪として告白しなければならないと思っています。ヘブライ人の屍の上に立つエジプト人は、私自身なのだと思います。
 その事に気づく時、私たちは自分が自由であることを素直に喜べるでしょうか。自分自身が快適に暮らしたいという欲望の奴隷であり、他人にも奴隷になる事を強いています。
 本日の聖書の箇所に「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とありましたが、人の犠牲によって欲望を満たす事が、神の真理によって与えられる自由だと言えるでしょうか。

良心に束縛された自由

 もうひとつ新島襄の言葉に、「良心に束縛された自由」というものがあります。アンドーヴァ神学校で身につけた自由への考え方です。
 冒頭でも申しましたように、無制限の自由は弱肉強食の社会を作り出します。そういうことのないように、世間では法律や条例などで規制をかけます。しかし、法律、条例を立法化する権利を持つ者を監視し、牽制する仕組みが弱くなると独裁が始まり、やはり自由が奪われます。だからやっぱり規制は無くして、自由にしよう……という堂々巡りに陥る危険性があります。
 新島は会衆派(すなわち組合派)のキリスト教から「人間の自由を束縛するのは良心のみである」と学びました。「良心」というのは、「愛」と言い換えても差し支えないと思います。人間は全く自由であるべきだが、唯一、愛によって束縛されていなければならない、ということです。
 あるいは、人間は自由に生きてよいのだが、その自分の行為が愛に基づいているか、他者の自由や権利や命を犠牲にしていないか、常に検証を必要とするのだ、という風に言い換えてもいいと思います。
 まさに、コリントの信徒への手紙でパウロも書いているように、どんなに素晴らしい事をやっても、
「愛が無ければ、無に等しい」(コリントの信徒への手紙(一)13:2)。私たちは一見、愛の行為に見えることも、本当に愛になっているのかどうかを常に見つめつつ、愛のために自由を用いる生き方をすることが奨められております。
 その愛は他人から強制されるものではなく、全く自由に、自発的に行なう愛でないと意味がありません。
 そして更に、その愛は最終的に、自分の命を棄てることによって完成される、というのがイエスの説いた愛であります。

隣人愛を超えて

 キリスト教というのは、「隣人を自分のように愛しなさい」(ローマの信徒への手紙13:9ほか)という言葉がその中心的な教えで、「隣人愛の宗教」と呼ばれたりもするのですが、実はこれは初心者向けの教えでして、ナザレのイエスはそこを更に突き抜けてゆきます。
 たとえば、今日お読みしたのと同じヨハネの福音書には
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と記されています(ヨハネ15:13)
 また、
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)という言葉もあります。つまり、人に全てを与えて自分は消え去るという方法でしか、次の世代は育ちませんよという事です。
 さらにこれに続いて、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(ヨハネ12:25)とも書かれています。
 つまり、最終的には自分という存在が消える事を前提として愛するということが完全な愛である、ということなのですね。
 人間はある程度自分の欲望を抑えたり、離れたりする事はできますが、完全に全ての欲望から解放されるということはありません。最終的には、自分という存在が消え去る、すなわち死ぬことによってしか、全ての欲望への執着から離れることはできません。
 自分の行いによる結果が残るのを見て喜ぶとか、そういうささやかな喜びでさえも自己満足への欲望として否定するならば、人は死ぬ事によって愛する他は、純粋に人を愛しきるということはできません。

生きているのは私ではない

 イエスはそこまで突き詰めてしまい、そして実際に自分が死に追いやられる運命から逃げず、名誉も尊敬も慰めも何も無いまま、恥をかき、呪われ、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と叫びながら、それでも自らの死によって人類に愛をもたらしました。
 さらにこのイエスの思想を補っているのがパウロで、こういう事を言います。
「誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(コリント〔1〕13:3)
 イエスは、「最高の愛とは死ぬことと見つけたり」と説いたわけですが、パウロは「その自己犠牲の死には、本当の愛がなければ意味が無いのだ」と問い返します。ひょっとしたらパウロは、人に安易に命を捨てて欲しくないので、「自分の心に本当に愛があるか、自分の動機は愛になっているのかをまず検証しなさい」という意味で言ったのかも知れません。
 とにかく私たちは、最終的には死によって全てを棄てることで完全に自由になれますし、自分の欲望のために人を奴隷にすることを止めることができます。
 しかし、死ねば自動的に愛になるのかというと、当然そういうわけではなく、当たり前の事ですが、生きていなければ愛するということはできません。
 ですから私たちは、生きている限り完全に自分から自由になれるわけではないにせよ、自分の栄光の為ではなく、他者の益のために愛する。そして他者を愛している自分の姿に陶酔する事も無く、全てを手放して与え、与えた物に自分の刻印を残すこともなく、自らは消え去るのみ。そのような自由な愛をささげるために私たちは、「それは私の愛ではありませんから」という認識に進みます。
 愛しているのは私ではない。生きているのは私ではない。私の中にイエスが生きて、イエスが私たちを愛してくださっているのであり
(ガラテヤの信徒への手紙2:20参照)、私はその手足となって動いている者に過ぎない。
 故に私は「イエスの奴隷(耶蘇の奴隷)」であり、「真理の囚人」である、となるのであります。

真の自由人

 他の何者の支配も受けず、完全に自由な者となるために、私たちは「イエスの奴隷」になります。そのためにパウロは、「自分はイエスと共に十字架で死んだのであり、死んだ自分の中にイエスが復活して、私を活かしてくださるのだ」という信仰を編み出しました。それによって、私たちに「生きながらにして死に、死んだ者だがイエスに生かされて、愛する」という道が開かれたのであります。
 私の利益でも名誉でも満足の為でもなく、また自分が属している組織の存続や繁栄のためでもなく、ただイエスが人を愛するための道具として私を用いてくださる。だから私はイエスの奴隷である。しかし、イエスの奴隷だからこそ、全てから解放された本当の自由人なのであります。
 この自由な愛は、洗礼を受けたから得られるとか、キリスト者のみに見られるものではありません。
 「ワシが行かんと、みんなが困るんやろう? ワシはもう歳やし、老い先短いから行ったるで。最後は死んでのご奉公や。墓はいらんぞ」。と笑って死地に向かうような、素朴な一奴隷労働者の言葉と行ないの中にも、そういう愛があると思います。
 私たちはそれを、イエスと共に十字架で死んだ者となって、「生きる」のではなく「生かされて」、家庭でも、地域でも、職場でも、そして教会でも、耶蘇の奴隷となって奉仕する者となりたい。
 そしてそれにより、誰をも自分の奴隷にしないような社会に少しでも変えてゆきたい。そう思うのであります。
 祈りましょう。

祈り

 主イエス・キリストと、その父であり、聖霊である神さま。
 ここに私たちを集めてくださり、あなたの前に己を空しくして、礼拝をお捧げできますことを、心より感謝いたします。
 どうか私たちを通して、あなたの愛をこの世に成らせてください。
 私たちが自分たちの栄光のためではなく、あなたの愛の道具として常に自らをあなたに明け渡しておれますように。
 そして、この世において、誰もが奴隷にならないような、あなたの自由と愛の支配する社会を実現できますように、どうか私たちを用いてください。
 足らざる感謝と願いの祈り、イエス・キリストの名によって、お捧げいたします。
 アーメン。

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